デネブ
珍しく星がよく見える日だった。缶ビールを片手にベランダに出る。天体観測なんて立派なモノではないが、何となく星空を見上げるのもたまには良いかも知れないと思ったのだ。
はるか昔、学生時代に覚えた星座を探してみる。白鳥座のデネブと琴座のベガ、鷲座のアルタイルが作り出す夏の大三角形が有名どころか。
実際、夏の星座なんてこの大三角形くらいしか覚えていない。冬ならばまだ、オリオン座やカシオペア座なんかを覚えているが。本当は夏の方が星を見上げる機会は多かったように思うのだが、キャンプなどで見上げた満天の星空の中では、逆に星が多すぎて星座を探す事が出来なかったのかも知れない。
「ベガ…か」
呟いてみる。ベガは七夕の織姫だ。そしてアルタイルが彦星。その二つと一緒に夏の代表的な星座になっているデネブと自分がダブって見えた。
織姫と彦星は相思相愛の仲。仲が良すぎて仕事を疎かにした罰として、年に一度しか逢瀬を楽しむ事は出来ないが、それだけ愛情が深かった証拠だ。
その二人の間に割って入って仲間のような顔をしている。
まるで今の自分にそっくりだ。
ベガは麻実。アルタイルは晃。自他共に認めるラブラブカップルといつも一緒の自分。
どうして一緒にいるのだろう。離れれば良いのにと、自分でも思う。他に友達がいない訳ではないし、一人ではいられないウサギちゃんでもない。まして三人でいるのが心地いい訳でもない。
だったら離れれば良いのだけれど、出来ない。出来ない理由は自覚している。麻実が好きなのだ。
しかし晃に麻実を紹介したのは自分。二人が付き合うようになってから、初めて自分の気持ちに気付いた、愚か者だ。今更、実は自分も麻実が好きだなど、口が裂けても言えやしない。それこそ愚か者のする事だ。
このまま仮面をつけて友人の振りを続けるしかない。好きな人の幸せそうな笑顔を間近に見られて、幸せじゃないか。そう思う事で自分を慰める。それが麻実にとっても、自分にとっても一番良い事だと思う。困らせたり、泣かせたりはしたくないのだから…。
携帯がメールの着信を知らせた。麻実からだ。麻実が自分からのメールにすぐに気付くようにと、勝手に着信音を個別設定してしまった。あまり知らないバンドだが、ブルーライオンの『ペース』という曲らしい。まだ駆け出しらしく、着メロなど配信されていないから、麻実が自分で作ったのだと得意そうに話していたのを思い出す。
携帯を開き、メールを見る。
《電話していい?》
内容はそれだけだった。
すぐに電話を掛けたい衝動に駆られたが、そこは思いとどまった。きっと、話したい事があるのだ。こちらから掛けたのでは言い出しにくいような、そんな何かが。
《OK》
簡素に返す。後は携帯が鳴るのを待つだけだ。
ベランダの手すりに寄りかかり、視線を空から海に移す。街の灯りを映す夜の海は綺麗だ。寄せては返す波の音も心地いい。多少通勤が不便になっても、海沿いの街を選んだのは正解だった。お陰で夏は海の家代わりに家族や友人が使うけれど、それも普段は一人でいる自分にとっては楽しい時間だ。
缶ビールが切れたので、新しいものを冷蔵庫に取りに行こうとした時、携帯が鳴った。
『やっほー』
陽気そうな声だった。
『今、なにしてんの?』
「ビール飲みながら海を見てる。潮風が気持ち良いぜ」
『贅沢だなぁ〜。猛ン家は海が近いもんなぁ…。羨ましいよ』
「塩害で泣きを見るって言ってたのは、何処のどいつだよ」
『そんな事言ったっけ? アハハ。忘れてよね、そんな事。執念深い男は嫌われるよ』
他愛もない話から始まった。こうして声だけを聞いていると、いつもの麻実だ。特に変わったところなど感じられない。
いや…。いつもとは違う。無理にいつも通りに振舞おうとしているような、そんな気配が感じられる。
