第16話「お代はいらない」
蒸し団子を布に包んだまま、棚に並べた。五つ。白い丸が行儀よく並んでいる。
ルークが来るのは昼前だろう。それまでに朝の粥を仕込んで、仕入れに出る。今日は十六層と二十二層。洞苔と火穂麦の補充。イーリスも来るはずだ。
横穴から出ると、安全地帯の空気がいつもより冷えていた。岩壁に結露が浮いている。季節が深層にも伝わるのか、壁が湿って苔の匂いが濃い。
粥を仕込んだ。リナの分。殻を剥いて、樹液を入れて、弱火にかける。岩貝の汁は四滴。洞苔の粉はひとつまみ。蓋をする。
軽い足音が聞こえた。
「おはよう」
イーリスが安全地帯の入口に立っていた。翼を畳んで、外套は着ていない。銀色の髪が背中に流れている。
「早いな」
「約束でしょ」
「まだ約束の時間より早いぞ」
「あたしの方がもっと早い」
このやりとり、前にもした。
イーリスが屋台の横に来て、鍋を覗いた。粥の匂いを嗅いで、小さく頷いた。
「いい匂い。岩貝がちゃんと馴染んでる」
「昨日の配合と同じだ。安定してきた」
粥に蓋をして、火を落とした。あとは余熱で仕上がる。
カイは背負い籠を出した。空の布袋を三枚。水筒。包丁。
「弁当を作る。待ってろ」
保存袋に手を入れた。洞窟米はまだある。干し魚が二枚。岩貝が四つ。火竜草の乾燥葉。
今日は一味違う握り飯にする。
岩貝を一つ割った。殻の中の汁を小鍋に絞った。もう一つ割って、白い身を取り出した。身を包丁で細かく叩く。こりこりした弾力がある。叩くと繊維がほぐれて、粘りが出てきた。
叩いた岩貝の身を、炊いた洞窟米に混ぜた。貝の汁も少しだけ加える。手で混ぜると、米粒の間に岩貝の旨味が入り込んでいく。塩気と甘さが混ざった匂いが指先から立った。
握る。手の中で米と貝が一つになる。
表面に洞苔の粉を薄くまぶした。深緑の粉が白い握り飯の表面を覆って、磯の香りが立つ。
六つ握った。二人分。
「……何それ」
イーリスが鼻をひくつかせていた。
「岩貝の混ぜ飯の握り。洞苔を振ってある」
「握り飯と違う匂いがする。貝が入ってるのに、喧嘩してない」
「米が貝の味を吸うんだ。炊いた後に混ぜるから、米の甘さが残ったまま貝の塩気が入る。両方生きる」
イーリスの尻尾の先がぴくっと動いた。
「……一個食べていい?」
「道中で食う分だ。先に食ったら帰りが足りなくなるぞ」
「一個だけ」
「だめだ。行くぞ」
イーリスの翼がばさっと揺れた。不満の動き。
布に包んだ握り飯を籠に入れて、安全地帯を出た。
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十六層は湿っていた。
壁一面の苔が、魔石の光を反射して薄緑に光っている。水滴が天井から落ちて、足元に浅い水たまりを作っていた。
カイは壁に近づいて、苔を確かめた。
「いい状態だ。水分をたっぷり含んでる」
手ぬぐいで苔を丁寧に削り取った。前回より量を多めに取る。粥の仕上げ用と、佃煮の試作用。それから、もう一つ試したいことがある。
「イーリス。このへんの苔、匂いに違いはあるか」
イーリスが壁に顔を寄せた。目を閉じて、鼻だけで探っている。
「……ある。上の方が塩い。下の方が甘い。水が溜まるところの苔は粘りが違う」
「分かるのか」
「水のある場所の苔は、水の味を吸ってる。当たり前でしょ」
カイは上と下で別の袋に分けて採った。塩い方と甘い方。用途が違う。
「舐めれば俺も分かる。でもお前は嗅ぐだけで全部見えてる」
「……褒めてるの?」
「事実だ」
十七層を抜けた。岩貝の群生地を通ったが、今日は採らない。在庫がまだ六つある。
十八層。リザードマンの縄張り。
カイが通路に入った瞬間、壁際の影が二つ動いた。
