第17話「包丁一本のFランク」
ギルド本部の受付は、朝から騒がしかった。
受付嬢のリーネは、今日三度目のため息をついた。依頼書の束を整理する手を止めて、カウンターの向こうを見た。
Cランクの女が立っていた。黒い髪を後ろで括って、右の頬に浅い傷がある。槍使い。名前はセレナ。パーティ「鉄の環」のリーダーだ。
「だからさ、聞いてるの?」
「聞いてます。十五層で屋台を出しているFランクの話ですよね」
「屋台じゃない。食堂だ。あの人が握り飯をくれたんだよ。二十層の安全地帯で。帰りに休憩してたら声をかけてきて、四人分の握り飯を渡してくれた」
リーネはペンを走らせた。報告書の書式に従う。日付、場所、対象の特徴。
「Fランクのプレート。エプロン姿。包丁一本。背負い籠」
「それだ。お代はいらないって言われた」
セレナの声が少し上がった。後ろに並んでいた冒険者が振り返る。
「それだけなら別にいい。ダンジョンで飯を分けてくれる親切な飯屋だってだけだ。でもさ」
セレナが腕を組んだ。
「その握り飯を食った後、全員の体が回復したんだよ。二十三層で岩蛇にやられて、盾持ちは包帯巻いてるし、回復術師の魔力は底だった。携帯食を食べても全然回復しなかったのが、あの握り飯を一個食っただけで立てるようになった」
リーネのペンが止まった。
「回復、ですか」
「回復だ。盾持ちのアルトは腕の痛みが半分になったって言ってる。回復術師のユーリは魔力が戻ったって指先見てたし、うちの槍使いのヤンは体が軽くなったって叫んでた」
「握り飯一つで」
「握り飯一つで」
リーネは報告書の余白に線を引いた。これで何件目だろう。
カウンターの裏に、積み上げた報告書がある。ここ一週間で溜まった分だ。全部、同じ人物に関するもの。
十五層の安全地帯でFランクが食堂を営んでいる。包丁一本。エプロン姿。猫背。
最初に報告が上がったのは二週間前だ。二十層付近のCランクパーティからだった。「Fランクが単独で二十層を歩いていた」。その時は気にも留めなかった。Fランクが迷い込んだのだろうと。
次が一週間前。二十五層のBランクパーティから。「包丁一本のFランクを見た。A級のヴァルダと一緒に歩いていた」。これは眉をひそめた。A級のヴァルダが、Fランクと?
三日前。別のBランクから。「二十五層の安全地帯で、Fランクのエプロン男がA級のヴァルダと竜人族の少女と三人で芋を焼いていた」。芋を焼いていた。二十五層で。
そして今日。Cランクのセレナから。「握り飯一つで四人の体が回復した」。
「セレナさん」
「なに」
「その方の名前は聞きましたか」
「カイ。十五層で屋台をやってるって言ってた」
リーネはファイルを引き出した。ギルド登録名簿。Fランクの「カ」の欄。
カイ・ヴェルナー。登録番号F-28841。食品販売許可枠。登録日は五年前。
住所欄は空白。緊急連絡先も空白。推薦者の欄に、一つだけ名前があった。
リーネの目が止まった。
推薦者:オルグレン。
ギルドマスターだった。
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「マスター。お時間よろしいですか」
ギルド本部の三階。マスターの執務室は、書類の山と酒瓶の共存する空間だった。窓から差し込む光が埃を浮かべている。
オルグレンは椅子に深く座って、書類に目を通していた。白髪交じりの髪。皺の深い顔。でも目だけは若い。五十五歳の元S級冒険者。
「なんだ、リーネ」
「十五層のFランク食品販売員について、報告が複数上がっています」
「ああ」
オルグレンは書類から目を上げなかった。
「カイ・ヴェルナー。登録番号F-28841。ここ二週間で六件の目撃報告が——」
「知ってる」
リーネの言葉が止まった。
オルグレンが書類を置いた。椅子の背にもたれて、天井を見上げた。
「六件か。増えたな」
「ご存知でしたか」
「最初の報告から知ってる」
リーネは報告書を差し出した。オルグレンは受け取って、ぱらぱらとめくった。
「Fランクが単独で二十層を歩いている。A級のヴァルダと行動している。二十五層で芋を焼いている。握り飯で四人のCランクパーティを回復させた」
読み上げて、報告書をデスクに置いた。
「よく集まったな」
「マスター。このカイ・ヴェルナーの推薦者はマスターご自身です」
「そうだ」
「Fランクの食品販売許可枠に、ギルドマスターが推薦を出すのは異例です」
「異例だな」
オルグレンの口元が微かに動いた。笑ったのかもしれない。
「リーネ。お前、飯は好きか」
「は?」
「飯だ。美味い飯は好きか」
「……はい。好きですけど」
「十五層に行ってみろ。安全地帯に屋台がある。銅貨三枚でスープが飲める」
「マスター。私は報告書の対応を——」
「対応はしなくていい。あいつは放っておけ」
リーネは黙った。
オルグレンが椅子から立ち上がった。窓に近づいて、外を見た。ギルド本部の前の広場が見える。冒険者たちが行き交っている。
「五年前に、一人の男がギルドに来た」
リーネは動かなかった。
「剣を置きたいと言った。もう戦わない。その代わり、飯を作りたいと。ダンジョンの中で、冒険者のために」
オルグレンの声は静かだった。
「Fランクの食品販売許可を出してくれと頼まれた。私は出した。推薦も書いた。理由は一つだ」
窓の外を見たまま、言った。
「あいつの作った飯を食ったことがあるからだ」
リーネは報告書を抱えたまま立っていた。
「マスター。それだけでは、増え続ける報告に対応できません。このまま放置すれば、冒険者の間で噂が大きくなります。Fランクが深層を徒歩で往復している。A級と行動を共にしている。料理に異常な回復効果がある。これは——」
「分かってる」
オルグレンが振り返った。
「リーネ。一つだけ聞いていいか」
「はい」
「あいつの報告書に、被害の記録はあるか」
リーネは黙った。報告書を見直した。
「……ありません。全て目撃報告のみです。被害報告はゼロ。むしろ今日のセレナさんの件では、Cランクパーティの回復を助けています」
「だろ」
オルグレンは椅子に戻った。
「被害がない。誰も困ってない。飯が美味くて、人を助けてる。ギルドが動く理由がどこにある」
「規則上は——」
「規則は知ってる。私が作ったんだ、半分は」
オルグレンは引き出しから酒瓶を出した。昼から飲む気らしい。
「報告書は受け取っておく。ファイルに綴じろ。でも調査員は出すな。あいつの食堂に誰かを送り込むな。あいつは客に飯を作ってるだけだ。それを邪魔する権利は、ギルドにはない」
リーネは報告書を胸に抱えた。
「……了解しました」
踵を返しかけて、止まった。
「マスター」
「なんだ」
「その方の料理は、本当に美味しいんですか」
オルグレンは酒を一口含んだ。飲み込んで、天井を見上げた。
「ああ。あいつの飯はな」
少し間があった。
「食った後に、もう一回生きてみようかなと思える飯だ」
リーネは何も言えなかった。頭を下げて、執務室を出た。
廊下を歩きながら、報告書を見下ろした。
カイ・ヴェルナー。Fランク。食品販売許可枠。推薦者:オルグレン。
ファイルに綴じる。調査員は出さない。マスターの命令だ。
でも、と思った。
十五層の安全地帯。銅貨三枚のスープ。
行ってみようか。個人的に。