麻実が自分で本題を話し出すまで、このまま様子を見る事にした。
『ところでさ、昨日テレビで“ゲゲゲの鬼太郎”やってたの、見た?』
「ん? ああ。実写版の? 見たよ。他に見るものも無かったし」
『ウェンツ、格好良かったね』
「そうだな。最初は鬼太郎があんなに格好良い訳ないって思ってたけど、最後まで見たら違和感は無くなってたよ」
『でしょ〜! 共演者も豪華で、それぞれのキャラにあってたし。ねぇ、今、第2弾を演ってるでしょ。一緒に見に行こうよ』
「一緒にって…。俺を誘う前に晃を誘えよ。それともアイツに断られたか?」
突然の沈黙が訪れた。
『晃…ね』
麻実はそう呟いて、再び黙り込む。
どうやら二人の間に何かあったらしい。
「どうした? 晃と喧嘩でもしたのか?」
軽い感じで訊く。
本当は体中が震えていた。麻実を泣かせるような真似を晃がしたのだとすれば、許せない。
『まだ喧嘩はしてないよ。まだ、ね』
「まだって…。これから喧嘩の予定あり、かよ。怖いっての、そんな予告。何があったのか知らんが、あんまり物騒な事はやめてくれよ?」
『物騒? やだ! いくらなんでも警察沙汰になるような真似はしないわよ』
麻実が笑う。しかし、その笑い声には覇気がない。無理をしているのが分かる。
「それなら安心だけど。どうしたん? 愚痴ならいくらでも聞くぜ」
電話の向こうで、麻実が小さく溜息を吐いた。話す決心をしたようだ。
『男の人って、どのくらいで彼女に飽きちゃうものなのかな?』
「飽きる?」
『浮気をするって、彼女に飽きちゃったからするんでしょ?』
「そうとも限らないぜ。ほら、よく言うじゃないか、据え膳食わぬは男の恥って。彼女に飽きたんじゃなくて、相手に誘われたら、ちょっとつまみ食いくらいは誰でもするんじゃねぇの?」
『つまみ食い…ね。猛もするの?』
「俺は…そもそもお誘いがないからねぇ。だいたい彼女もいないのに、どうやって浮気をするんだよ」
『彼女がいたら、の話よ』
「その場になってみないと分からないよ。誘ってきたのが好みの女の子だったりしたら、やっぱりグラッとくるんじゃね?」
答えながら、自分だったら麻実を裏切るような真似はしないと思った。
しかし、それは今の麻実が必要としている言葉ではない。麻実が必要としているのは、晃はまだ麻実の事を愛している、という言葉だ。浮気をしているらしいが、麻実が嫌いになったとか、麻実に飽きたとか、そんな事ではなく、ただの浮気なんだという言葉を聞きたいだけなのだ。
麻実自身がそれを信じるために。
『やっぱり、そういうモノなのかな…?』
「そういうモンだって。そうだ、麻実はさ、チョコレートパフェが好きだろ?」
『チョコパフェ? 好きだけど…』
「だろ? だけど、毎日毎食チョコレートパフェを食えっていったら、さすがに嫌だろ」
『まあ、ね。確かにそうだけど…』
「それと同じだって。晃は麻実の事が好きだけど、たまには他の女とも遊びたいってだけさ。気にする事はないと思うぜ」
麻実が欲しい言葉を言う。麻実を安心させるために。今の自分に出来る事はそれだけだから。
本心を言えば、すぐにでも行って抱きしめてやりたい。きつく抱きしめて、晃の事なんて忘れろと言いたい。でも、それは出来ないのだ。麻実を困らせるだけなのだから…。
『やっぱ、猛っていい男だよね』
「そうだろ? 俺っていい男なんだよ、どうでも」
『あ、バレた? なんて。本当、いい奴だと思うよ。猛が友達で、嬉しいもん』
だんだん、いつもの麻実に戻っていくのが分かる。安心したのだろう。
麻実に笑顔が戻ったなら、それでいい。笑っている麻実が一番輝いているのだから。
『なんか、お腹減っちゃった。ねぇ、パフェを奢ってよ』
