第15話「ほどける」
火穂麦の穂が四本、棚に並んでいた。
カイは朝の粥を仕込んでいた。リナの分。毎日同じ手順だ。殻を剥いて粒を取り出し、鉱泉水に入れて、石乳樹の樹液を足す。洞苔の粉をひとつまみ。磯の香りがかすかに立つ。蓋をして、火を絞る。
足音が聞こえた。
翼をきつく畳んだ銀髪の少女が、屋台の前に立っていた。
一昨日の朝ぶりだ。酒で寝落ちして、布をかけられて、何も言わずに帰った、あの朝ぶり。
イーリスは何も言わなかった。いつもの場所に座った。角の根元がほんの少し赤い。朝の寒さのせいか、別の何かか。カイには分からなかったし、気にもしなかった。
粥の鍋から穀物の匂いが立ち始めている。火穂麦の粒がほどけてきた合図だ。
カイは棚から火穂麦の殻を一つ取って、イーリスの前に置いた。
「剥いてくれ。もう一本ぶんいる」
イーリスの指が殻に触れた。一瞬止まって、それから動き出した。親指と人差し指で殻の端を押さえて、もう片方の手で粒を押し出す。力加減が安定している。潰れない。前は二割潰していたのが、今はほぼ全部きれいに出てくる。
「うまくなったな」
「……」
返事がない。いつもの「別に」も出てこない。翼の端がぴくっと動いたが、それだけだった。手は止めない。剥いた粒が三つ、四つ、五つと白い列になって並んでいく。
カイは粥の火加減を見ながら、イーリスの剥いた粒を受け取った。きれいな粒だ。割れていない。表面に傷もない。
「昨日、一つ考えてた」
「……なに」
「麺な。あれは弾力がある。噛まないと飲み込めない。リナにはまだ無理だ」
棚から火穂麦の穂をもう一本取った。四本のうちの一本。リナの粥に三本は残す。残り一本を実験に使う。
「粥は全身に回る。麺は一点に集中する。どっちもいいけど、リナの口には合わない。もっと柔らかい形にできないか」
殻を剥いて、粒を取り出した。石の上に並べて、包丁の腹で叩く。白い粉が広がった。昨日と同じ。水を加えて練る。石乳樹の樹液を足す。弾力のある生地ができた。
昨日はこれを薄く伸ばして切った。麺になった。
今日は切らない。
生地をちぎった。小指の先ほどの大きさに。手のひらに乗せて、丸めた。
粉を練って丸めて、蒸気で火を通す。何かの名前が喉の奥まで来て、消えた。白い、丸い、湯気が立つもの。誰かが蒸篭を開けた時の匂いを覚えている。どこの誰だったかは思い出せない。でも手は迷わない。蒸した穀物は柔らかくなる。歯がいらないくらいに。
鍋を一つ出した。底に鉱泉水を浅く張って、上に笊を乗せる。笊の上に丸めた生地を並べた。六個。白い小さな玉が、等間隔に並ぶ。
蓋をかぶせた。火をつけた。
「……なにしてるの」
イーリスが振り向いていた。殻剥きの手が止まっている。
「蒸す」
「蒸す?」
「蒸気で火を通す。焼くでもない、煮るでもない。湯気だけで」
鍋の底で水が沸き始めた。かすかな泡の音。蓋の隙間から白い蒸気が細く漏れる。
イーリスの翼が少し開いた。折りたたまれていた力がゆるんだ。料理への興味のほうが、気まずさに勝ったらしい。
蒸気が厚くなった。穀物の甘い匂いが、湿った空気に乗って広がった。粉を練った時は粉っぽい匂いが立った。茹でた時は湯の匂いに混じった。蒸気で温まった生地からは、もっと丸い、やわらかい匂いがしている。
「……変わった」
イーリスが鼻を動かした。蒸気に顔を寄せている。
「匂いが?」
「麺の時は、粉の匂いがそのまま尖って強くなった。これは……まるくなってる。角が取れてる。匂いが」
カイの手が止まった。
蒸気が生地の表面を包み込んで、穀物の甘さをゆっくり引き出している。焼けば表面が閉じる。茹でれば水に溶け出す。蒸すと、閉じもせず、溶けもせず、中から滲んでくる。火穂麦の魔力が、急がずに外へ出てくる。
「お前の鼻、本当にすごいな」
「……普通」
蓋を開けた。
白い湯気がふわりと上がった。笊の上の六つの玉が、蒸気を吸ってほんの少しだけふくらんでいた。麺みたいに透き通ってはいない。表面にうっすらと水滴がついて、魔石灯の光を受けて静かに光っている。
指で突いた。やわらかい。押すとへこんで、ゆっくり戻る。