動いたのは一瞬だった。二体のリザードマンが壁の裂け目に引っ込んで、気配が消えた。
「……また逃げた」
カイは裂け目の奥を覗いた。リザードマンの鱗が奥の暗がりで光っている。
「あいつら、体つきは悪くないんだよな。尾の付け根の肉が厚い。火を通したら弾力があって、出汁に向きそうなんだが」
「食べる気なの」
「いつか誰かが仕留めたら、もらえないかなと思って」
「臆病なんじゃなくて、食材として見てるから逃げるんじゃないの」
「まさか。俺はただの飯屋だぞ」
「臆病じゃない」
イーリスの声は平坦だった。もう指摘する気力がないらしい。
二十二層の溶岩帯に入ると、空気が乾いた。壁の岩が赤みを帯びて、足元から熱が這い上がる。
火穂麦の群生地は前回と同じ場所にあった。赤い穂先がぱちぱちと火花を散らしている。
「多めに採る。リナの粥と、蒸しの分と、お前の練習用」
「あたしの分まで」
「殻剥きの練習は続けるだろ。食材がないとできない」
イーリスは何も言わなかった。翼がほんの少し開いて、すぐ畳まれた。
カイは手ぬぐいを濡らして穂の根元を掴み、火花を消して折り取った。十本。前回より多い。イーリスも手伝って、二人で布袋に包んだ。
「よし。帰り道で飯にしよう」
「やっと」
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二十層の地下湖が見えてきた。青白い光が水面に揺れている。
カイは湖を素通りしなかった。水辺にしゃがんで、水面を見つめた。
「ちょっと待ってくれ。魚を捕る」
「え、帰りに?」
「ルーク達の分もいるからな。多めに」
カイは水辺にしゃがんで、右手を水面に浸した。指先をゆっくり揺らす。波紋が広がって、湖底の青白い光が揺れた。
しばらく動かなかった。息を止めているようにも見える。
水の奥から、銀色の影が近づいてきた。光に紛れて、するすると。カイの指先の揺れに引き寄せられている。
影が手のひらの下に入った瞬間、水面が跳ねた。
カイが手を引き上げると、銀色の地底魚が指の間で尾を振っていた。
「……何回見ても慣れない」
「指を揺らすと寄ってくるんだ。あとは掴むだけ」
同じ要領でもう二匹。三匹の地底魚が岩の上に並んだ。
一匹目を包丁で締めた。血抜きして、三枚におろす。水辺の平らな岩の上に、白い切り身が並んだ。透き通った身の中心に、うっすら赤みが差している。残りの二匹は締めて布に包んだ。十五層に持ち帰る分だ。
イーリスの鼻が動いた。
「新鮮。脂が乗ってる」
「昼の個体だからな。朝より脂がある」
切り身は握り飯と一緒に食う。でも、そのままじゃない。
カイは小鍋を出した。岩貝を一つ割って、殻の中の汁を鍋に入れた。鉱泉水を足す。洞苔の乾燥したやつを一つまみ。
火をつけた。
鍋の中で、鉱泉水が温まっていく。岩貝の塩気と洞苔の磯の香りが溶け出して、透明だった水がほんのり色づいた。
「これは……出汁?」
「ああ。岩貝と洞苔の出汁だ」
匂いが変わった。磯の香りが湯気と一緒に立って、地下湖の冷たい空気に溶けていく。
カイは地底魚の骨を鍋に入れた。さっきの三枚おろしで残った中骨。頭も入れた。
骨が出汁に沈んで、白い泡がふつふつと浮いた。魚の旨味が岩貝と洞苔の出汁に合流していく。
「ねえ。何作ってるの」
「見てろ」
出汁が仕上がった。骨を引き上げて、液体だけにする。透き通った金色の出汁。岩貝の塩気、洞苔の磯味、地底魚の旨味が三層になっている。
カイは器に握り飯を一つ置いた。岩貝と洞苔を混ぜたやつ。その上に地底魚の切り身を二枚、扇状に並べた。
「これに——」
熱い出汁を、切り身の上からゆっくりかけた。
じゅう、と微かな音がした。
