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Marbling 現実と伝承が交わる、その先へ。【改訂版】  作者: 赤足


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1/3

01 向こう側

世界には、境界がある。


人が歩ける場所と、歩いてはいけない場所。


生きている世界と、そうではない世界。


昔の人間は、その境界の向こう側にあるものを恐れた。


ある者は神と呼び。


ある者は妖怪と呼び。


ある者はただの噂話として残した。


だけど……


人間は、本当に何もないものを何百年も語り継ぐだろうか。


俺は、そうは思わない。


なぜなら俺は、あの日。


境界の向こう側に触れた人間を知っている。


俺の父親だ。



「鼎、遅れるぞ」


「待ってよ、父さん!」


幼い頃の俺は、父さんの背中を追いかけて山道を歩いていた。


父さんは登山が趣味だった。


休日になると、よく俺を山へ連れて行った。


でも、父さんが興味を持つものは山頂じゃなかった。


途中にある古い祠。


誰にも読めない石碑。


その土地に残る昔話。


父さんが見ていたのは、いつもそういうものだった。


「父さんってさ」


「ん?」


「山登りより、変なもの探してる時間の方が長くない?」


父さんは笑った。


「変なものじゃない」


「昔の人が残したものだ」


「昔の人が?」


「ああ」


父さんは古い石碑に触れる。


「伝承っていうのはな、ただの作り話じゃない」


「昔の人が何かを感じて、それを後の人へ残したものなんだ」


その時の俺には意味が分からなかった。


でも。


父さんがその話をするときだけ、少し嬉しそうだったことは覚えている。



その日、父さんが連れてきたのは、山奥にある小さな湖だった。


風が止まると、水面は鏡のように静かになる。


音が消えたような、不思議な場所だった。


「ここには昔、面白い話があるんだ」


父さんが言った。


「この湖には、大きな生き物がいるって話がある」


「大きな生き物?」


「ああ。水の中から巨大な影を見たって人がいたらしい」


「ネッシーみたいな?」


父さんは笑った。


「そうだな。似ているかもしれない」


そして、少し真剣な顔になる。


「でもな、鼎」


「大事なのは怪物がいるかどうかじゃない」


「じゃあ何?」


父さんは湖を見る。


「なぜ、人はその話を残したのかだ」


「人間は昔から、理解できないものに名前をつけてきた」


「怖かったからだけじゃない」


「知りたかったからだ」


俺は湖の奥を見る。


何もない。


静かな水面。


でも。


その下に何があるのか、俺には分からなかった。


「本当にいるのかな」


父さんは少し笑った。


「さあな」


「でも、いないって証明するのも難しいだろ?」


その言葉が、なぜかずっと心に残った。



それから数年後。


俺の日常は、突然終わった。


父さんが山から帰ってこなかった。


最初、周囲は大きな問題だとは考えなかった。


向かった場所は、何度も登った山。


父さんにとって慣れた場所だった。


道を間違えるような人じゃない。


捜索隊も言った。


「この方が迷うとは考えにくいですね」


でも。


父さんは戻らなかった。


捜索の途中で見つかったのは――


父さんの荷物だけだった。


登山道具。


時計。


そして、一冊のノート。


父さんが消えてから、俺はこの山に近づかなかった。


正確には、近づけなかった。


また山へ入れば。


父さんがもう帰ってこないという現実まで、認めてしまう気がしたからだ。



そのノートには、父さんが調べていた伝承や怪異の記録が残されていた。


ただ。


最後の方だけ、様子が違った。


文字は乱れ。


何度も同じ場所が書き直されていた。


最後のページ。


そこには、短い文章だけが残されていた。


『境界は、存在する』


その下には。


あの日訪れた湖の名前。


そして、見覚えのない名前。


『神原五和』


誰なのか。


なぜ、父さんのノートに名前があるのか。


何も分からなかった。



それから俺は調べ続けた。


怪異。


都市伝説。


土地に残る伝承。


父さんが追い続けたもの。


「まだそんな話、調べてるのかよ」


友人に言われたこともある。


「調べないと分からないだろ」


「最初から嘘だって決めつけたら、本当にあったものまで見落とす」


友人は呆れた顔をした。


「また始まったよ、鼎の長話」


……否定はできない。


でも。


父さんが何を見て。


何を追っていたのか。


それだけは知りたかった。



そして現在。


俺は、あの日の湖へ戻ってきていた。


昔と何も変わらない。


静かな水面。


山の匂い。


子供の頃。


父さんと並んで、ここに立った。


――でも、いないって証明するのも難しいだろ?


