美佐
歴史と一人旅が好きだった美佐は、学生時代はアルバイトで得た給料を貯めて、連休の度に日本中の史跡を巡る旅行へ出かけた。自分が生まれ育った都会を離れ、視界を塞ぐビルも真っすぐ歩けない人混みもない、遠い過去から穏やかに流れる時間が今に続く場所を、まるで日常から逃れるように歩き回った。
美佐が歴史を好きになった理由は、過去の人々の営みから、現代に通じる知恵を知ることができるからだ。伝記や歴史書を読むことはもちろんだが、実際に史跡を訪れることも、歴史に触れる重要な要素だった。彼女はいつも過去の偉人たちと場所を共有している感覚を探した。ここにあの歴史上の人物が立っていたのだと感じることで、時間の隔たりを超越した、文字通りの「歴史」を体感させてくれるからだ。
一人旅が好きな理由は、表向きには自分の意思だけに従って自由に行動できるというものだが、実際は史跡を巡る友がいなかったからでもある。彼女の友人たちにも旅行好きは何人かいるが、行き先は大抵観光地やリゾートで、辺鄙な山奥の城趾や、歴史博物館に足が向くことはない人々だった。
美佐をよく知らない他人は「一人で知らない場所に行って、孤独を感じないの?」と尋ねることがあったが、美佐は決まって「孤独を感じてる暇なんかない」と答えた。そういう休日の過ごし方は、彼女にとって至福なのだ。
そんなときに出会ったのが英真だった。1週間ほどの京都旅行で史跡めぐりのガイドツアーに参加したとき、同じグループに英真がいた。二人は歴史に関する何気ない会話から話がはずみ、お互い同じ理由で一人旅を続けていることを知った。
年齢は美佐の方が4歳ほど上だったが、歴史以外の話題も通じることがわかると、意気投合してその後の京都旅行をともに過ごした。
親近感から愛情が湧くこともあるらしく、2人はごく自然に接近していき、旅が終わる頃にはお互いを心の友以上の存在に感じ始めていた。美佐は東京に、英真は横浜に帰る日、2人は再会を誓い合って、その翌週には約束を果たした。
2人の距離は遠慮がちだが確実に接近し、お互いの友人たちも公認するほどの仲に発展していった。
「あんたたち絶対赤い糸で繋がってるよ。生命体だってたった一つの遺伝子でどうなるかわからないんだから、それに比べたら性別なんて些末なことだよ」
英真の中学時代からの親友である千尋が、まるで姉妹のような相性の良さをそう評した。
英真が車を購入したのは、2人が付き合い始めて3年が経過した頃だった。公共交通機関で旅行するのも楽でよいのだが、時間やルートに制限をつけず、気の向くまま自由に行動したいという共通の希望を叶えるため、2人は購入費用を出し合って中古車を手に入れた。あの旅は、2人にとって初めてのロング・ドライブだったのだ。
美佐と英真は心地よい風に包まれながら、草原を貫く一本の道を歩いていた。美佐が英真に視線を向けると、彼女はうつむき加減に微笑んでいた。太陽光が彼女の輪郭を照らしている。長い髪が風に揺らいだ。
(なんてきれいなんだろう)
美佐は思わず見とれた。
英真は美佐の視線に気がついて言う。
「口が開いてるよ」
あわてて口を閉じる美佐を見て、英真は嬉しそうに笑った。
「あいかわらずかわいいね」
「やめてよ。私の方が年上なのに」
「上っていっても4歳だけでしょ。その程度の年齢差なんて、おばあちゃんになったらどうでもよくなるから」
「まぁ、今でもどうでもいいけどね」
「美佐はかわいいおばあちゃんになりそうだしね」
「英真もね」
そう言って美佐は笑った。しかし、真顔の英真が言う。
「ごめんね」
「えっ?」
「生きて」
記憶はそこで止まっていた。今となっては記憶なのか夢なのか区別がつかない。なぜなら、まぶたを開けた美佐の視界に、見知らぬ天井が広がっていたからだ。
美佐は周囲を確認した。殺風景な白い部屋で、雑多な機械に囲まれてベッドの上に寝ていた。音も人の気配もない。
美佐は上半身を起こした。
確か、自分は車に乗っていたはずだ。運転席には英真がいて、東京から郊外に向かって走っていたはずだ。
しかし、そこから先を思い出すことができない。目的地がどこだったかは覚えていても、そこにたどり着いた情景が欠けていた。
どうにかして記憶を呼び覚まそうとしても、頭の中はからっぽで、まるで自分ではないような気がした。夢を見ている感覚とも違う。しかし、現実という実感もない。強いて言えば、人がたくさんいる中で寝てしまい、目覚めたときには誰もいなくなっていたときの、あの静寂と空虚感に近い。