一つつまんで口に入れた。
舌の上で、つぶれた。
噛む必要がなかった。舌で押しただけでほどけて、穀物の甘さが口の中にじわりと広がった。樹液の脂が舌の表面を滑って、飲み込んだ後に火穂麦の温かさがのどの奥にとどまる。麺の時とは全然違う。弾力で押し返してこない。抵抗がない。力を入れなくていい。口の中でゆっくり崩れて、甘さだけが残って、消えていく。
麺は健康な歯がある人間の食べ物だ。これなら噛む力がなくても食べられる。
「いける」
もう一つつまんで、イーリスの前に置いた。
「食ってみろ」
イーリスは指先でつまんだ。少し力が入りすぎて、表面がへこんだ。
「あ」
「大丈夫だ。そのくらい柔らかい」
口に入れた。
イーリスの目が閉じた。
翼が、ゆるんだ。畳んでいた力が抜けるように、左右にすこし開いた。角の根元がほんのり赤い。
しばらく何も言わなかった。口の中で、舌が動いているのが顎の動きで分かる。噛んでいない。舌だけで潰している。
「……ほどける」
「ん?」
「くちの中で、ほどける。麺は、つるって逃げる。これは逃げない。とどまって、ほどける」
その時、蒸気と穀物の匂いの中に、甘くて温かい何かが混じった。蒸し生地の匂いとは違う。もっとやわらかくて、もっとかすかな。カイは鼻を動かしたが、すぐに鍋の湯気に紛れて消えた。
「……蒸したほうが、甘い匂いが出るな」
蒸し生地の感想として言った。
イーリスは目を開けていた。頬がうっすら赤い。何も言わなかった。
「舌で潰せたか」
「……うん」
「じゃあリナにも食える」
残りの蒸し生地を布で包んだ。五つ。明日ルークが来たら渡す。粥と一緒に食べさせる。粥で体全体に行き渡らせて、蒸したやつで筋肉に集中して届ける。二段構え。同じ火穂麦でも、粥と麺と蒸しで三通りの届け方ができる。
蒸したほうが匂いが丸いとイーリスは言った。丸い匂いは、丸い届き方をするのかもしれない。あの子の体に、やさしく入っていくような。
「お前も腹減ってるだろ。朝飯にしよう」
カイは横穴から干し魚と洞窟米を出してきた。干し魚を炙って、握り飯を二つ握り、粥の残りを椀に注いだ。
イーリスの前に並べた。干し魚の炙り、握り飯、粥。
「……定食」
「飯屋だからな」
イーリスは握り飯を手に取った。一口かじって、干し魚をかじって、粥をすすった。三つを交互に食べている。翼の力が抜けていた。
「でも足りない」
棚を見た。火穂麦は残り三本。リナの粥だけで二日。蒸す分も作るなら明日にはなくなる。洞苔の粉も底が見えている。
「二十二層に行く。火穂麦の補充だ。十六層にも寄って洞苔を採る。往復で一日かかるな」
粥の蓋を開けた。リナの分ができている。蓋を戻して保温しておく。ルークはいつも昼前に来る。
イーリスは最後の蒸し生地を口に入れていた。ゆっくり舌で潰している。飲み込むまで待ってから、言った。
「……行く」
理由は言わなかった。カイも聞かなかった。
「明日の朝、早めに来い」
「うん」
イーリスは立ち上がった。通路のほうに向かいかけて、足が止まった。棚を見ていた。布に包まれた蒸し生地と、リナの紙が並んでいるのを。
「……あたしにも作れる?」
「丸めて蒸すだけだ。殻剥きができるなら、できる」
イーリスは翼をもう一度引き締めて、歩いていった。今朝来た時より、背中が少しだけ高かった。
カイは鍋を洗いながら考えていた。
切れば弾力。蒸せばほどける。同じ生地なのに、形を変えるだけで口の中でまるで違うものになる。粥は全身に回る、麺は一点に集中する、蒸しは柔らかく集中する。三つ目の形ができた。あと何通りあるんだろう。焼いたらどうなる。揚げたら。
いや、まずは火穂麦だ。明日は多めに採る。リナの粥の分。蒸しの分。それとイーリスの練習用にもう少し。洞苔も補充しないと粥の磯の香りが出せなくなる。十六層と二十二層、両方を回ればいい。
棚の布を見た。蒸し生地が五つ、布に包まれている。その横にリナの紙。
指先に、まだ丸めた時の生地の感触が残っている。あのやわらかさが、あの子の舌の上でほどけるなら。それでいい。




