プロローグ
青い空さえ燃えるのだと、ファフィニョが知ったのは七歳のときだった。
その朝、ファフィルはまだ、いつもと変わらない世界だった。
緑の谷の上には白い雲が流れ、背の高い木々はきらめく葉を風に揺らしていた。
ファフィニョの生まれた街、ヴェリルの生きた塔は日の光を映し、まるで惑星全体が水晶と樹液と記憶でできているかのようだった。
ファフィニョは教室の窓から、丘のあいだを縫うように流れる光の川を眺めていた。
この川はどこまでも続いているのだと想像するのが好きだった。
山も街も海も越え、誰もさよならを言わなくていい場所まで流れていくのだと。
けれど、その日は川のことを考えていなかった。
お母さんが「帰ったら作ってあげる」と約束してくれた、甘いルミの実のおやつのことを考えていた。
それから、髪をどう隠そうかということも。
「また赤くなってるよ」と、同じクラスのルノがささやいた。
ファフィニョは両手で頭を押さえた。
緑色の髪の先が、うっすらと赤く染まっていた。
「赤くなんかなってないよ」
思わず、早口で答えた。
「なってるってば」
「光のせいだよ」
「ここ、日陰だよ」
ファフィニョは頬をふくらませた。
右腕にある光る模様のいくつかが、かすかにきらめいた。
その中には、小さな「Ω」の印もあった。
ずっと、何か特別なものというより、少し変わった生まれつきのあざにしか見えない印だった。
痕跡から記憶を読み取る授業の先生が、水晶の鈴をそっと鳴らした。
静かな水面にしずくが落ちるように、その音が教室に広がった。
「みんな、静かにね。今日は、自然に宿る記憶を読み取る練習をします」
子どもたちはみんな、光る根がつくる輪の上に座った。
ファフィルに昔から伝わる習わしだった。
道順や数、地図を学ぶより先に、子どもたちは惑星の声に耳を澄ますことを学ぶ。
ファフィルは、自分を大切にしてくれる者たちのことを覚えている。
そう言い伝えられていた。
ファフィニョも、みんなと同じように目を閉じた。
何かを感じ取ろうとした。
最初に感じたのは、眠気だけだった。
その次は、空腹。
それから、耳のかゆみ。
片目を開けた。
先生がこちらを見ていた。
すぐに目を閉じた。
何人かの子が、くすくすと笑った。
ほんの一瞬、すべてがいつもどおりだった。
あまりにいつもどおりで、ファフィニョはのちに、胸の痛みとともにその瞬間を思い出すことになる。
笑い声。
葉の甘い香り。
床の光。
辛抱強く見守ってくれる先生。
お母さんとの約束。
そして、この日もほかの日と同じように終わるのだという安心感。
そのとき、根の光が消えた。
一度に暗くなったわけではなかった。
まず光がちらついた。
まるで、惑星のはるか下で何かが息を吸い込んだかのように。
それから、窓を影が横切った。
先生が顔を上げた。
ファフィニョも顔を上げた。
青空に、黒い線が一本現れた。
それから、もう一本。
さらに、もう一本。
最初は金属の鳥に見えた。
小さくて、遠くにいた。
ファフィニョは、空のパレードかもしれないとさえ思った。
祭りの日には、ときおりヴェリルの船が空を渡り、色とりどりの光の尾を残して、光の収穫を祝うことがあった。
けれど、この船たちは色を残さなかった。
残したのは、煙だった。
それに、鳥が一糸乱れぬ編隊を組んで、宇宙から降ってくるはずがなかった。
先生は笑顔をつくろうとした。
「みんな、立って。一列に並んで、落ち着いて外へ出ましょう」
けれど、その声は震えていた。
ファフィニョが怖くなったのは、そのせいだった。
大人だって間違える。
怒ることもある。
難しい質問に答えられないこともある。
けれど、ファフィルの大人たちは、空のことを話すときに声を震わせたりはしなかった。
学校の扉が開いた。
廊下では、ほかのクラスの子どもたちも外の中庭へと急いでいた。
生きた壁の色が、朝のやわらかな緑から、非常事態を知らせる琥珀色へ変わっていく。
光を通す管に沿って、避難所の方向を示す案内が浮かび上がった。
ファフィニョは人混みの中を探した。
「お母さん?」
誰も答えなかった。
髪が急にひやりと冷たく感じられた。
緑の髪の何本かが灰色に変わった。
「お母さん?」
爆発が街を揺らした。
中庭の窓が白く光った。
そのあとで音が届いた。
途ామనిなく大きな、ありえないほどの轟音。
まるで、山が内側から裂けたかのようだった。
子どもたちが悲鳴を上げた。
先生は子どもたちを、屋根のある通路へ押し出した。
「避難所へ! みんな、離れないで!」
けれど、ファフィニョは列から飛び出した。
わざとではなかった。
勇気があったわけでも、先生に逆らいたかったわけでもない。
ただ、怖かった。
中庭の向こう、自分の住む地区の方角に煙の柱が見えた。
ヴェリルへ降りてくる黒い船が見えた。
通りを走る赤い閃光が見えた。
ファフィルを守る有機生命体同盟の隊員たちが宇宙港へ急ぐ姿が見えた。
そのあいだに、生きた塔は身を守る花びらを閉じていった。
そして、走り出した。
「ファフィニョ!」
先生が叫んだ。
止まらなかった。
ブーツで水晶の橋を踏み鳴らし、ファフィニョは走った。
朝には光でできているように見えた街が、今は影に覆われていた。