あの時は、ただ面白いと思っただけだった。


今は違う。


父さんは。


ここで何を見たんだろう。


その時。


背後から声がした。


「君も、それを探しているのか」


振り返る。


少し離れた場所に、一人の男が立っていた。


「……あんた、誰だ?」


男は俺ではなく、湖を見ている。


「神原五和」


一瞬。


言葉が出なかった。


「……神原、五和?」


「ああ」


間違いない。


父さんのノート。


最後のページに残されていた名前。


「ちょっと待て」


男を見る。


「父さんを知ってるのか?」


「ああ」


心臓が跳ねた。


「だったら――」


聞きたいことはいくらでもあった。


なぜ、父さんのノートにこの男の名前があったのか。


二人は、どういう関係だったのか。


父さんは、ここで何をしていたのか。


「父さんがどうなったかも、知ってるのか?」


五和はすぐには答えなかった。


湖へ視線を戻す。


「君の父親は、この場所を調べていた」


「それは知ってる」


「彼は消えたんじゃない」


「……え?」


「じゃあ、どこへ?」


少しの間。


五和は黙っていた。


そして。


「境界に触れた」


父さんのノートに残されていた一文が浮かぶ。


――境界は、存在する。


「……境界」


その瞬間。


風が止まった。


湖面が揺れる。


水の奥。


何かが動いた。


「……え?」


目を凝らす。


一瞬だけ。


巨大な影が見えた気がした。


だが。


次の瞬間には、もう何もいなかった。


静かな水面だけが、目の前に広がっていた。


ノートを握る手に、自然と力が入る。


「父さんのノートに、あんたの名前があった」


五和は驚かなかった。


「そうか」


「そうかって……」


思わず声が強くなる。


「最後のページに、名前だけ残ってたんだぞ」


何の説明もない。


誰なのかも。


父さんと、どういう関係だったのかも。


「何で、あんたの名前が書いてあるんだよ」


「君の父親とは、一緒に調査をしていた」


「調査?」


「境界のな」


胸の奥がざわつく。


「じゃあ知ってるのか」


「何を」


「父さんが何を見たのか」


一歩、五和へ近づく。


「どこへ行ったのか」


「あんた、一緒にいたんだろ?」


五和が俺を見る。


「全部は知らない」


「……は?」


「君の父親が最後に何を見たのか。どこへ行ったのか」


一拍。


「俺も知らない」


「知らない?」


「ああ」


「でも境界に触れたって言ったよな」


「ああ」


「父さんと一緒に調査もしてた」


「ああ」


「……知らない。でも知ってる」


五和を見る。


「どっちなんだよ」


「俺が知っていることと、知らないことがある」


「じゃあ、知ってることを教えてくれよ」


五和はすぐには答えなかった。


「今は話せない」


「何で?」


「話しても、お前にはまだ分からない」


「それ決めるの、あんたなのか?」


「ああ」


即答だった。


「……マジかよ」


腹が立つ。


けれど。


目の前の男が、面白がって隠しているようにも見えなかった。


「じゃあ一つだけ」


「何だ」


「父さんは、自分から消えたのか?」


五和の表情が僅かに変わる。


「違う」


「逃げたわけでもない?」


「ああ」


「じゃあ何なんだよ」


五和は湖を見る。


「向かった」


「どこへ」


短い沈黙。


「境界の向こう側にあるものへ」


背筋が冷えた。


普通なら。


何を言ってるんだと思う。


昨日までなら、笑い飛ばしていたかもしれない。


でも。


父のノート。


境界。


さっき湖の中に見えた影。


そして、この男。


笑えなかった。


「……信用しろって?」


「いや」


「え?」


「信用しなくていい」


五和は淡々と答えた。


「自分で確かめろ」


その返事に、少し戸惑う。


「だったら、何で俺に話すんだよ」


五和は歩き出した。


「来ると思っていた」


