第647話
――気配は押し殺したつもりだった。
声も決して大きすぎはしなかったはずだ。
しかしマザーヒュドラが持つ幾本もの首は、それぞれが持つ独立した感覚器を全方位に向けていて、特別なスキルを持たない俺達が索敵を逃れるのは困難であった。
「やべぇ、ルーク! 気付かれたぞ!」
首の一本が俺達の姿を捉え、それに連動して全ての首が向きを変える。
そして根本も含めた巨体が地鳴りを響かせながら、怒涛の勢いで押し寄せてきた。
「こんにゃろっ……!」
ガーネットが肩を使って俺を抱え、全力の跳躍で高台へと飛び移る。
マザーヒュドラは一瞬前まで俺達がいた場所を押し潰し、水路の周囲の木々を派手になぎ倒していった。
「どうすんだ、ルーク! 一旦引き上げるか!?」
俺は『右眼』を発動させながら、ガーネットからの問いかけに答えた。
こいつを使うのは今日何度目になるだろう。
滅多にないような連続のオンオフ切り替えに、右眼窩の違和感が単なる疲労なのか凶兆なのかも分からない。
「いや、水路が壊れる分には【修復】でどうとでもなるけど、アレクシアとヒルドまで戦闘に巻き込む羽目になる!」
「後はユリシーズもだな!」
向こうにトラヴィスやチャンドラーしかいないなら、何の迷いもなく逃げ出して誘き出し、全戦力で叩き潰す戦術を選んでいただろう。
だが、こんな大物との戦いに巻き込めない連中を連れている以上、安易に奥まで誘い込むのは躊躇せざるを得ない。
「さすがに目立つ場所で大暴れしていれば、トラヴィス達も気付くはずだ。それまで持たせられそうか?」
「お前をどっかに隠しておいたら駄目か?」
「即座にバレて集中攻撃だろうな」
「ちぇっ! やっぱりか!」
再び突っ込んでくるマザーヒュドラ。
俺を抱えてその巨体を飛び越えるガーネット。
しかし今度は読みどおりだと言わんばかりに数本の首が軌道を変え、空中の俺達に喰らいつかんと牙を剥く。
「ルークッ!」
「分かってる!」
俺はガーネットの肩を掴んだ右腕に魔力を込めた。
あえて義手のままにしておいた右腕の内部には、魔獣ハティのメダリオンが仕込まれている。
懐に持ち運んでいる魔獣スコルのメダリオンを使うよりも、今はこちらの方が有効なはずだ。
ガーネットの全身にメダリオンが生み出す魔獣の因子が行き渡り、白い雪のような狼の耳と尾が発生する。
そしてガーネット自身の魔力を変換した冷気が渦を巻き、最も早く接近してきたサーペントの顎を氷で封鎖した。
氷自体は即座に噛み砕かれて破壊されるも、一時的とはいえ攻撃を食い止めただけでなく、そのまま足場にして他の首が存在しない方向へと再度跳躍する。
「足止めならやっぱりハティだな! いっそこのまま凍りつかせてやるか?」
「あまり無茶はするなよ。スコルと違って、ハティのメダリオンはお前の魔力を吸い上げるんだからな」
魔獣スコルのメダリオンは、外部の光熱を吸収して自らの灼熱に変える。
故に発動時点では単なる肉体強化にしかならないが、炎などのありがちな攻撃手段を吸収して無効化し、強力な灼熱を纏った攻撃をほぼ無消費で使用することができる。
そして今使っている魔獣ハティの方は、逆に発動直後から特殊な能力を使っていくことができるが、そのエネルギー源はガーネット自身の魔力である。
マザーヒュドラがこちらに向き直り、全ての牙を剥き出しにして襲いかかる。
ガーネットは眼前に何本もの氷柱を出現させ、マザーヒュドラの突進を絡め取るように食い止めるも、大質量を完全に止めることはできずに端から次々に圧し折られていく。
「くっそ……! やっぱこういうのは性に合わねぇな! 創るのはお前の領分だ!」
「ガーネット、それなら……」
俺はガーネットに支えられてマザーヒュドラから距離を取りながら、次の作戦を耳打ちした。
「……お前は大丈夫なんだろうな」
「少しくらいなら一人で粘れるさ」
湖畔近くの開けた土地に着地し、ガーネットの肩から手を離して距離を取る。
そしてガーネットは俺をこの場に残して、全速力の突進でマザーヒュドラと距離を詰め、首の迎撃を掻い潜ってその背中に飛びついた。
「これなら、どうだっ!」
ハティの力を込めた剣先が背中に突き立てられる。
体内に直接解き放たれた絶凍の魔力が、尖った巨大な氷塊を幾つも生成し、マザーヒュドラの肉体を内側から貫いていく。
真っ当な生物なら即死は間違いない。
メダリオンの魔獣であっても大打撃は免れ得ないだろう。
ところが『右眼』から伝わる情報は、未だ決着には程遠いという現実を伝えていた。
「駄目だ! 戻れ!」
「ちっ……!」
ガーネットは俺の言葉に一切の疑問を挟まず、ほとんど条件反射も同然に力強く飛び退いた。
一瞬遅れて、切っ先が突き立てられた傷口を突き破るようにして、新たなサーペントの首が凄まじい勢いで生えて牙を剥く。
「そんなのアリかよ! 高速再生どころの騒ぎじゃねぇぞ!」
「普通のヒュドラも斬られた首がすぐに生えるほどだけど……さすがに切断面から新しい首が生える程度だ。あんなのは聞いたことがないぞ」
ヒュドラは再生力に長けた魔物ではあるが、いくら何でもあれは度を越している。
しかし、あれもまたメダリオンの魔獣である以上、核という弱点は必ずあるはずだ。
俺はその所在を見出すため、酷使に近付いていることも承知の上で『右眼』に更なる魔力を込めたのだった。




