序章・ある派遣社員の末路
それは――失われた四十年。
かつて世界第二位の経済力を誇った日本は、長い停滞の果てに、見る影もない国へと成り果てていた。
時は二〇二九年。
福島第一原子力発電所事故への対応は遅々として進まず、経済的な理由から結婚も子供を持つことも諦める若者が増え、少子高齢化は加速度的に進んでいた。
人口は大幅に減少。
社会を支えるはずの現役世代は減り続け、高齢者ばかりが増えていく。
それだけではない。
日本は長年にわたって技術への投資を怠り、技術職の待遇まで削り続けた。
結果として、優秀な技術者たちは日本を見限った。
向かった先はアメリカ、中国、インド、そして東南アジアの新興国。
人材が流出すれば、当然のように技術も失われていく。
日本の工業技術は停滞し、国際競争力は低下。
企業は次々と海外へ生産拠点を移し、国内では産業の空洞化が進んでいった。
最後まで残ったのは、観光くらいだった。
そして産業が衰退すれば、税収も減る。
年金。
健康保険。
介護保険。
かつて当たり前のように存在していた社会保障制度は、次々と維持できなくなっていった。
そんな国で、未来を信じられる人間がどれだけいただろう。
そして政府は、とうとう一つの制度を導入した。
六十歳以上で本人が望む場合、ヘリウムガスによる安楽死を認める。
死後の遺体についても、行政が無料で焼却処理する。
生きることさえ贅沢になった国。
未来に希望を持てるはずもない。
そんな二〇二九年を、俺――前田健二は六十歳で迎えていた。
俺は、もともとは体育会系の新卒社員だった。
北海道拓殖銀行に入社し、銀行員として働いた。
だが、その北海道拓殖銀行は破綻。
転職活動もうまくいかなかった。
そこからはフリーター。
そして派遣社員。
なんとか食いつなぎながら、気がつけば六十歳。
特別な才能もない。
金もない。
家族もいない。
そして六十歳になった俺に、会社から告げられた。
――今回の契約更新はありません。
つまり、クビだ。
「もう……どうしようもないな」
部屋へ戻った俺は、しばらく何もない天井を眺めていた。
働く場所はない。
貯金もほとんどない。
年金制度だって、とっくにまともに機能していない。
再就職できる見込みなんて、それこそゼロに近い。
「死ぬしかないか……」
不思議と恐怖はなかった。
むしろ、疲れていた。
もう頑張らなくてもいい。
そう思った。
だから俺は、安楽死施設へ向かって歩き始めた。
ところが――。
人生というものは、最後の最後まで思い通りにはならないらしい。
交差点を渡っていた俺に、一台の乗用車が突っ込んできた。
運転していたのは、後期高齢者。
しかも認知症を患っていたらしい。
ブレーキを踏むこともなく、車は俺を撥ね飛ばした。
地面に叩きつけられる。
視界が赤く染まる。
身体から急速に力が抜けていく。
「ごふっ……」
もう何も見えない。
痛みすら、遠ざかっていく。
「安楽死施設で死ぬのも……車に轢き殺されるのも……そう変わらない……か」
そんなくだらないことを考えながら、俺の意識は闇へと沈んでいった。
そして――。
次に目を開けた俺がいたのは、地獄とも冥界ともつかない暗黒の世界だった。
周囲には何もない。
ただ、果てしなく暗い。
その闇の中に、一人の女が立っていた。
いや。
本当に「女」と呼んでいい存在なのかは分からない。
女性らしい姿をしている。
だが、その全身には蛆が這っていた。
頭。
胸。
腹。
陰部。
両腕。
両足。
そのすべてに、蒼白い蛇が絡みついている。
普通の人間なら、見ただけで腰を抜かすだろう。
だが――。
「ふむ」
その存在は、俺を見て少しだけ目を細めた。
「お前は私の姿を見ても驚かぬのか?」
「ああ……」
俺は肩をすくめた。
「バイトで特殊清掃もやってましたからね」
「特殊清掃?」
「死体の処理とか、そういう仕事ですよ」
「なるほど」
女は納得したように頷いた。
「ならば、自分の遺体がどのような姿になっているかも想像できるか」
「まあ……車に轢かれたんですから、相当ひどいでしょうね」
我ながら、妙に冷静だった。
死んだという実感がないからかもしれない。
そんな俺を見て、女は小さく笑った。
「そうか」
そして――。
「ならば話は早い」
声の調子が変わった。
「いまや大倭豊秋津島では、我が子孫が絶える寸前のようだ」
「大倭豊秋津島……」
聞き慣れない名前。
だが、意味は分かる。
日本。
「……確かに」
俺は頷いた。
「もう、日本人は滅びる寸前と言ってもいいでしょうね」
「私も、それを望んではいない」
女は静かに答えた。
「だから、お前にもう一度機会を与えよう」
「機会?」
「お前の魂に、今までの記憶を残す」
女が手を伸ばす。
「そして知的な能力を底上げしたうえで――生まれた時まで戻してやる」
「……え?」
思わず聞き返した。
「生まれた時に?」
「ああ」
「本当に……そんなことができるんですか?」
「できるとも」
あまりにもあっさりと言われて、逆に困惑する。
「その代わり、一つ頼みがある」
「頼み?」
「大倭豊秋津島の民が滅びるのを阻止してほしい」
俺は黙り込んだ。
日本を救う。
そんなこと、俺にできるのか?