「は? お前、何言ってんの? 何時だと思ってるんだよ。それに、ビールを飲んでるんだから、迎えになんて行かれないぜ」
『タクシーでくれば?』
「ふざけんなよ。お前ン家までタクって、幾ら掛かると思ってんだよ」
『アハハ。冗談だよ、冗談。話、聞いてくれてありがとね。じゃ、おやすみ』
最後は明るい声だった。これで麻実も少しは安心して眠れるのだろう。
冷えたビールを一度は出したが、冷蔵庫に戻す。今夜はもう、飲む気分ではなくなっていた。
「夕べはごめんね」
昼休み、麻実が声を掛けてきた。その表情はいつもの麻実だ。
「別に。気にするなよ」
それだけ言うと、読んでいた本に視線を戻す。麻実は隣に座ると、煙草に火を点けた。火を点けておきながら言う。
「煙草、やめようかな…」
「お前、言葉と行動が伴ってないぞ。煙草を吸いながら禁煙しようかなんて」
本を閉じて麻実を見る。
「アハハ。本当だ」
手にした煙草を見て、麻実が笑う。
「でも、煙草を吸う女は嫌いっていう男が多いでしょ?」
「そうか? 俺は自分も吸うし、気にしないけど」
「猛はそうかも知れないけど。雑誌なんかの恋愛特集なんか見るとさ、結構煙草を吸う女は減点されてるんだよ」
「雑誌ねぇ…。あれってライターの偏見なんかも入ってるから、全部が事実じゃないだろう」
「ま、そうだけど。第一、不経済だしね」
そんな事を言っておきながら、麻実は煙草を消そうとはしない。本気で禁煙するつもりはない証拠だ。
「そうだ! 夕べのお詫びに、今夜奢るよ。何がいい?」
「別に奢ってもらうような事はしてないよ。それに、それこそ不経済じゃねぇか」
「いいの。付き合ってよ、たまには。晃抜きでさ。男女の友情について熱く語り合うのもいいんじゃない?」
悪戯っぽく話しているが、何かあるのだろう。素直にそれを言えないらしい。
そんな麻実が可愛く思える。
「じゃ、一杯だけ奢られるよ。それ以外は割り勘で。友達同士で飲みに行くなら、割り勘が基本だろ?」
そう言うと喫煙室を出た。
向こうから晃が来るのが見える。手には缶コーヒーが二本。麻実の分だろう。
「お、猛。もう行くのか?」
晃が声を掛けてきた。
「ああ。早めに終わらせたい仕事が残ってるからな」
「あんま、無理すんなよ。体を壊しても、誰も褒めちゃくれないぜ」
「分かってるよ」
手を振って分かれる。少し歩いた所で振り返ると、麻実と晃が並んで煙草を吸っている姿が見えた。
こうやって見ると、やはりラブラブな恋人同士にしか見えない。楽しそうに、嬉しそうに笑う麻実。望んでも手に入れる事が出来ない麻実の表情を見ると、胸が痛んだ。
視線に気がついたのか、麻実が手を振る。晃もそれに合わせるように手を振った。
手を振り返す。やっぱり男女の友情なんてものは、どちらかが自分の気持ちを隠し通すことでしか成立しないだろう。困らせたくない、泣かせたくないから言わない。でも傍にいたい。だから、友達の仮面を被るのだ。
それでいいじゃないか。自分に言い聞かせる。麻実を困らせたい訳でも、麻実を泣かせたい訳でもない。あの笑顔は晃に向けられたものだ。晃だけに見せる顔だ。それを盗み見ているだけで、満足しなければ。
「はあ…。情けねぇ…」
溜息と一緒に愚痴も零れる。
「俺も、ちゃんと彼女を見つけなきゃ駄目だよなぁ…」
天井を仰いで、もう一度溜息を吐く。
「さあ、仕事しごと! さっさと終わらせて、今日は飲むぞ!」
気持ちを入れ替えてデスクに向かう。
今度のプレゼンに必要な企画書作りを上司の渡部から言い渡されている。ほんの少しだけ秋葉系が入っているので、PCには強い。きっちりとした資料さえ渡してもらえれば、それなりの出来栄えの企画書が作れる。本当は企画自体も考えなければならないのだが、今の所はまだそこまでの力は備わっていないようだ。何度か自分で企画したプランを提出した事があったが、すべて没だった。