「……俺が?」


「ああ」


「何で」


「君の父親なら、何かを残していると思った」


手元のノートを見る。


父が残したもの。


最後のページに書かれていた名前。


神原五和。


「来い」


「どこへ?」


「君の父親が最後に追っていた場所だ」


「……ちょっと待て」


五和が足を止める。


「俺、あんたのこと何も知らないんだけど」


「ああ」


「普通について行くと思う?」


「思わない」


「じゃあ何で誘ったんだよ」


「来るかどうかは、お前が決めればいい」


そう言って、五和はまた歩き出した。


信用できるか。


そんなもの、分かるわけがない。


会ったばかりだ。


何を考えているのかも分からない。


それでも。


父のノートに残された名前。


父と境界を調べていた男。


今の俺が持っている手掛かりの中で。


この男だけが、父のいた場所へ続いている。


「……分かった」


五和が振り返る。


「行く」


「ああ」


「ただし」


「何だ」


「信用したわけじゃないからな」


五和は僅かに笑った。


「それでいい」


俺は五和の後を追った。


この時の俺は、まだ知らなかった。


神原五和自身もまた。


境界に関わる過去を抱えていたことを。



「なあ」


前を歩く五和に声をかける。


「父さんとは、どういう関係だったんだ?」


「調査仲間だ」


「調査仲間?」


「ああ」


「じゃあ、境界って何なんだ」


五和は周囲へ目を向けた。


「特定の場所を指す言葉じゃない」


「人が、こちらと向こうを分けるためにつけた呼び名だ」


「ただ、その境は場所によって薄くなる」


俺は振り返り、遠ざかっていく湖を見る。


「……あの湖も?」


「ああ」


「君の父親は、そういう場所を調べていた」


ノートを見る。


「父さんも……こういう場所を調べてたのか」


「そうだ」


相変わらず短い。


「……あんた、本当に必要最低限しか話さないな」


「必要なことは話している」


「いや、それを決めるのは俺じゃないのか?」


五和が少しだけ振り返った。


「違う」


「即答かよ」


思わず苦笑する。


「そういうところ、父さんと似てるかもな」


五和の足が、一瞬だけ止まった。


「……彼もそうだった」


「何が?」


「知りたいことが多すぎる人間だった」


それだけ言って、五和はまた歩き出した。


その言葉だけが、不思議と残った。



山を進むにつれて。


周囲の空気が変わっていった。


最初は気のせいだと思った。


だが。


鳥の声が消えていく。


風の音が遠くなる。


自分の足音だけが、妙にはっきり聞こえる。


「……なあ」


周囲を見る。


「ここ、本当に普通の山道か?」


「境界に近づいている」


その言葉を聞いた瞬間。


肌が粟立った。


その時だった。


「……鼎」


足が止まる。


背後から声がした。


聞き間違えるはずがない。


「……父さん?」


振り返ろうとする。


その瞬間。


五和の手が俺の肩を掴んだ。


「返事をするな」


低い声だった。


「……え?」


「返事をするな。今の声に」


背後を見る。


誰もいない。


だが。


確かに聞こえた。


父の声が。


「なんでだよ」


声を落とす。


「父さんかもしれないだろ」


「違う」


「なぜ分かる」


「境界の中で、名前を呼ぶものに返事をしてはいけない」


五和は歩きながら言った。


「昔、この土地には話が残っている」


「山で名前を呼ばれても、決して返事をしてはいけない」


「返事をした者は、こちら側から消える」


息を飲む。


「……神隠し」


五和が頷く。


「ああ」


「昔の人間は、それを神隠しと呼んだ」


「理解できない現象に、名前をつけたんだ」


昔、父が言っていたことを思い出す。


――人間は昔から、理解できないものに名前をつけてきた。


父と五和。


二人の言葉が、重なった。



さらに進んだ先。


道の脇に、古い石が置かれていた。