銀行員として大した成果を残したわけでもない。
政治家でもない。
経営者でもない。
ただの、うだつの上がらない派遣社員だった男だ。
「そんなことが……俺に?」
「お前には未来の記憶がある」
「それだけで?」
「それだけではない」
女は微笑んだ。
「一日で千五百の産屋を立てる――その言葉を思い出させるのだよ」
「……誰に?」
「それは――」
女は一瞬だけ遠くを見た。
「我が愛しき兄にして夫に」
意味が分からない。
だが、問い返す暇はなかった。
「さあ、行くがいい」
その瞬間。
身体がふわりと浮き上がった。
まるで何かに引っ張られるように、俺の意識は急速に遠ざかっていく。
そして――。
俺は意識を失った。
◆
「……ん?」
次に目を覚ました時。
俺の目の前には、見慣れた天井があった。
いや。
見慣れているというより――。
「ここは……」
ゆっくりと身体を起こす。
視界に入ったのは、古びた勉強机。
その上には教科書。
壁にはポスター。
そして、本棚。
どれもこれも懐かしい。
「俺の……子供部屋?」
思わず呟いた。
その時だった。
階下から、聞き慣れた声が響いてきた。
「健二ー! そろそろ起きて歯を磨きなさい!」
「……母さん?」
胸が締めつけられるような感覚がした。
何十年も聞いていなかった声。
「はーい! 今起きるー!」
反射的に返事をしてしまう。
そして、机の上に置かれていたカレンダーを見る。
「……一九八四年?」
頭が真っ白になった。
俺はベッドから飛び起きる。
鏡を見る。
そこに映っていたのは――。
六十歳のくたびれたおっさんではない。
まだ少年と呼べる年齢の俺だった。
「……嘘だろ」
頬をつねる。
「痛っ!」
夢じゃない。
しかも、おかしなことに前世の記憶は完全に残っていた。
北海道拓殖銀行に入社したこと。
その後、銀行が破綻したこと。
転職に失敗したこと。
派遣社員として働き続けたこと。
そして二〇二九年。
俺が死んだことまで。
全部覚えている。
だが、それだけではなかった。
現在の俺が経験してきた人生も、ちゃんと覚えている。
つまり――。
俺は過去に戻った。
それも、記憶を持ったまま。
「……本当に、やり直せるのか」
窓の外を見る。
まだ何も壊れていない日本。
これから失われる四十年。
俺は、その始まりに立っている。
そして、ふと思い出した。
この時代、テレビでは『スクール☆ウォーズ』――ラグビーを題材にした学園ドラマが放送されていた。
前の人生の俺は、その影響を受けた。
高校でもラグビー。
大学でもラグビー。
そして、体育会系の新卒として北海道拓殖銀行へ。
「……いや」
俺は首を振った。
「そこから変えよう」
ラグビーが悪いわけじゃない。
だが、俺が前の人生で選んだ道が正しかったとは、とても思えない。
「まず、体育会系の道はやめる」
そして、その先を考える。
「民間銀行への就職もなしだ」
未来を知っているのなら、選択肢はいくらでもある。
技術者になる。
研究者になる。
起業する。
政治家になる。
あるいは――。
「キャリア官僚……か?」
日本という国そのものを変えるなら、国家の中枢に入るという手もある。
俺には四十年以上先の未来を知る知識がある。
それを使えば、何かができるかもしれない。
いや。
やらなければならない。
あの冥界で出会った、あの存在との約束を果たすためにも。
俺は机の前に座った。
そして、これから始まる人生について考える。
「……大倭豊秋津島を救う」
その言葉を、口にしてみる。
日本を救う。
言葉にするだけなら簡単だ。
だが、どうやって?
少子化を止めるには?
原発事故を防ぐには?
技術者の流出をどう防ぐ?
産業の空洞化をどう食い止める?
年金や社会保障制度をどう維持する?
そもそも――。
「俺一人で、そんなことができるのか?」
分からない。
分からないが、一つだけ確かなことがある。
前の人生では、何もできなかった。
だからこそ――。
今度は違う。
六十歳で人生を終えた俺に、二度目の人生が与えられた。
ならば、この人生。
日本が滅びる未来を変えるために使ってやろう。
「まずは……勉強だな」
俺は教科書を開いた。
四十年前の俺は、まだ何も知らなかった。
だが今の俺は違う。
この先、日本に何が起こるのかを知っている。
そして――。
その未来を変えるための時間は、まだ四十年以上も残されている。
失われた四十年を、もう一度。
今度こそ、日本に未来を取り戻す。
それが、二度目の人生を与えられた俺の使命だった。




