銀世界――なんて、キラキラした世界はここにはない。
それは、スキーツアーのパンフレットの中だけの世界。
雪が積もり、雪雲に押しつぶされそうなこの街は、神様が灰色のペンキ缶を蹴飛ばしてしまったかのように、一面を、暗くどんよりとした色で覆い尽くしている。
僕は、お茶を沸かそうと思い、台所に立った。
曇ったガラス窓の向こうを、大きな笑い声と一緒に、幾つかの原色が通り過ぎてゆく。
この街で元気なのは、子供達の黄色い帽子と、女の子の赤い長靴だけだ。
僕は子供達に負けないように、久し振りに食料品でも買いに外へ出ることを決めた。
近所のスーパーで済ませてもよかったけれど、今日はなんとなく遠出をしたくなり、札幌駅まで足を延ばした。
百貨店の地下で適当に食料品を漁っているうち、僕の両手はいっぱいになる。
めずらしく、ちょっと浮かれた僕の心が、歩く方向を少しずつ変えていった。
そのまま地下道を歩き、地下鉄に戻るのはなんだか悲しい気がして、僕は冷たい空気を求めて地上に出る。
数年前に建ったタワービルが、雪雲の間から、奇跡的に顔を出した淡い太陽の光を反射していた。
僕は、その眩しさに足を取られ、歩道の上をよろめいた。
その時、誰かの肩に触れて、僕の両手の荷物は、複雑な音色を奏でながら辺りに散らばっていった。
止まった時間の中で、唯一動くことの出来る、その物たちの残像を目で追いかけながら、僕はふと、思い出したことがあった。
それは、具体的な出来事ではない。
感情の記憶なのか、感覚の記憶なのか、それとも空間の記憶なのか。
ただ、はっきりしていることは、それは、とても、つらい記憶だった。
僕は走った。ばら撒いた荷物を、拾おうともしないで。
そこからの記憶はなかった。そのまま走って家に戻ったのか、もう一度地下鉄に乗ったのか。
気が付くと、屋根の雪が全部落ちそうなほど乱暴に閉じたドアの内側で、僕は買い物袋を抱いたまま、肩で息をしていた。
やっと呼吸を落ち着かせ、薄暗い部屋の全景が目に入ると、僕は彼女の存在に気づいた。
灯りも点けず、灰色の光が差し込むだけの部屋で、僕は久し振りに彼女に会った。
彼女は椅子に座り、テーブルに置いた空っぽのティーカップを、ただ無表情に眺め、そこにたたずんでいた。
僕は彼女の横で、買い物袋の底にかろうじて残った食料品を、テーブルに並べ始めた。
そして、最後の缶詰を袋から出した僕の手に、彼女は自分の手をそっと添える。
動きが止まった僕の顔を見て、彼女は言った。
あなたは、冬の淋しさを紛らわすために、知らない街を彷徨い歩いた。
多くの人と出逢い、多くの人と話し、多くの人と笑った。
でもある日、あなたは突然気づく。そこに、自分の本当の居場所がないことを。
次第にあなたは、人と会うのが苦痛になり、話す言葉に詰まり、そしてもう、笑わなくなった。
「そうだね」
僕は、彼女にぶっきらぼうに返事を投げると、台所に向かった。
やかんに水を汲み、コンロに掛けて火を点け、食器棚から紅茶の缶とポットを取り出す。
――そんなことは、とっくにわかっていたことなんだ。
僕は紅茶の入ったポットを持って、彼女の横に腰掛けた。
「ねえ、春は、来るのかな?」
彼女のカップに紅茶を注ぎながら、窓の外に降り出した雪を見て、僕は、ぽつりと言葉を漏らした。
「どうして、そんなことを聞くの?」
カップを持とうとして、それをやめ、彼女は少し困ったような顔をして僕を見る。
「だって、冬はつらい季節だから」
すると彼女は、僕には見えない背中の羽を、うんと伸ばすような仕草をして、ただ、こっちを向いて笑っただけだった。
「どうして笑うの?」
「だって」
彼女は天井を見て、ささやくように言った。