切り身が白く変わった。透き通っていた身が、熱で一瞬にして乳白色に染まる。完全には火が通っていない。表面だけが白くなって、中はまだ生の赤みを残している。半生。
出汁が握り飯に染みていく。米粒の隙間から金色の液体が滲んで、器の底に溜まった。洞苔の粉が出汁に溶けて、表面にうっすら緑色の膜ができた。
湯気が立った。
岩貝の塩気と洞苔の磯味。地底魚の脂が出汁の表面に薄い虹色の膜を作っている。魚の旨味と米の甘さと貝の塩気が、全部湯気の中に混ざって、鼻から入ってきた。
イーリスの翼が開いた。
「なに、これ」
「握り飯に出汁をかけて、切り身を半生にする。出汁茶漬けだ」
「ちゃづけ」
「……いや、そういう名前の料理が、昔どこかに。名前は忘れた」
イーリスの前に器を置いた。
「食え」
イーリスは器を両手で持ち上げた。湯気が顔に当たる。銀色の髪が湯気で揺れた。
目を閉じた。まず匂いだけを嗅いでいる。長い時間、匂いだけを追っていた。
「……三つある。匂いが三つ。貝が先で、次に磯。最後に魚。でも器の底の方から……米が、全部を受け止めてる」
目を開けた。
匙で半生の切り身と米を一緒にすくった。出汁が匙から垂れた。口に入れた。
体が止まった。
翼が大きく開いた。角の根元から薄い湯気が立った。
口の中で、切り身の表面は出汁の熱で柔らかくなっている。でも中心はまだ冷たい。脂がじわっと舌に広がって、その下から米の甘さが来る。出汁が米粒の間から滲み出して、魚と米の味を一つにまとめて喉に落ちていく。
洞苔の磯味が、最後に鼻に抜けた。
「……」
イーリスは黙っていた。二口目をすくった。三口目。匙の動きが速くなった。四口目で、器を傾けて出汁を飲んだ。
飲み込んだ後、器を両手で抱えたまま動かなかった。
「……ずるい」
「え?」
「こんなの、道中で出してくるのずるい。ずるいよ。こんなの」
声が小さかった。翼が畳まれて、角の根元が赤い。甘い匂いが出汁の湯気に混じっていた。
カイは自分の分を食べた。出汁をかけた瞬間に切り身が変わるあの感触。半生の食感と、出汁の温かさと、米の甘さ。三つが口の中で出会って、一つになって消えていく。
「うまいな」
「……うまいとかじゃない。なんて言えばいいか分からない。口の中で全部が溶けてって……でも消えない。飲み込んだのに、まだいる。ここに」
喉を押さえた。
「余韻、ってやつだ」
「よいん」
「食べた後に残る味のこと。出汁が効いてると余韻が長くなる」
「……覚えた。よいん」
イーリスは空の器を見つめていた。底に残った出汁の膜を、匙で丁寧にすくって最後の一滴まで飲んだ。
器を置いて、膝を抱えた。
「……もう一杯はないの」
「魚は一匹しか捕ってない」
「……」
翼がぱたっと垂れた。
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二十層の安全地帯で、転送門の脇に人がいた。
四人組のパーティだ。盾持ちが一人、槍使いが二人、回復術師が一人。Cランクのプレートが揺れている。全員疲弊していた。壁にもたれて、硬い携帯食を無言でかじっている。盾持ちの右腕に包帯が巻いてあった。
帰る前の休憩だろう。深い階で消耗して、安全地帯まで戻ってきたところか。
カイは彼らの横を通り過ぎようとして、足を止めた。
携帯食をかじっている手が震えている。盾持ちだけじゃない。四人とも。食べているのに、体が回復していない顔だ。
「腹、減ってるだろ」
声をかけたのはカイだった。
四人が顔を上げた。
声を出したのは槍使いの一人だった。女だった。黒い髪を後ろで括って、右の頬に浅い傷がある。
「……誰だ」
「飯屋だ」
「は?」
