4話
少々ハプニングはあったものの、その後は何事もなく食事を終えた俺たちは店を出た。お礼だと代金は彼女が払ってくれた。
「時間も遅いので家の近くまで送りますよ」と申し出ると「ありがとうございます」と快く承諾してくれた。自宅まで、と言わなかったのは「え、この人家まで付いてくる気?気持ち悪い」と思われないための予防線だ。美形ならいざ知らず、俺のような平凡な男にそんな真似は許されない。下心なんて一切ないが用心するに越したことはない。
道のりを並んで歩く途中、彼女はふいにこう切り出した。
「さっきは有耶無耶になってしまいましたけど…」
俺の黒歴史(最新)を掘り起こしてきた。もしかしてさっきは周囲に人の目が合ったから何も言わなかっただけで本心では「何この人…気持ち悪い」と思っていたのだろうか。もう人の目もないし言いたいことを言ってやろうということか、そうに違いない。友人や兄からは「お前は変なところでネガティブだな」と呆れられることも多いが、自意識過剰より何倍もマシだと俺は思っている。
「はい…」
死刑執行を待つ囚人のように暗い顔をした俺に気づいていないイングリッドさんはニコニコとしたまま口を開いた。
「私もキールバルトさんのような兄がいたら、毎日楽しそうだな、と想像してしまいました」
「…?」
予想していた言葉ではなかった。寧ろ俺の(気持ち悪い)言葉を肯定するかのような…。
「どうかなさいましたか?」
「いえ、てっきり気持ち悪いと言われるものと」
「気持ち悪い?どこがですか」
キョトンとした彼女の顔を見るに、俺の想像したことを一ミリも思っていなかったのは明らかだった。普通なら会ったばかりの男に酒に酔っていたとはいえ、あんなことを聞かされたら大なり小なり不快な感情を抱きそうだと思ったのだが。聖女かな、と突拍子もないことが頭に浮かんでいた。いや天使の方が近いかもしれない。
「いえ、何でもないです」
急に言葉を切った俺を怪訝そうな顔で見ていたが、すぐに話題を戻す。
「それで先ほどは伝え忘れていたんですけど、兄とは今は仲はいいんですよ」
「そうなんですか、それは良かったですね」
先程見た昏い瞳から、てっきり現在進行形で兄との仲に悩んでいると思っていたがそうではないと知りホッとした。
「私が薬剤師になりたいと意志を、というか周囲の反対を押し切ったのを見てから兄の中で私の見方が変わったようで、たまに連絡を取り合っています」
「反対されたんですか」
ふと疑問を口に出すと彼女は苦笑した。
「母方の祖母が薬剤師で、私自身も幼い頃から薬草園に行ったり図鑑を見るのが好きな子供だったんです。両親も子供の頃は何も言わなかったんですけど、成長するにつれて良い顔はしなくなっていって…もっと家のためになることを学べと毎日毎日言われてました。そして大勢が出席するパーティーに連れ出されて、元々引きこもりがちだった私には結構負担でした…けど」
彼女は顔を上げた。
「自分の意志を貫いて良かった、と心の底から思います。自分の人生は自分だけのものですしね」
どこか晴れ晴れとした顔で告げる。そんな彼女がとても輝いて見え、思わず見惚れてしまう。が、ふと彼女の言葉に既視感を覚えた。が、気のせいだとすぐに頭の片隅に追いやった。
「この辺りで大丈夫です」
そう彼女に言われ立ち止まったのは、俺の住んでいるエリアからそれほど離れていない住宅街。それなりに値の張り、セキュリティのしっかりしているアパートメントが建ち並ぶ。そういえば同僚もこの辺りに住んでいると言っていたっけ。やはり治安が良いところは安心できるのだろう。
「今日は遅くまでありがとうございました」
「こちらこそ、楽しかったです」
「…あの、洗ったタオルをお返ししたいのですが都合のいい日ありますか」
そういえばタオルを洗ってくれるという話をすっかり忘れていた。が、これでまた彼女に会う口実が出来たという喜びで顔がニヤつかないようにキリッと顔を引き締める。
「都合がいい日ですか…基本いつでも空いてるんですけど」
自分で言ってて虚しくなってきた。
「…強いて言えば次の日が休館日の金曜ですかね。それ以外の休みはシフト制なので」
「分かりました、では二週間後の金曜日の…場所はあの公園でどうですか」
「え、あそこ人通りが少ないですし別の場所の方が良いのでは…」
「人通りが少ないと言っても住宅街ですし、何かあれば大声で叫びますよ。それにキールバルトさんの職場からあの公園近いですよね、あまりお手を煩わせないためにもあそこが良いと思うんですが」
あっけらかんと言う彼女に思わず噴き出す。さっきは酔っ払いに怯えていた様子だったが、俺が通りかからなくても自分の手でどうにかしていたかもしれない。それこそ大声で叫ぶなりなんなり。
彼女が良いというのならこちらも好意に甘えさせてもらおう。また、早番と遅番があり18時過ぎに終わる日と19時過ぎに終わる日があり、来週の金曜日は早番だと伝えその場で別れた。名残惜しいのか彼女の背中が見えなくなるまでその場に留まったのは秘密だ。