「英真?」
美佐は名前を呼んでみたが、返事はなかった。
そのかわりに病室のドアが開いた。美佐の声がかすかに聞こえたのか、看護師が何かを探すような素振りで顔を覗かせ、美佐と目があった。その瞬間、彼女は大きく目を見開き、何か言おうとして口を開いたが、結局何も言えずにそのまま走って病室を出ていった。
何事かと不審がる美佐の耳に、廊下の奥の方で「せんせ〜!」という、ほとんど悲鳴に近い叫びが聞こえた。
美佐の担当医師は、なぜ彼女が動けるのか追求したい欲求を抑え込み、何が起きたかを美佐に話した。その後でMRIにかければいいと思っていたが、美佐が半狂乱になってしまい、MRIどころではなくなった。
半狂乱は半日続き、その後の3日間は食事も取らず誰とも会おうとしなかった。美佐や英真の家族が彼女を説得するために病院に訪れたが、美佐は病室のドアにバリケードを築き、他人との接触を拒絶した。
しびれを切らした美佐の母親が千尋を呼んだ。
千尋はその電話で美佐の復活を知ったとき、涙声になりながらも気丈に振る舞った。美佐が病院に担ぎ込まれた日にも連絡を受けたが、その時は英真の死と美佐の状態を聞いて怒り狂い、犯人を見つけに行くと言って自分の両親に止められたほどだった。
しかし、今の彼女は冷静さを保ち続けた。美佐は今巨大な喪失感、孤独感、罪悪感の中にいる。そこから救い出せるのは、英真の気持ちを知っている自分だけだ。
(今の美佐に何が必要なのか見極めなければ…)
そのためには冷静さが必要だった。
千尋は病室の前に立つと、優しくドアをノックした。
「美佐、会いに来たよ」
名前を言わなくても、声だけでわかる。千尋にはその確信があった。そして、自分の声を聞けば、英真を感じることができる。なぜなら、3人はいつも一緒だったから。英真と美佐が付き合い始めてからも、2人は千尋を邪険にすることはなかった。その、3人には友情や姉妹愛のような強い絆が生まれた。
千尋が声をかけてしばらくすると、ゆっくりドアが開いた。その隙間から憔悴しきった美佐が顔を覗かせ千尋の姿をみとめると、千尋を押し倒さんばかりの勢いでしがみつき、声を上げて泣いた。
美佐にかける言葉が見つからず、黙って2人を見守る人々を尻目に、千尋は美佐の手を引いて病室に入った。そして美佐を二人掛けの小さなソファに座らせると、自分もその隣に腰を下ろした。
しばらくすると美佐も落ち着きを取り戻したが、呼吸しているのか心配になるくらい、彼女は小さくなってうなだれていた。
「あんな大事故の負傷者にしては元気そうだね。美佐が歩く姿を見た医者が呆然としてたよ。まぁ、無事だっただけでもありがたいけどね」
千尋が微笑を浮かべて言ったが、美佐は俯いたまま、短い沈黙の後に小さな声で何か呟いた。
「なんて言ったの?」
千尋が問うと、美佐は顔を上げて千尋を見た。
「私は嬉しくない」
美佐の言わんとすることは、千尋にもわかる。英真と一緒に死んでいれば、彼女の死を知ることもなかった。
「そうだとは思うけど…」
千尋はあえて同意した。自分が美佐の立場でも、同じように思うだろうと考えたからだ。
「でも、英真はわかってくれる。救助の人が驚いてたらしいよ。あの状況で同乗者を助けられたのは奇跡だってさ。美佐の首に巻かれてたのスリーピングバッグでしょ。いくら瞬時に膨らむからって、あの状況でよくそんな判断ができたと思うよ。さすが英真ってところだね」
美佐は千尋の言葉を一言ずつ噛み砕きながら理解しようとした。今の自分の状況は、英真が望んだことでもあるのだ。事故は不幸な偶然で、犯人は捕まり罰を受ける。理屈で考えれば、ひとまず収まるところに収まった。法の正義は執行され、英真の最大限の尽力によって、奇跡的に美佐の命が救われた。しかし、それでも疑問は残る。
「ねぇ、なんで私じゃなくて英真なの?」
美佐は勝手に溢れる涙を止めることもできず、必死に声を絞り出して千尋に問いかけた。その必死さはナイフのように千尋の心に突き刺さる。まるで美佐の感じる痛みが、直接千尋に伝わるように。
千尋は美佐の頬を挟み込むように両手を当てて言った。
「そんなこと二度と考えるな。口にするな。わかったか」
力を込めてそう言うと、美佐は小さく頷いた。