カイは籠から布包みを取り出した。岩貝の混ぜ飯の握りが、まだ四つ残っている。帰りのカイとイーリスの分。
「これでも食え。携帯食よりはましだ」
四人が顔を見合わせた。ダンジョンで見知らぬ男に食べ物を渡される。普通なら警戒する。
でもカイの手から漂う匂いが、携帯食の乾いた匂いとは全く違っていた。
槍使いの女が一つ受け取った。鼻を近づけた。
「……何だこの匂い。磯? 米に貝が混ざってる?」
「岩貝の混ぜ飯だ。表面の緑のは洞苔の粉。食って損はしない」
女がかじった。手が止まった。
噛む前に味が来ていた。岩貝の塩気と米の甘さが、口に入った瞬間に混ざった。噛むと貝の身がほぐれて、旨味がじわっと広がる。洞苔の磯の香りが鼻に抜けた。
「……美味い。何だこれ。携帯食と同じダンジョンの食材なのに、なんで——」
盾持ちが包帯の巻かれていない左手で握り飯を受け取った。一口かじって、目を閉じた。
「温かい。腹の底から」
もう一人の槍使いが全部食べてから、自分の手を握ったり開いたりしていた。
「体が軽くなった。さっきまで握力が戻らなかったのに」
回復術師が自分の指先を見ていた。
「……魔力が少し戻ってます。食事で? こんなことあります?」
「洞窟米と岩貝と洞苔。それだけだ」
「それだけって……」
槍使いの女が立ち上がった。足がしっかりしている。さっきまでの震えが止まっていた。
「お代は」
「いらない」
「は?」
「余った弁当を渡しただけだ」
カイは背負い籠を直した。
四人はカイを見ていた。Fランクのプレート。エプロン。包丁一本。背負い籠。
「あんた、名前は」
「カイだ。十五層で屋台をやってる」
「十五層の……」
槍使いの女が何かを思い出そうとしていた。
「包丁一本のFランク。あんたか」
カイはもう歩き出していた。イーリスが隣にいる。
「お代はいらないって言ったでしょ」
イーリスの声が小さい。
「余った分だからな。仕入れの帰りで、籠が重いし」
「あたしの分だったんだけど」
「悪い。明日多めに作る」
イーリスの翼がばさっと揺れた。不満の動き。でも足は止めなかった。
「……あの人たち、握り飯食べた時の顔」
「ん?」
「美味しかったんだと思う。そういう顔してた」
カイは少し笑った。
「そうか。よかった」
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十五層に戻ると、ルーク達が来ていた。
「カイさん! 朝から留守だったので——」
「仕入れだ。今日は多めに採ってきた」
籠を降ろした。火穂麦の穂が十本、洞苔の袋が二つ、地底魚が一匹。
「リナの蒸し団子、棚にある。粥と一緒に持っていけ」
布に包んだ蒸し団子と、保温葉で包んだ粥の器をルークに渡した。
「蒸したやつは舌で潰せる。粥と交互に食べさせろ。口当たりが変わると飽きずに食べられる」
「はい。ありがとうございます」
「お前も飯食ってから行け。リナは逃げない」
「いえ、先に届けたいんです。早く食べさせてやりたくて」
ルークの目が真っ直ぐだった。
「……分かった。帰ってきたらお前の分も取っておく」
ルークが器を抱えて走っていった。トビーが「あいつ朝飯もそこそこに急いで来たんだよな」と呟いた。
残りの三人に飯を出す。
今日はメニューを変える。
干し魚を炙る代わりに、地底魚を捌いた。二十層で捕ってきた残り。
切り身を塩で締めた。岩塩を両面にすり込んで、十分待つ。表面の水分が抜けて、身が引き締まった。塩を洗い流すと、脂がうっすら浮いている。
これを薄く切った。三枚。
握り飯を三つ握った。今朝の岩貝の混ぜ飯ではなく、普通の洞窟米。白い握り飯。
干し魚の炙りの代わりに、この塩締めの薄切りを握り飯の上に乗せた。
