プロローグ 前編 暗黒皇帝、裏切られる
――弟よ。
よもや、貴様がその魔を極めていたとはな。
戦火は、既に三日三晩にわたって大地を焼き続けていた。
余が世界を我が版図へ収めんと始めた大戦も、いよいよ終幕を迎えようとしている。
この大陸で、ただ一国。
最後まで余の軍門に降らなかった聖王国。
余はその聖騎士団と、彼らが戴く聖王女を相手に、自ら前線へ立ち続けていた。
聖騎士団の結界術は厄介極まりない。
余が誇る全属性混合魔法〈混沌相〉をもってしても、一撃では打ち砕けぬほど強固であった。
加えて、聖王女が振るう浄化の光。
あの光は、暗黒皇帝と讃えられし余の闇すら、僅かながら焼いた。
三日三晩。
一睡もせず、休む間もなく魔力を注ぎ続けた。
万軍を蹴散らしてなお倒れぬこの身も、さすがに限界へ近づいていた。
それでも。
勝利だけは、疑うべくもない未来として余の掌中にあった。
――はずだった。
「陛下。東部戦線より、戦況報告にございます」
余が呼び出されたのは、戦場の後方に設けられた円卓の間であった。
軍議の場ではあるが、護衛の兵は一人として置かれていない。
円卓の英雄。
ここに列することを許されるのは、主席たる余と、余が自ら選び抜いた十ニ人の英雄だけ。
かつて余の帝国が併呑した十をこえる諸国。
その王家の血脈や、各地で民から慕われていた傑物英雄の中から、ただ一人ずつを引き抜き、余の直臣として叙した。
忠誠と引き換えに、絶大な権力と力を与える。
旧王国の誇りを奪うのではない。
円卓の一席として、新たな栄誉へ昇華させる。
それは支配の仕組みであり、同時に余なりの敬意でもあった。
少なくとも、余はそう信じていた。
もっとも、十三の椅子が全て埋まっていたわけではない。
十二席「腐骨聖者」は、南方遠征で戦死した。
ただし、死してなお魂を亡骸へ縛りつけるリッチの秘術を極めていた男だ。
いずれ何食わぬ顔で円卓へ戻ってくるであろうと、余は半ば本気で考えていた。
十三席は、さらに古い戦役で行方を絶った。
骸すら発見されず、今も席次だけが残されている。
そして三人の英雄は、別戦線への遠征中。
三席、五席、六席。
あの三人がこの場にいれば、この裏切りは成立しなかったであろう。
主席。
二つの空席。
三人の不在。
残る者は、ちょうど七人。
その七人が、余を待ち受けるように円卓を囲んでいた。
最奥。
余の右手に最も近い二席に、一人の青年が座している。
奴に対してだけは、僅かな警戒すら抱いていなかった。
当然だ。
名はユリアン。
余の弟であり、同時に、余が手ずから育てた高弟でもある。
円卓の英雄は皆、二つ名を戴いている。
だが、ユリアンにだけは異名を与えなかった。
血を分けた弟に、他人行儀な呼び名など必要ない。
そう思っていた。
「兄上、、、」
先に口を開いたのは、その弟であった。
「いえ――陛下は、もう十分にこの世界を蹂躙されました」
その一言を境に、円卓の間の空気が変わった。
抜かれる武器。
床を走る魔法陣。
張り巡らされる結界。
そしてユリアンの背後に、銀と紫の光が入り混じった幾何学紋様が浮かび上がる。
見たことのない術式だった。
紋様の中心が黒く歪み、まるで空間そのものに穴が開いたかのように陥没する。
その奥では、無数の光が星々のごとく瞬いていた。
「――時空魔法か」
思わず、声が漏れた。
炎、水、風、土、光、闇。
あらゆる属性を極め、禁書庫に眠る古代魔法すら手中に収めた余でさえ、時間と空間へ干渉する術だけは完成させられなかった。
理論上は存在し得る。
だが、人の身では到達不能。
余はそう断じ、研究を捨てた。
その領域へ、この弟は辿り着いていた。
「兄上に、才を認めていただくために始めた研究でした」
ユリアンは寂しげに笑った。
「皮肉なものです。完成した頃には、貴方を封じるための魔法になっていた」
その声に、憎悪はなかった。
あったのは静かな諦観と、遠い日々を懐かしむような哀しみだけ。
そこで余は、ようやく一つの事実に気づいた。
この三日間。
なぜ余は、聖王国を完膚なきまでに滅ぼさなかったのか。
なぜ聖王女を生かしたまま、降伏の余地を残し続けたのか。
ユリアンが、あの聖王女へ密かな想いを寄せている。
余はそれを、薄々察していたのだ。