冬はまだ始まったばかりだから。
春はまだ見えない遠い先だから。
その時の僕はきっと、この狭い部屋の壁を通り抜けて、ずっと遠くを見ているような目をしていただろう。
「わたしといるのは、いや?」
彼女はテーブルのカップを横へずらすと、手を握り首を傾げて、そんな僕の顔を覗き込む。
「こうやってわたしとお茶を飲んで、お話をして、雪の音を聞いてるのは、つらいことなの?」
僕に、そのことを言わせたい彼女は、わざと悲しそうな顔をして僕の目を見つめる。
――それももう、とっくにわかっていたことなんだ。
僕は彼女の顔を見ながら、ゆっくりと、テーブルの上に言葉を並べてゆく。
「冬が、つらいんじゃなくて、春を、待つことが、つらいことなんだ」
僕が言い終えると、彼女はまるで生徒をほめる先生のように、やさしい笑顔でうなずいた。
僕は無性に彼女を抱き締めたい衝動に駆られ、椅子を蹴倒し、テーブルのポットを揺らしながら、彼女の身体に腕を回した。
「もう、春を待つのはやめる。きみとこうやって、ずっと冬の世界で生きてゆく。それで、いいんだろ」
僕の腕の強い力は、僕の弱い心を象徴し、彼女の表情をただ暗くするだけだった。
「だめよ、春は必ず来るの。そしてあなたは、わたしを忘れてしまう」
彼女はふわりと浮き上がった。幻のように、僕の両手をすり抜けて。
「どうしてきみはいつも、反対のことばかり言うの?」
情けない顔で見上げた僕に、彼女はやさしく微笑んだだけだった。
僕は立ち上がり、台所へと向かう。
「じゃあ、もう少しだけでいいから、ここにいてよ。もう一回、お茶を沸かすから」
しかし、僕がポットを持ってテーブルに戻って来たときには、もう彼女の姿はなかった。
雪の結晶が、淡い光を放ち、彼女がいた空間に漂っている。
僕は、そのままベッドに倒れ込んだ。
そして、現実のような夢と、感覚のない目覚めを、ベッドの上で何度か繰り返し、時間は過ぎていった。
数日後、ベッドから起き上がった僕は、いつものように台所へゆき、お湯を沸かし、ポットに紅茶を入れた。
テーブルにそれを置いて待っているうちに、僕はふと思い立ち、また、久し振りに外へ出ることにした。
依然として、冬はそこにあった。
相変わらず雪雲に押しつぶされそうな街は、灰色の中に沈んでいる。
薄っすらと積もった雪に足を取られながら、僕は近所のスーパーに食料品を買いに出た。
アパートの前を歩いていると、近所のおばさんが、僕の顔を見て少し驚いた表情を見せたあと、すぐに笑って「こんにちは」と言う。
僕も「こんにちは」と言った。
久し振りに出す声に慣れなくて、うわずってしまった僕のあいさつに、思わずおばさんは笑う。
僕も、一緒になって笑った。
今度はどうにか、買った物を、全部持って帰って来ることが出来た。
買い物袋をテーブルに置き、なぜか違和感を感じてそこにあるポットを覗くと、中の紅茶はなくなっていた。
雪の結晶のほのかな光が、椅子とテーブルの間を漂っている。
さっきまで、確かに彼女はここにいた。
でも今は、その姿はどこにも見えない。
彼女はふざけて、僕の真似をしているのだろうか。
僕はもう一度お茶を沸かすために、ポットを持って台所に向かった。
窓を見ると、また、雪が降り始めている。
その時、僕の心には、ひとつの小さな決心があった。
――ずっと前からわかっていて、でも、いまやっと気づいたこと。
冬はまだ続くけれど、
春はまだ遠いけれど、
僕は、春を待つことをしない。
僕は、この冬を、ゆっくりと過ごしてゆく。
時々現れる、あの気まぐれな『冬の妖精』と一緒に。
了
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