そこには。


見覚えのある印が刻まれている。


「……これ」


五和も足を止めた。


「彼が残したものだ」


近づいて石を見る。


父さんが。


ここにいた。


その事実だけで、胸の奥がざわつく。


だが。


五和の表情は変わらなかった。


「これは道標じゃない」


「……え?」


「警告だ」


石の裏側。


古い文字が残されていた。


『境界へ近づくな』


父の字だった。


しばらく、その文字から目を離せなかった。


「……何で」


父さんは境界を調べていた。


自分から、その先へ向かった。


なのに。


ここには。


近づくなと残している。


「父さんは……何を見たんだ」


五和は答えなかった。


しばらく沈黙が続いた。


やがて、五和が口を開く。


「ここから先へ進めば」


足を止める。


「戻れなくなる可能性がある」


顔を上げる。


「死ぬってことか?」


「違う」


五和は境界の先を見る。


「今までのお前では、いられなくなるということだ」


父が残した警告。


目の前にある未知。


進むべきなのか。


戻るべきなのか。


五和が静かに言った。


「鼎」


「選べ」


「ここから先へ進むのか」


「それとも、戻るのか」


「待て!」


「何だ」


「君は重大な勘違いをしている!」


五和が黙って俺を見る。


「人間という生き物には、順序というものがある!」


「状況説明!」


「情報整理!」


「現状把握!」


「そして覚悟!」


指を一本ずつ立てる。


「これらを経て初めて、『選択』という行為は成立する!」


「それを全部飛ばして『選べ』とは何事だ!」


「長い」


「まだ前置きだ!」


「要点」


「説明不足だ!」


「最初からそう言え」


「今ので十分要約したつもりなんだ!」


一度咳払いをして、眼鏡を押し上げる。


「いや、普通こういう展開ってさ」


「映画とか漫画なら分かるんだよ」


「赤い薬と青い薬を選べ、みたいなやつ」


「薬?」


「そこからかよ」


「何の話だ」


「……いや、いい」


話を戻す。


「つまりだ」


「俺は今、物語の主人公っぽい選択を迫られてるわけだ」


突然現れた謎の男。


失踪した父親。


誰も知らない境界。


隠された真実。


「ここまで来たら様式美なんだよ!」


「こういう場面には説明役がいて!」


「主人公は十分くらい葛藤して!」


「それから覚悟を決める!」


「主人公?」


「そう!」


俺は五和を指差した。


「選ばれた者だけが進める道!」


「隠された真実への旅!」


「失踪した父親の謎!」


「完璧な導入じゃないか!」


「違う」


「まだ最後まで言ってないだろ!」


五和は俺を見る。


「君は選ばれたわけではない」


「……」


「君が来ただけだ」


「夢のないこと言うなよ!」


「現実だ」


「だからその現実にも、もう少し演出ってものが――」


「時間がない」


「だから、その『時間がない』を説明しろって言ってるんだ!」


「説明はした」


「してない!」


「した」


「してない!」


「した」


眼鏡を外す。


こめかみを押さえる。


深呼吸。


「……」


落ち着け。


落ち着け、俺。


そして。


「――あぁぁぁぁぁぁぁぁぁッ!!」


「だからぁぁぁぁ!!」


「説明という文化を軽視するなぁぁぁぁ!!」


「俺だけ会話のルールが違うじゃないかぁぁぁぁ!!」


森の静寂を破り、鳥たちが一斉に飛び立った。


やがて。


再び静寂が戻る。


「……落ち着いたか」


「……少し」


五和が俺を真っ直ぐ見る。


「怖いなら、怖いと言えばいい」


「……」


何も言い返せなかった。


「説明を求めるのは悪くない」


「だが、ここから先は説明だけでは進めない」


五和は境界の先を見る。


そして。


「選べ」


さっきと同じ言葉。


でも。


今度はふざける気にならなかった。


長く息を吐く。


眼鏡を掛け直す。


怖い。