千尋は美佐の頬から手を離しながら、自分を落ち着かせるように小さく深呼吸をした。
「寿命を決める権利なんて誰にもないんだよ。人の生死に意味なんかないんだ。理由があって英真が死んだと思う? あんないい子が、どういう理由で死ななきゃいけないっていうのよ。理由なんてあるわけない。ただ、この世がそういうふざけた世の中だってだけだよ」
「うん」
「でも、私らの中では、あの子はけして死なないし、会いたい時にはいつでも会える」
千尋が断言するので、美佐はその意図を測りかねて彼女の表情を伺った。千尋の表情には負の感情は欠片もなかった。断言した声と同様の確信が、美佐にまっすぐ向けられた瞳に現れているように思えた。
「どういうこと?」
美佐が問うと、千尋は「目を閉じてみて」と言った。
美佐は素直に従った。
「例えば、美佐が飲んだくれの酒浸りになった上に、男に目覚めて毎晩違う相手を部屋にひっぱりこんでるとする。おまけに男の誘いに乗ってドラッグにまで手を出したとする。散らかった部屋でビールを片手に男といちゃついている美佐がいる」
「なにそれ。救いようないんだけど」
「でしょ。そこに突然英真が現れたら、あの子なんて言うと思う?」
「言うっていうか、たぶん蹴られる」
「その後は?」
「男を部屋から追い出して、私を浴槽に放り込んで無理やり身体を洗われて、その後はきっと説教される」
「なんて説教されると思う?」
「あんたがそんな短絡的なバカだったとは思わなかったとか、慣れないことするなとか、男とやってるとこなんて全然似合わないとか」
次々に出てくる説教の文句に、千尋は思わず笑った。
「まぁ、そんなとこだろうね。じゃあ、その上で訊くけど、過去にそんな出来事あった?」
「えっ?」
「今の英真の行動は、過去にも同じようなことがあったから言ったの? それとも美佐の想像?」
「想像に決まってるでしょ。私はお酒にも男にも溺れたことないし」
「でしょ? たとえ現実世界に英真はいなくても、美佐が間違った道に進もうとすれば、英真はちゃんと説教してくれるんだよ。目を閉じればいつでも姿や声を思い出せるし、実際に起こってないことだって、英真がどうするか、なんて言うかは手に取るようにわかる。それはつまり、生きてるときと変わらないってことじゃない? 少なくとも、英真のことをよく知ってる私らの中では…。きっと、私らが死ぬまであの子は生き続ける。で、私らが死んだら、あっちの世界でまた英真に会えるんだよ」
千尋はけして涙は見せないが、心の奥では英真のいない寂しさと戦っていることは、彼女の声の調子でわかった。時々途切れ気味になる千尋の言葉は、きっと表に現れようとする感情を抑え込んでいるのだろう。それなのに、千尋は美佐を元気づけようとしている。自分の悲しみを押し殺してまで、美佐に手を差し伸べているのだ。
「うん。わかった。もう泣かない。英真に再会したとき説教されないように、自慢できる生き方をするよ」
美佐がそう言うと、千尋は朗らかな笑顔をつくり、美佐の頭を撫でた。
「さすが、私らが見込んだ女だけのことはある」
「ありがとう」
美佐はそう言って微笑んだ。数日ぶりに使った頬の筋肉が、美佐の心の片隅に、少しだけだが前向きな気分をもたらした。哀しみはまったく癒えないが、美佐は英真のためにも前へ進まなければならないと思った。
「そんなに元気なら、すぐにでも退院できるんじゃない? っていうか、むしろ異常なほど無傷だよね」
「そんなこと言ったって、動けるんだから仕方ない」
「そりゃそうだけど」
「きっと、車から脱出した後も、ずっと英真が守ってくれたんだよ」
「魂になっても?」
「そう。英真にはそういう力が備わってても驚かないもん。ほんと、神様が遣わした天使みたいに純真無垢だったからね」
「あっ、『天使』で思い出したけど、高3になって進路決める時期に、突然あの子が看護学校に行くって言い出してさ。英真の両親はおろか、先生も驚いたんだよ。それまで自己主張なんてしなくて、進路も他のクラスメイトや親の意向に沿って、普通に大学行くんだろうなって思ってたからね。だから私あの子に聞いたのよ。『なんで、よりによって職業の中で一番大変な看護師なの?』って。そしたら、『ナイチンゲールの伝記読んで、彼女の言葉に感銘を受けたから』だって。私も面食らったよ。『それだけ?』って聞き返したもん」