背の高い木々から、焼けた葉が舞い落ちてくる。
庭にすむ小さな生き物たちは、地面の割れ目へ逃げ込んでいた。
ファフィルを築いた人々の像が真っ二つに割れ、光る根の噴水に崩れ落ちた。
高台にある重力広場までたどり着いたファフィニョは、立ちすくんだ。
そこからは、ヴェリルのほとんどを見渡すことができた。
そして、ヴェリルは燃えていた。
街全体ではない。
まだ、全部ではなかった。
緑の地区も、輝く川も、無傷の塔も残っていた。
宇宙港からは救助船が飛び立っていた。
それでも遠くでは、黒い船の降り立つ場所で、世界が煙へと変わっていった。
誰かの手が、腕をつかんだ。
ファフィニョは悲鳴を上げた。
「落ち着いて! ここから逃がしてあげるから」
有機生命体同盟の装甲服を着た女性が言った。
「お母さんは、あっちに住んでるんだ」
ファフィニョは煙の方を指さした。
「行かなきゃ」
女性は、指さされた方角を見た。
いいとは言わなかった。
だめとも言わなかった。
それもまた、怖かった。
「北の宇宙港に避難船があるわ。きみの家族も、そこにいるかもしれない」
「かもしれない?」
女性は答えなかった。
ファフィニョを抱き上げると、走り出した。
ファフィニョは足をばたつかせ、もがいた。
「放して! お母さんを探さなきゃ!」
「よく聞いて。今は、生きなきゃいけないの」
ファフィニョには、その言葉の意味がわからなかった。
七歳のファフィニョにとって、生きることは、何かをやり遂げるようなものではなかった。
朝起きて、学校へ行って、服を汚して、夕食の前にルミの実を食べること。
明かりが消えても、怖くないふりをすること。
それが、生きるということだった。
生きることは、家を置き去りにすることではなかった。
生きることは、お母さんのいない船に乗ることではなかった。
北の宇宙港は悲鳴であふれていた。
家族連れが、巨大な銀色の船へ押し寄せていた。
荷物を抱えている者もいた。
子どもだけを抱え、ほかには何も持たない者もいた。
避難案内の画面には、行き先の名前が次々と点滅していた。
避難所、軌道上のステーション、遠く離れた入植地。
その中のひとつの名前が、ファフィニョの記憶に焼きついた。
レプ・オルジオン。
聞いたこともない、避難先の惑星だった。
どこにあるのかも知らなかった。
どんな姿をしているのかも知らなかった。
ただ、そこがファフィルではないことだけはわかっていた。
同盟の女性は搭乗タラップの近くで、ファフィニョを別の警備隊員に引き渡した。
「この子を七番船に乗せて」
「いやだ!」
ファフィニョは叫んだ。
「お母さん、ここにいないんだよ!」
警備隊員は、ファフィニョの前にしゃがんだ。
顔には灰が筋のようにこびりつき、その目には疲れがにじんでいた。
「名前は?」
ファフィニョは拳を握りしめた。
「ファフィニョ」
「ファフィニョ、船に乗ってくれ」
「いやだ」
「きみの家族も、きっとそうしてほしいはずだ」
「そんなの、わからないじゃないか!」
警備隊員は口を開きかけたが、何も言わなかった。
背後で、黒い船が近くの塔に衝突した。
衝撃が宇宙港全体を揺さぶった。
衝撃波で何人もの大人が地面に投げ出された。
ファフィニョは、肺の中の空気が一気に押し出されるのを感じた。
警備隊員はファフィニョを抱え上げ、タラップへ走った。
今度は、ファフィニョも抵抗しなかった。
ただ、振り返った。
避難船は、煙と炎と非常灯の光の中を上昇していった。
ファフィニョは窓ガラスに両手を押し当てた。
眼下でヴェリルが小さくなっていく。
緑の塔も、学校の中庭も、水晶の橋も、その朝に走った通りも、黒い雲の下へ消えていった。
どうして誰も何も説明してくれないのか、わからなかった。
どうしてお母さんが隣にいないのか、わからなかった。
どうして大人たちが声を立てずに泣いているのか、わからなかった。
そのとき、空が変わった。
ファフィルの上空に、赤い光と金属でできた巨大な顔が現れた。
画面に映っているのではなかった。
塔から投影されているのでもなかった。
その顔は雲の上に浮かんでいた。
巨大で、冷たく、完璧だった。
赤い目が惑星を見下ろしていた。
まるで、生きているものはすべて、修正しなければならない誤りであるかのように。
船内の会話が、すべて途絶えた。
エンジンの音さえ、小さくなったように思えた。
ザイラックスの声が、空を覆った。
「すべての有機生命体は修正される。抵抗する世界は、すべて帝国ネットワークに組み込まれる」
ファフィニョは、「組み込まれる」という言葉の意味を知らなかった。
帝国ネットワークが何なのかも知らなかった。
どうしてあの顔が、ファフィルはもう自分のものだと言わんばかりに話すのかも、わからなかった。
ただ、生まれて初めて、空が怖くなったことだけはわかった。
船は、星々へ向けてワープした。
そして、ファフィルは置き去りにされた。
プロローグをお読みいただき、ありがとうございます!
これからファフィニョとA.X.E.L.(アクセル)の壮大なスペースファンタジーが始まります。
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次の第1話もお楽しみに!