ともに育った弟可愛さに、無意識のうちに手心を加えた。
その甘さが戦いを長引かせ、余を消耗させ、今この瞬間の隙を生んだ。
何とも皮肉な話ではないか。
「七人がかりか」
余は玉座から立ち上がった。
「それも、余の可愛い弟が引導を渡すときた。上等だ」
余は嗤った。
動揺を隠すためではない。
この絶望的な状況においてなお、腹の底から湧き上がる愉悦を、抑えられなかったのだ。
円卓を囲む者たちを、改めて見渡す。
四席「千鎖絶界」オーレン。
灰色のローブを纏った初老の魔導士。
結界と拘束術において、帝国で奴の右に出る者はいない。
既にその足元には、幾重もの拘束陣が展開されていた。
転移も、飛行も、影への潜伏すら封じるつもりであろう。
その隣に立つのは、七席「雷影双牙」ヴォルテ。
そして八席「疾風双牙」ヴァンテ。
獣人族最強と称される、双子の姉妹である。
姉は父方の虎相を。
妹は母方の狼相を。
同じ腹から生まれながら、異なる獣相を色濃く継いだ稀有な双生児。
姉のヴォルテは、虎獣人の槍士。
雷光を纏う長槍を肩へ担ぎ、獲物を前にした猛獣のような笑みを浮かべている。
妹のヴァンテは、狼獣人の暗殺者。
両手に風牙ダガーを逆手で構え、凍りついた眼差しを余へ向けていた。
雷が獲物を正面から追い立てる。
風が逃げ道を塞ぎ、死角から喉笛を裂く。
二人が並ぶとき、戦場から「逃走」という概念が消える。
それが、余自ら鍛え上げた双牙の狩りであった。
「……陛下ぁ」
先に口を開いたのはヴォルテだった。
槍の穂先から紫電が弾ける。
好戦的な笑みを浮かべてはいるが、瞳の奥では怒りが燃え盛っていた。
「あの日、あたしだけを愛するって言ったよねぇ?」
「……何の話だ」
「惚けるな、暗愚」
低く、冷たい声。
ヴァンテが一歩前へ出る。
「姉様にそう囁いたのと同じ月の下で、私にも言ったはずだ」
風牙ダガーが、微かな風鳴りを立てた。
「“お前だけだ”と」
円卓の間が、剣呑さとは異なる種類の冷気に包まれる。
余は内心で、しまった、と舌打ちした。
だが、皇帝たる者、女一人二人の色恋沙汰で狼狽えるわけにはいかぬ。
「くく……何を今更」
余は肩をすくめた。
「皇帝たる者、口説き文句の一つや二つ、社交辞令のようなものであろう。むしろ光栄に思え。余がわざわざ言葉を選んでやったのだからな」
一瞬。
姉妹の纏う殺気が、完全に無音となった。
「……社交辞令、ねぇ」
ヴォルテの笑みが消える。
「聞いた、姉様」
ヴァンテは短く告げ、刃を構えた。
「なら、こちらも丁寧に返そう」
「いいねぇ」
ヴォルテが牙を剥く。
「突き殺してやるよ!」
双子は、同時に地を蹴った。
紫電が爆ぜた。
ヴォルテの姿が視界から消え、次の瞬間、雷槍の穂先が余の心臓へ迫る。
踏み込みだけで床石が砕け、轟音が遅れて円卓の間を揺らした。
僅かに身を捻り、槍を躱す。
だが、雷光はそのまま壁を蹴り、鋭角に軌道を変えた。
二撃。
三撃。
一撃離脱を繰り返しながら、ヴォルテは余の周囲を雷となって駆け巡る。
一方、ヴァンテの姿は見えない。
姉が生み出す雷鳴と衝撃、その陰へ気配ごと溶け込んでいる。
風牙ダガーが放たれた。
風に乗った刃は弧を描き、余の死角へ回り込む。
避けたはずの一刃が旋回し、背後から再び首筋を狙った。
雷光が目を焼く。
風刃が、その一瞬の隙へ滑り込む。
「相変わらず厄介な風と雷よ」
余は紙一重で刃を弾いた。
「あたしの雷で正面を穿つ!」
ヴォルテが叫ぶ。
「ヴァンテの風で死角を獲る!」
「説明する必要はない、姉様」
「堅いねぇ!」
雷槍が、再び余の胸元へ突き込まれる。
余は雷を掌で受け流し、風刃を闇の盾で弾いた。
「くく……仕込んだ甲斐があったというものよ、双子め」
だが、攻撃は終わらない。
九席「魔紋剛斧」ドルガが立ち上がった。
オーガの部族を束ねる族長。
この場にいる誰よりも巨大な肉体には、鎧の一枚すら纏われていない。
必要がないのだ。
褐色の肌を這う呪印は、並の剣も魔法も弾き返す。
その手に握られた巨大な戦斧は、余の臣下の中でも奴一人にしか扱えぬ。
ドルガは戦斧の石突きを床へ打ちつけた。
重い音が響く。
「陛下」
「何だ、ドルガ。貴様も世界平和とやらに目覚めたか」