「どんな言葉?」
「確か、『天使とは美しい花をまき散らす者ではなく、苦悩する人々のために戦う者である』とかだったかな」
「戦う者かぁ。戦ってる英真は想像つかないけどね」
「でしょ? なんでそこに反応したのか未だに謎なんだけど、あの子の中では何か腑に落ちたんだろうね」
「素直なんだよ」
「素直というか、単純というか。まぁ、それがあの子の長所でもあるんだけど。思えば私は友達運だけはよかったな。それ以外ははずれガチャばっかりだったけどね」
「私も同じよ。良い時期に良い人と出会えたと思う」
ひと連なりの瞬間を積み重ね、美佐は今ここにいる。その瞬間は一見すると不連続のように見えるが、現在から過去を振り返ったとき、それはその時々で必然として生み出され、その時々で色んな影響を受けながら、まっすぐ未来に向かって繋がっていたことを知る。
失ったものは大きく、こんなに辛いならいっそのこと出会わない方がよかったと思うときがあるかもしれない。しかし、美佐ならその思いつきを一瞬で否定できる。英真の人間性や価値観は、出会わなかったときとは比較にならないほど、確実に美佐の未来を好転させる。美佐には英真と過ごした実体験から、そう思える自信があった。そして、美佐の人生が終わりを迎えるとき、完全な一本の映画のように、起承転結を理解することになる。
つまり、これは哀しみが残るだけの不毛な離別ではなく、美佐にとって新たな旅の幕開けなのだ。
美佐は立ち上がって、ベッド脇の冷蔵庫を開けた。
「なにしてんの?」と千尋が尋ねた。
美佐は冷蔵庫を覗き込みながら「英真にちゃんと挨拶したい」と言った。
「それに、私の覚悟をちゃんと伝えたい」
しかし、冷蔵庫には水しかなかったので、美佐は仕方なく水のペットボトルを取り出すと、キャビネットからコップを取ってソファに戻ろうとした。すると、小さなボトルを掲げて満面の笑みを浮かべる千尋が目に入った。
「なにそれ? ワイン?」
「そう。念のためと思って持ってきた」
美佐と千尋は声を上げて笑った。
「考えることは一緒だねぇ」と美佐が言うと、千尋は「当然じゃん。だから私ら相性がいいんでしょ」
「いえてる」
美佐はそういってソファに戻った。美佐は携帯端末に英真の写真を表示して、ローテーブルの上に立てた。その間、千尋がコップにワインを少し注いで、美佐に渡した。
美佐はコップを英真の写真に掲げながら話始めた。
「英真。会いたいときに会えないのは辛いけど、私がんばるから、再会できる時まで見守っててね。寂しいときは夢に出てきてね」
千尋が続く。
「英真…」
長い沈黙の後、意思に逆らって流れる涙を止めることもできず、千尋はとうとう泣き始めた。写真を眼の前にしたことで、これまでの思い出が怒涛のような勢いで千尋の脳裏を駆け巡り、大きすぎる喪失感が強がっていた気持ちを乗り越えてきた。
美佐もその涙につられて我慢しきれず、2人はコップを持ったまま抱き合って泣いた。泣くことに集中しすぎて、千尋のワインが美佐の背中にこぼれ落ち、美佐は奇妙な悲鳴を上げた。
「な、なんでこんなに冷たいの?」
美佐がそう言うと、千尋は手で涙を拭いながら「クーラーボトルだからだよ」と言った。
「ぬるいワインなんて飲めないでしょ」
「そりゃそうだけど、なんかびっくりしすぎて涙引っ込んだよ」
「私は美佐の悲鳴で引っ込んだよ」
今度は2人で笑いだし、ひとしきり笑ったあとで改めて英真にコップを掲げると、2人同時に英真の名を唱えた。
「英真に」
その直後に電子音が鳴った。「ピロロロ」という、軽く短いが、まるで耳元で鳴ったかのような、はっきりとした音だった。
「ん?」
不意に辺りを見回す美佐を見て、千尋が「どうしたの?」と尋ねた。
「なんか音聞こえたけど」
「音? いつ?」
「今よ、今。『英真に』って言った直後」
「幻聴なんじゃないの? もしかして脳に障害が残ったとか?」
「でも、幻聴にしてははっきり聞こえたよ」
「もう一回『英真に』って言ってみれば?」
「英真に?」
ピロロロ。
「ほらぁ!」
「だから聞こえないってば!」
音の正体を知ることができないまま、美佐はそれから5日後に退院した。
美佐たちに何が起こったのかは第27話「それでも前にすすむ」に書いてあります。
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