「頑張ってるじゃないか」
声を掛けてきたのは上司の紗智子だった。女性の上司ではあるが、さっぱりとした性格で人気がある。
「お前がこの前提出したプランだけど、後少しだったよ。この調子で磨けば、かなり光ってくるよ、お前」
「マジっすか! ありがとうございます」
褒め言葉に思わずガッツポーズが出る。
途端、やる気が出てきた。キーボードを叩く手の速度も上がる。
終業の直前に企画書は出来上がった。自分で見ても、かなりの出来栄えだ。自信満々で紗智子に提出する。パラパラと内容を見て、紗智子はにっこりと笑った。
「上出来だよ。後でゆっくり読んで、修正してもらうかも知れないけど。今日は早く上がって英気を養っておいで」
「はい!」
思わず頬が緩む。やはり仕事で評価されるというのは気持ちがいい。
足取り軽く自席に戻る途中で、麻実が声を掛けた。
「なんか上機嫌じゃん」
「へへっ。企画書の出来栄えをほめられちゃったからね」
「へぇ。良かったね。で? 今日は定時に上がれるの?」
「おう。紗智姐からも早めに上がっていいって言われたから大丈夫だよ。麻実は?」
「アタシも大丈夫。じゃ、1階の喫煙室で待ち合わせね」
そう話しながら、視線がこちらを向いていないのに気付く。視線の先には晃がいた。晃は朝子と話をしている。仕事の話ではなさそうだ。座っている麻実は見えなかったかも知れないが、朝子が何か小さな紙切れを晃に渡すのが見えた。
嫌な予感がした。しかし、それは麻実には言えない。
「おう、分かった。じゃ、喫煙室で」
そう言うと麻実は我に返ったように頷く。
完全分煙化された社内では喫煙者は肩身が狭い。喫煙室は終業と共に満員になる。
「おまたせ」
振り返ると麻実が笑っていた。鞄から煙草を出して火を点ける。
「生き返るよねぇ〜」
紫煙を燻らせて麻実が言う。
「仕事終わりの一服のために、働いている気がするよ」
「おおげさだな」
答えながら火を消す。
「それを吸ったら行くぞ。ご存知の通り、俺は田舎者だからな。あんまり時間がないんだよ」
「分かってるよ。そんなに長居はしないつもりだし」
麻実は点けたばかりの煙草を消した。
二人並んで会社を出る。同僚で友達なのだから決して不自然ではないのだが、周りの視線が気になる。誰も二人の仲を疑ったりしないとは分かっているのに。それは下心が多少なりともあるからだろうか。
駅前の三人でよく利用する店に行くのかと思っていたが、麻実は違う店に行きたいと言い出した。何でも雑誌で見つけたらしい。新しい店の開拓なら晃と行けと言いたいところだが、その言葉は飲み込んだ。ヤキモチを焼いても仕方がない。晃と行く前の下見だったとしても、最初に一緒に行く相手として自分を選んでくれた事に感謝しよう。
その店はいつもの居酒屋とは反対側の駅前にあった。二階建ての一軒家風の造りだが、表には「洋風居酒屋」の看板が出ている。レストランではなく、居酒屋らしい。定時に上がれたお陰で、まだ店内の客は疎らだ。
男女二人連れだからだろうか。店員は店の奥の方、少し人目につかない場所に案内してくれた。別に誰に見られても構わないと思うが、少し安心した。
席につくと、社会人なら最初に頼むものは大抵決まっている。
「とりあえず、生ビールを2つ」
飲み物を注文すると、二人同時に煙草に火を点けた。ビールが運ばれてくるまで、そのまま無言で煙草を吸う。
陽気な店員がビールとお通しを運んでくる
キンキンに冷えたグラスに注がれたビールは純白の王冠を被り、とても美味しそうだ。
「じゃ、ま、乾杯」
グラスを合わせる。そのまま二人で一気に飲み干した。
「ぷはぁ」