何があるのか分からない。


父さんの警告だってある。


それでも。


ここで戻ったら。


父さんが何を見たのか。


何を追っていたのか。


きっと、何も分からない。


前を見る。


「……行く」


五和は何も言わなかった。


ただ一歩。


境界へ足を踏み入れる。


俺もその後に続いた。


その瞬間――


風が止んだ。


鳥の声が消える。


空気が変わる。


思わず足を止めた。


「……何だ、これ」


五和は振り返らない。


「ここから先が、境界だ」



目の前にあるのは、ただの山だった。


木々。


岩。


湿った土。


見た目には、何も変わらない。


「……ここが境界?」


「ああ」


五和はそれだけ答え、先へ進んでいく。


俺も少し警戒しながら、その後を追った。


最初は何も感じなかった。


ただ山道を歩いている。


風が吹く。


木々が揺れる。


しかし。


数歩進んだところで、違和感が生まれた。


鳥の声。


聞こえている。


なのに。


どこから鳴いているのか分からない。


近くにも感じる。


遠くにも感じる。


距離感が狂っている。


「……変だな」


五和が振り返る。


「何が」


「音の場所が分からない」


「境界では珍しくない」


それだけ言って、また歩き出した。


さらに進む。


身体が重い。


疲れているわけじゃない。


足は動く。


でも。


何かに引かれているような感覚がある。


空気が合わない。


ここにいること自体が、間違っている。


そんな感覚だった。


「五和」


「何だ」


「ここでは何が起きる?」


五和は少し黙った。


「境界には決まりがある」


「決まり?」


「ああ」


五和が足を止める。


「場所を信じるな」


「道が正しいとは限らない」


「時間を信じるな」


「長くいたつもりでも、そうとは限らない」


そして。


「記憶を信じるな」


眉をひそめる。


「記憶まで?」


「ああ」


「見たものと、覚えているものが違うことがある」


場所。


時間。


記憶。


どれも、普段なら疑うことすらないものだ。


「最後に」


五和が言った。


「意味を信じるな」


「意味?」


「人間は、分からないものを見ると意味を与える」


「名前をつける。理由を探す」


「そうやって世界を理解してきた」


「それが悪いのか?」


「悪くない」


五和は首を振る。


「人間には必要なことだ」


「ただ、境界では迷いになる」


「何で?」


「自分が見ているものではなく」


五和は俺を見る。


「自分が作った答えを見るからだ」


何も言えなかった。


五和は短く言った。


「意味を捨てろ」


その言葉だけが、妙に残った。



さらに奥へ進む。


どれくらい歩いたのか分からない。


その時。


足が止まった。


何かがおかしい。


場所でもない。


時間でもない。


もっと近いもの。


「……」


俺は。


何をしに来たんだ。


一瞬。


頭の中が空白になる。


山へ来た理由。


ここにいる理由。


それが霧の向こうへ遠ざかる。


「……父さん」


無意識に言葉が漏れた。


そうだ。


俺は父さんを探しに来た。


数秒だった。


だが。


その数秒が、妙に長く感じた。


「……今のは?」


「境界だ」


五和が答える。


「記憶を奪ったわけじゃない」


「ただ」


「大切なものの順番を、一瞬だけ狂わせる」


理解したわけじゃない。


でも。


ここが普通の場所じゃない。


それだけは分かった。



その時。


山道の脇に、小さな子どもが座っていた。


白い服。


七歳くらいだろうか。


こちらを見ている。


「……子ども?」


返事はない。


ただ笑っている。


近づこうとする。


「迷子かもしれない」


「行くな」


五和が止めた。


「何で」


「交わる」


「何と?」


五和は子どもを見る。


「境界にいるものと」


もう一度、子どもを見る。


