第一話:新婚旅行の翌日
真っ白なチャペルで彼女と向かい合い、緊張で震える声で誓いの言葉を交わす。
指輪をはめた彼女の手のたしかな温もりを感じた。
――それを見知らぬ世界で確かめ直すことになるとは、思いもしなかった。
頭の奥で、何かが擦れる。
耳鳴りがしている。
低く、重い――まるで獣の唸り声だ。
次の瞬間、頭蓋の内側に何かを押し込まれるような、暴力的な痛みが走る。
踏ん張ろうとして足に力を込めるが、感覚は空を切った。
ゆっくりと、冷えた床の温度が背中へと伝わってくる。
「ぐっ、げほっごほっ……俺は……倒れて……?」
呼吸を思い出したかのように、肺が酸素を求めて大きく膨らんだ。
空気が重い。湿っていて、粘つくような感触が喉の奥にまとわりつく。
ここはどこだ。
見たことのない場所にいる。
手を握る。力は入る。感覚もある。
だが、ほんのわずか、違和感が残る。
自分の体を確かめるように、ゆっくりと体を起こす。
起き上がった瞬間、視界がぐらりと揺れた。
床と天井の位置関係が、一瞬わからなくなる。
「あぁ、くそ……なんだってんだ……」
強烈な光を直視した時のように、目がくらむ。
かすむ視界の中、手を伸ばしあたりを探る。
そのとき、ふと、柔らかい感触が手に触れた。
反射的にそちらを見る。
人が、倒れている。
月の無い夜を思わせる黒髪と、そこに流れる一房の深紅。
ゆったりとした魔導士風のローブが地面に広がっていた。
「レティセラ?」
思わずその名を呼んだ――妻であって妻でない、
妻が選んだ姿の名。
彼女の姿に懐かしさすら覚える。
「おい、大丈夫か?しっかりしろレティセラ」
負担にならないように軽く肩を揺さぶると、彼女は小さく身じろぎをした。
「う……ううん……」
「大丈夫か?俺が分かるか?」
「……え?あなた、ベルクート?」
やっぱり……彼女がレティセラなら、自分もそうなのだろう。
「貴方なのよね?」
一瞬考え込んだ俺にレティセラが不安そうに聞き返す。
「……あぁ、俺だ」
俺は槍を支えに立ち上がり、彼女へと手を差し出す。
「……立てるか?」
「うん、なんとか……うぅ、頭痛い……」
俺の手を取り、地面を確かめるように、ゆっくりと立ち上がる。
「ここどこなの?それにこの格好も……」
「わからん、俺もさっき気がついたばかりだ」
改めて息を吸えば、空気はひどく湿っている。
土と、古い金属と、かすかに焦げたような匂いが混ざっている。
嫌な匂いじゃない。
ただ――
「……生活できるような場所じゃないな」
耳鳴りだと思っていた低い音は、壁の中から響いていた。
低く、唸るような、無機質な振動音。
壁には不気味な文様がうっすら浮かび、天井まで続いている。
部屋の中心は一段盛り上がり、まるで舞台か何かのようだ。
「何かの装置か……?」
土とも金属ともつかない不思議な素材の舞台から、いくつものケーブルが伸びる。
それらは床を這い、壁へと吸い込まれるように消えていた。
まるで、この部屋そのものが、ひとつの機械のようだ。
ただの機械じゃない、年季が入っている。
例えるなら機械の遺跡……
ただの遺跡じゃない。
振動はまだ続いている、ここは使われている。
あるいは――ついさっきまで、使われていたような、そんな気配。
誰が、何のために……
一体ここは、どこだ。
見覚えなんてあるはずがない。
式は昨日終わらせて、今日から――楽しい旅行のはずだった。
最新VRと聞いていたが……
ズキリと頭痛が響く。
痛みが、この状況がVRではなく現実であることを突きつける。
どうして、こんなことになっている。
理解できない。
左手に何かが触れる。
振り向けば、レティセラと目があった。
彼女の手は、いたわるように俺の手を包んでいた。
触れたときの、力の入れ方。
手をつなぐときの、わずかな癖。
この距離感は、間違いようがなかった。
長い時間と、積み重ねで生まれた、確信。
――ああ、間違いない。
愛する人が、ここにいる。
彼女の目は、まっすぐに俺を捉えていた。
言葉はない。
それでも――信じているのだと、そう思わされる視線だった。
そうだな、こんな時こそ冷静でなくちゃいけない。
君を守るために。
これは夢じゃない。信じがたい現実だ。
怖いかって?
怖いに決まっている。
でも怖がっているだけじゃダメなんだ。
「すぅ……はぁ……ありがとう、落ち着いた」
「うんうん、眉間に皺は良くないよ」
茶化したように彼女は言うが、その手は震えている。
彼女の手を握り返す。
お互いの真新しい指輪が、カチリと鳴った。
昨日交わした、二人の誓いの証。
ここがどこか、何が起きたか。
そんなことは、もうどうでもいい。
ここに留まるのが正解か。
それとも、外へ出るべきか。
この場所が安全だという保証はない。
逆に、外がもっと危険な可能性もある。
正解なんてない。
だが、このまま何もしないのは、多分もっと危険だ。
これまでも、そうだったじゃないか。
「そうするしかない」場所に立たされて。
少ない選択肢を選ばされてきた。
だからこそ、今度こそ。
彼女の為に。
自分で選ぶと――
「ベルクート」
「レティセラ」
「……大丈夫。一緒に行こう」
そうだな。
二人で、選び取る。
そういう誓いをしたんだ。
「外に出よう」
「うん」
消しきれない恐怖と不安は、足取りを重くする。
だが、二人なら進める。
一歩、また一歩と、部屋の中にある唯一の扉に近づく。
扉に手を掛けた、その瞬間――
――コツ、コツ、コツ
遠くから、足音が聞こえた。
――それが、扉の向こうからだと気づく。
――コツ、コツ、コツ
近づいてくる足音は、規則的で、やけに不気味だった。
焦っている様子はない。
迷っている気配もない。
まるで、
ここに誰かがいると、最初から分かっているような……
「……レティセラ、いったん下がろう」
「……」
無言でうなずくレティセラ。
その顔色が、恐怖を物語っていた。
「せめて、灯りがあればいいんだが……」
「灯りなら、私が」
レティセラの体から、赤い光が立ち上り、熱を持つ。
手にした杖を振ると、部屋の四角へと花開き、炎が灯る。
暗い室内が、照らし出される。
揺らめく炎に照らされた壁が、一層不気味に感じられる。
――コツ、コツ、コツ
レティセラは、自然と斜め後ろに位置を取る。
槍を構える、慣れた動きで淀みはない。
――コツ
「ねぇ、ベルクート」
「なんだ?」
「私達、二人なら……大丈夫よね?」
それは問いではない、あの時、誓った二人の言葉。
「もちろんだ。二人でなら、大丈夫」
――何があっても、二人で生きる。
それは誓いというより、当然の前提だった。
*3話まとめ更新の予定です。