同時に吐き出して、思わず吹き出してしまった。
「猛、じいさんになってる」
麻実は指を差して笑う。慌てておしぼりで拭った。
最初に笑ったのが良かったのか、麻実は上機嫌だった。しばらくは仕事の話をしていたが、そのうちノロケ話になる。晃が何をしたとか、何を言ったとか。聞いてもいない二人の会話を話す麻実は、やはり輝いて見えた。
麻実がどれほど晃を好きなのか、嫌というほど思い知らされる。
それを笑顔で聞くのが、今の使命だ。
先日のデートでインディージョーンズを見に行ったという話を始めた時だった。麻実は壁の方を向いているので気付かなかったが、晃が朝子と入ってきた。同じような、少し人目につかない場所に通されたせいで、晃はこちらに気付いていない。
思わず視線を逸らす。まるで恋人同士のように微笑み合うのが見えた。
「どうしたの?」
麻実が不思議そうに訊く。
「いや。ちょっと腹が減っちゃったから、メニューはどこかと思って…」
誤魔化してみる。メニューを見ている振りをして、二人の様子を窺う。ちょうど乾杯をしているところだった。それからキスでもしそうなほどに顔を寄せ合い、楽しそうにメニューを見ている。思わず立ち上がりそうになったが、抑える。
「…で、いい?」
「え?」
「だから、唐揚げとお新香と串焼きの盛り合わせ。あとシーザーサラダでいいかって訊いたの。ちゃんと話を聞いてよね」
少し頬を膨らませる。拗ねたような表情も愛らしい。自然と頬が緩む。
「ああ。いいんじゃね。それとおにぎりも頼んでいいか? ここで飯済ませちゃおうと思ってるから」
「OK。じゃ、頼むよ」
店員を呼ぼうとして麻実は振り返ってしまった。そして晃と朝子に気付く。
「やっぱり…」
麻実はそう言って俯いた。薄々あの二人の関係には気がついていたようだ。
「ちょ…、ちょっと待てよ。浮気とは限らないだろう? 例えば何か相談事とか…」
「あの様子で一体なんの相談よ!」
キレたように麻実は言った。瞳には涙が浮かんでいる。
「知ってたの、朝子も晃が好きだって事は。だけど…。だけど、私だって晃が…」
麻実が目の前で泣いている。誰よりも笑顔でいて欲しい人が、自分の目の前で、理不尽な理由で涙を流している。
頭に血が上がっていくのが分かる。それを抑えようとする努力は、忘却の彼方へと飛んでいった。立ち上がり、晃のテーブルへと走る。
先に気付いたのは朝子だった。晃に何か言いかけたが遅かった。拳が晃の頬を捉える。その音が店内に響いた。
「何すんだよ!」
晃は殴られた頬を抑えながら言った。
「お前こそ、何してんだよ。麻実がいるのに、麻実っていう彼女がいるのに、こんな…」
「待てよ。勘違いだよ。別に俺と朝子は…」
「朝子って、呼び捨てかよ。いいよな、モテる奴は!」
もう一度殴ろうとしたが、麻実が止めた。
「いいよ、猛。もう…いいよ」
「だって!」
「いいの! 晃が誰を選ぶかは、晃自身が決める事。選ばれなかった方が引くしかないんだから」
麻実はそう言うと、辛そうな笑顔を見せた。そして晃を見る。
「ちゃんと、自分で決めてね。私なのか、朝子なのか」
大粒の涙が零れる。
「行こう、猛」
麻実はそのまま店を出た。
晃は追いかけてこなかった。沈黙が二人を包む。今、どんな言葉を投げても、麻実には届かないだろう。
ここはチャンスなんだという声が、頭の中に響く。まったく逆に、今はその時ではないという声もする。別の愛情が入り込む隙がある一方で、誰からの愛情も受け付けない壁もあるのだ。
「浮気…」
麻実が小さな声で言った。
「私も…浮気したら、晃を許せるのかな?」
まだ潤んだ瞳で見つめる。その言葉の真意を読み取ろうと、麻実の瞳を覗き込む。このまま麻実を奪ってしまう事も出来るだろう。でも、それが麻実をもっと傷つける可能性もある。いや、恐らく更に深い傷になるだろう。そんな事は望んではいない。麻実にはいつでも笑顔でいて欲しいだけだ。