怖くはない。


むしろ。


どこか寂しそうだった。


「大丈夫か?」


声をかける。


子どもが俺を見る。


「今日は違う人」


「……何?」


「前は」


少し笑う。


「お父さんだった」


表情が変わる。


「父さんを知ってるのか?」


子どもは首を傾げた。


「知ってる」


「でも」


「名前は知らない」


「何をしてた?」


「探してた」


「何を?」


「分からない」


少し俯く。


「でも」


「悲しそうだった」


言葉を失った。


父さんが悲しむ姿なんて知らない。


いつも冷静だった。


いつも先を見ていた。


「また来るって言ってた」


子どもが言う。


「でも」


「帰れなかった」


霧が流れる。


子どもの姿が薄れていく。


「待て!」


手を伸ばす。


「お前は何なんだ!」


子どもは少し考えた。


「分からない」


「ここにいるだけ」


そして。


消えた。


静寂。


「……何だったんだ」


「分からない」


思わず苦笑する。


「本当にそればっかりだな」


五和は歩き出す。


「境界に触れたものは、何かを見る」


「記憶かもしれない」


「想いかもしれない」


「別の何かかもしれない」


振り返る。


そこには何もない。


ただ、霧だけが残っていた。


その瞬間。


一瞬だけ。


別の景色が重なった。


小さな自分。


山道。


隣にいる父親。


父親の声。


「鼎」


振り返る。


そこには。


幼い頃の俺がいた。


「……俺?」


次の瞬間。


景色は消えた。


父さんは、ここに来ていた。


そして。


俺も。


もしかしたら。


ここに来たことがある。


でも。


今見たものが本当に自分の記憶なのか。


それすら。


俺には分からなかった。



「行くのか」


霧の奥を見つめたまま呟く。


子どものような怪異が消えた場所には、もう何もない。


静寂だけが残っていた。


五和は周囲を見渡し、小さく頷く。


「残響が残っていたなら、この先にも何か残っているかもしれない」


「……父さんの痕跡が?」


「可能性はある」


その一言だけで十分だった。


迷わず歩き出す。


霧はさらに深くなる。


さっきまで見えていた木々の輪郭も曖昧になり、距離感さえ分からなくなる。


足音だけが静かに響いた。


しばらく歩いた頃だった。


耳鳴りがした。


最初は小さかった音が、少しずつ大きくなる。


景色が揺れた。


「鼎」


五和の声が遠い。


「大丈夫だ」


そう答えた自分の声も、どこか他人のもののようだった。


まだ行ける。


ここまで来て、引き返すわけにはいかない。


父さんは、この先へ進んだのかもしれない。


その思いだけで足を動かす。


一歩。


また一歩。


次の瞬間。


膝から力が抜けた。


世界が傾く。


「鼎!」


五和が駆け寄る気配がした。


そのまま。


意識は闇へ沈んだ。



頬を撫でる風で目を覚ました。


鳥の鳴き声。


木々が揺れる音。


ゆっくり身体を起こす。


霧は消えていた。


境界はどこにもない。


見慣れた山の景色だけが広がっている。


「……戻ったのか」


「ああ」


少し離れた場所に、五和が立っていた。


「人が長く留まれる場所ではない」


空を見上げる。


青かった。


さっきまでいた場所が、本当に存在していたのか。


疑いたくなるほどに。


「夢だったのかな」


「そう思うなら、それでもいい」


五和は否定もしなかった。


肯定もしなかった。


目を閉じる。


ふと。


幼い頃の記憶が浮かんだ。


父さんと二人で歩いた山道。


転ばないように差し出された、大きな手。


疲れた俺を、笑いながら励ます声。


父さんは山が好きだった。


休日になるたび、この山へ来ていた。


俺も、何度も連れてきてもらった。


……本当に、ただ山が好きだったから来ていたんだろうか。


そんな考えが頭をよぎる。


でも。


今はまだ分からない。