「……カイさん、今日のは見た目が違う」
ミラが手帳を開いている。
「塩締めだ。生の切り身に塩を当てて水を抜く。旨味が凝縮される」
もう一品。地底魚の頭と骨を鍋に入れて、鉱泉水を張った。火をつける。
ゆっくり沸かすと、白い泡が浮いた。泡をすくって捨てる。骨から旨味が出て、水が金色に変わっていく。
洞苔をひとつまみ。
磯の香りが混じった。魚の出汁と苔の磯味が合流して、鍋の中で透き通った金色の汁物になった。
三人の前に並べた。
握り飯。塩締めの地底魚。骨出汁と洞苔の汁物。
トビーが塩締めの切り身を一枚つまんで口に入れた。
「——ッ!」
噛む前に味が来た。塩で締まった身が舌に乗った瞬間、凝縮された脂がじわっと溶け出した。噛むと身がほどけて、旨味が口の中に広がった。生でもない、焼きでもない。塩が魚の味を別物に変えている。
「な、なんだこれ! 干し魚と全然違う! 同じ魚なのに! なんで!」
「同じ魚でも処理で味が変わる。塩で水を抜くと、旨味の密度が上がるんだ」
ミラが汁物を飲んだ。ペンが止まった。
「……この汁。骨から出汁が出ています。苔の旨味と混ざって……これ、完全に新しい味です。手帳の分類に入らない」
エリカは塩締めを一切れ食べて、握り飯を小さくかじって、汁物を飲んだ。全部を順番に味わっている。
「……体の中で、三つの味が合流してます。それぞれ違う場所に届いてる感じがする」
「そうか」
カイは鍋を洗いながら、棚を見た。
火穂麦が十本。洞苔が二袋。岩貝が五つ。石乳樹の樹液がまだ残ってる。保存袋の中には熟成肉と乾燥香草。
食材が増えてきた。
保存袋に入れれば鮮度は保てる。でも、保存袋の中は時間が止まる。止まった食材は変化しない。乾燥も熟成もしない。苔は乾かしてこそ粉になるし、火穂麦は穂のまま風に当てた方が殻が剥きやすくなる。岩貝は岩壁の冷気で少し寝かせると汁の味が丸くなる。
生きた食材は、生きた場所で保つ方がいい。
横穴の棚はもう満杯だ。苔は乾燥に場所がいるし、火穂麦は穂のまま保存すると嵩張る。岩貝は岩壁に寄せて冷やしているが、数が増えたら壁際だけでは足りない。
「……保管場所を増やさないとな」
独り言だった。
十五層の安全地帯の奥。横穴の先に、もう一つ小さな空洞がある。五年前に見つけたが、小さすぎて寝床にはしなかった。でも食材の保管庫にはちょうどいい。
岩壁が冷たくて、風通しがある。乾燥に使える棚も作れる。
明日、整備しよう。籠が重い日が増えてきた。客も少しずつ増えている。一人でやるなら、台所を広げないと仕込みが追いつかなくなる。
カイは粥の器を洗って、棚に戻した。リナの紙が包丁の横にある。
『おいしかった もっとたべたい』
もっと食べたい。そう言ってくれる人がいるなら、もっと作らないと。
イーリスが屋台の端に座っていた。膝を抱えて、出汁茶漬けの器を見つめている。もう空なのに。
「……あの握り飯、明日は多めに作ってよ。あたしの分も。約束したでしょ」
「ああ。約束した」
「出汁茶漬けも」
「魚を二匹捕ればできる」
イーリスの翼がゆっくり開いて、また畳まれた。
帰り際、通路の角を曲がる前に、振り返った。
「カイ」
「ん?」
「あたしの握り飯、あの人たちにあげたでしょ」
「ああ。悪かった」
「……あのことは別に怒ってない。あの人たち、食べた時いい顔してたから」
少し間があった。
「……あなたの飯食べた人、みんなあの顔するよね」
イーリスは通路の闘に消えた。甘い匂いがかすかに残った。
カイは屋台を閉めて、横穴に戻った。
明日やること。リナの粥。蒸し団子の追加。保管庫の整備。それと、出汁茶漬けの魚を二匹。
手が多い方がいい。そろそろ、一人では回らなくなってきた。