「…馬鹿な事言うなよ。誰と…浮気をするっていうんだよ」
そう言うのが精一杯だった。その言葉に麻実は微かに笑った。
「そう…だよね」
「一人になりたくないなら、朝まで付き合うよ。……友達なんだから…」
麻実はまた笑った。
「ありがとう…。なんで、猛じゃなかったんだろうね、私が選んだの…」
「そうだよ。こんな良い男が傍にいるってのに」
無理におどけて見せる。こんな事で麻実の笑顔が戻るなら、安いものだ。
「…ありがとう。もう、帰るね」
麻実の小さな背中が雑踏の中に消えていくのを、ただ見送っていた。追いかけるべきなのかも知れない。追いかけたら、今夜二人は友達の一線を越えることが出来るだろう。しかし、それで本当に良いのか。麻実はそれを望んでいるのか。今は自分の気持ちを考える時ではない。麻実の気持ちを、麻実の心の傷を一番に考える時なのだ。
一人家路につく。いつものように電車に揺られながら、しかしいつものようには居眠りが出来ないでいる。本も読む気にもならない。
ただ、麻実の事を考える。
携帯が着信を告げる振動を起こす。晃からのメールだった。
《麻実と一緒か?》
答える気にはならなかった。どんなに晃が浮気をしても、結局麻実が選ぶのは晃なのだと思い知らされた後だったから。
携帯の電源も切る。勝手に想像すればいいと思った。どんな想像をしても、それは晃の想像でしかない。自分と麻実はあくまで友達の範囲を超えていない。それが事実だ。勝手に想像して勝手に嫉妬すればいい。そのくらいの悪戯は許されるだろう。
「おはよう」
翌朝、麻実は笑顔だった。その隣には晃もいる。そして、朝子もそこにいた。
「昨日はごめんね」
「いや…」
「奢るって言ったのに、結局猛に奢ってもらっちゃったね」
麻実は舌を出す。いつもの麻実だ。そして晃を見る。晃も麻実を見てニッコリと笑う。そんな二人を見るのが嫌だった。
「仲直りしたのか?」
麻実を見ずに言う。麻実が微笑んでいるのが分かる。結局、麻実は晃を選び、晃は麻実を選んだという事か。だとしたら、朝子は何故この場にいるのだろう。
朝子を見る。朝子は少し恥ずかしそうに俯いていた。
「あのね。誤解だったの」
麻実が言う。
「誤解?」
「そう。晃が朝子と浮気しているっていうの、私の早とちりだったみたい」
「は?」
思わず気が抜けた返事をしてしまった。朝子を見る。何度も大きく頷いている。
「俺が浮気なんかする訳ないだろう。俺はただ、朝子の相談に乗っていただけなんだよ」
「相談って、何だよ」
晃が朝子の背中を押す。朝子は顔を上げてこちらを見た。
「わ…私、猛さんが好きなんです」
「は?」
「それで、猛さんと仲が良い晃さんに相談していただけなんです。それを誤解されてしまったみたいで…」
「ちょっ…。は? 何なの、この展開」
急に力が抜けた。一昨日からの盛り上がりが一気に冷める。麻実を好きだと再確認するような出来事が次々に起こってきた二日間だったというのに。まさか自分を好きな人がいたなんて思いもよらなかった。
晃が悪戯っ子のような笑顔を見せる。
「そういう事だから、さ。お前、朝子と付き合ってみなよ」
「ちょっ…。ちょっと待て。なんでそうなるんだよ」
「あら? 朝子じゃ不満?」
「私じゃ、駄目ですか?」
三人の視線が痛い。思わず後ずさりする。
「か…考えて…みるよ」
迫力に負けるように言ってしまった。朝子が笑顔になる。その笑顔は麻実の笑顔よりほん少し可愛いと思った。
この小説は「TM Network」楽曲のオマージュ作品です。
Inspiration TM Music:八月の長い夜