忘れていたわけじゃない。


思い出せなかっただけなんだ。


ゆっくり立ち上がる。


山の空気を、胸いっぱいに吸い込んだ。


父さんが見ていたもの。


境界。


怪異。


そして。


父さんが、なぜ姿を消したのか。


まだ何も分からない。


それでも。


前より少しだけ。


父さんに近づけた気がした。


夢だったのか。


現実だったのか。


今でも分からない。


ただ。


父さんが消えたあの日から。


俺の中の秒針は、止まったままだった。


この日を境に。


それは静かに動き始めた。



境界から戻って、数日が経った。


俺は五和と連絡先を交換していた。


「何かあれば連絡しろ」


それだけだった。


数日前までなら、知らない男の連絡先がスマートフォンに増えたところで、何とも思わなかっただろう。


今は違う。


その一件だけで、世界の見え方が少し変わってしまった。


もっと劇的な変化を想像していた。


電柱が消えるとか。


空が割れるとか。


神様が歩いてくるとか。


自販機のおしるこが全部売り切れているとか。


そんなことは一つも起きない。


朝になれば大学へ行く。


講義は始まる。


世界は驚くほど普通だった。


普通だったから困る。


強いて言えば、学食のカレーが五円くらい値上がりしていた。


世界情勢は一体どうなっとるんだ。


……まあ。


世間一般と比べれば安い。


その程度だった。



民俗学概論の講義は、今日も淡々と進んでいた。


教授は村落信仰について話している。


人は理解できないものに名前をつける。


恐れ、祀り、語り継ぐ。


そうやって伝承は生まれるのだという。


教室の何人が真面目に聞いているのかは知らない。


少なくとも俺は、教授の話を聞きながら境界の景色を思い出していた。


霧。


子どものような怪異。


そして。


父さんの声。


あれは伝承なんかじゃない。


説明のつかないものは、本当に存在する。


それを知ってしまった。



講義が終わると、そのまま部室へ向かった。


オカルト研究会の部室は相変わらずだった。


「今年も○○トンネル行く?」


「去年、警察来ただろ」


「呪われるなら美少女の幽霊がいい」


「ロングヘア限定」


「ショートも捨て難い」


実に平和だった。


数日前までなら、俺もこの議論に参加していたと思う。


民俗学的には長髪の女性霊は――


とか言い始めて。


うるさいと止められていたかもしれない。


今は笑うしかない。


呪いにも。


美少女にも。


そんな都合のいい話はなかった。



部室を出る。


夏の夕方は、まだ明るい。


学生たちは笑いながら歩いている。


誰かがアイスを落として騒いでいた。


どこにでもある大学の日常だった。


俺もその中を歩いている。


ちゃんと歩いている。


ちゃんと息もしている。


でも。


少しだけ遠かった。


自分だけが、一歩後ろからその景色を眺めているような気がした。



家に帰る。


父さんの部屋の前で足が止まった。


今日も開けない。


開けられない。


別に中身が変わるわけじゃない。


変わっていないことを知っているから。


開けられない。


スマートフォンが震えた。


画面を見る。


五和だった。


『時間があるなら来い』


短い文章。


場所だけが送られてきている。


返信は求められていない。


スマートフォンを閉じる。


行かなければ、それで終わる。


明日も大学へ行く。


レポートを書いて。


オカルト研究会で馬鹿な話をして。


学食のカレーがまた五円くらい値上がりしたら文句を言う。


そんな毎日を送ることはできる。


……本当に?


あの日を知ってしまった俺が。


知らなかった頃の俺に戻れるんだろうか。


立ち上がる。


靴を履く。


玄関のドアを開ける。


外はまだ明るかった。


蝉が鳴いている。


夏は何も知らない顔で続いていた。

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