「陛下は、オラの姉と、妹と、従姉妹にも手ぇ出しただ」
双子の猛攻さえ、一瞬止まった。
円卓の間へ、奇妙な沈黙が落ちる。
「……待て」
余は眉をひそめた。
「妹はともかく、姉と従姉妹は誤解ではないか?」
「全員、陛下から同じ首飾りを贈られただ」
「贈答品をまとめて発注しただけであろう」
「裏に全員、“我が唯一の月へ”と彫ってあっただ」
「彫刻師の不手際だな」
「御命頂戴しますだ」
ドルガは戦斧を構えた。
朴訥な口調だが、その瞳には族長としての揺るぎない覚悟がある。
「オラの一族では、女の心を弄んだ男は、その命で償う掟だ」
余は僅かに口ごもった。
オーガの一族にまで手を伸ばしていた記憶は、正直なところ曖昧である。
だが、それを今ここで白状するわけにもいかぬ。
沈黙を破ったのは、オーレンであった。
「……陛下」
初老の魔導士が、深々と溜息をつく。
「双子だけでも十分に呆れておりましたが、ドルガ殿の一族にまで手を伸ばしておられたとは」
「見境がないにも程がありますよ、兄上」
ユリアンまで冷ややかに言った。
フードを目深に被った小柄な少女が、くすくすと肩を揺らす。
十一席「魔獣血姫」リル。
ハーフヴァンパイアの召喚術師。
「陛下って、種族すら選ばないんですね。ボク、ちょっとだけ感心しました」
「うるさいわ、貴様ら全員!」
余は一喝した。
だが、心中では認めざるを得なかった。
これは分が悪い。
裏切りの理由が、世界の蹂躙や時空魔法の完成といった大義だけではなく、余自身の女癖にも起因しているのだとすれば、これほど締まらぬ最期があろうか。
「くく……相分かった」
余は不敵に笑った。
「今宵ばかりは、余にも僅かな非があったと認めよう」
「僅か?」
オーレンが眉を上げる。
「それはそれ、これはこれよ!」
余は言い切った。
「皇帝たる者、女への詫びを命で払うものではない!」
「陛下」
リルが静かに呼びかける。
「ボクのことも、愛すると言いましたよね」
余の口元が僅かに引きつった。
「くく……なんだ、お前もか。だが皇帝なぞというものは、誰にでも――いや、待て。そもそも貴様は――」
「待たせたね」
リルが微笑む。
「ボクの子たちが、先に挨拶したいって」
彼女の影が膨れ上がった。
狼とも獅子ともつかぬ異形の使い魔が、次々と影から這い出し、余へ殺到する。
牙が喉元へ迫り、余は咄嗟に身を捩った。
言いかけた言葉は、獣の唸りにかき消される。
――言わせぬつもりか。
一瞬だけ見えたリルの瞳。
そこに浮かんだものが恐怖なのか、それとも別の何かなのか、余には判じきれなかった。
七人がかり。
否。
それぞれが余の力と弱点を調べ尽くしたうえで組まれた、完璧な布陣。
しかも余は、三日三晩の激戦で魔力を消耗している。
万全であれば容易く振り払えたはずの包囲が、今だけは恐ろしく重い。
ならば。
小細工は要らぬ。
余は右手を掲げた。
これより紡ぐは、余が生涯で十指に満たぬ回数しか行使したことのない真名の呪。
「――聞け」
使い魔の動きが止まる。
大気が震えた。
「天地開闢よりこの方、名もなく、形もなく漂いし混沌よ」
掌の中心に、小さな渦が生まれる。
「汝は炎にして氷。光にして影。生にして死」
赤。
青。
緑。
褐。
銀。
黒。
六色の光が、渦の中へ集まっていく。
「人の理が汝を六つに引き裂き、御しやすき僕へと堕としたその日より幾星霜」
床が砕けた。
円卓が軋む。
「今この時、忌まわしき分断の呪縛を、我が意志にて解き放たん」
ユリアンの顔色が変わった。
「全員、構えてください!」
遅い。
「紅蓮よ還れ。蒼海よ還れ。翠風よ還れ。黄土よ還れ。白光よ還れ。玄闇よ還れ」
六色が溶け合う。
本来、決して混ざり合わぬはずの属性が、虹色の奔流へ変わっていく。
「六つの理、砕けて一つに。還りて全に」
余は嗤った。
「我が名はヴァルガイア」
暗黒皇帝。
全属性を支配し、六つの理を一つへ戻す者。
「汝らを統べし者にして、汝らを再び野へ放つ者なり」
全属性混合魔法。
余が編み出し、余のみが行使し得る禁呪。
〈混沌相〉。
消耗しきった魔力では、威力は本来の七割にも満たぬ。
それでも、人を七人消し飛ばすには十分であった。
「――砕け散れ」
虹色の光が、あたりを呑み込んだ。




