第520話 二人の夜の語り合い
「騎士になるには十年の修業が必要って俗説、聞いたことはあるよな」
ソファーに座って俺に寄りかかったまま、ガーネットは葡萄酒を少しずつ飲み続けている。
他人には――いや、王都の家族にも見せられないであろう、俺と二人きりでいるときだけの緩やかな微笑みだ。
「マークの奴も十年掛かってたけど、俗説なのか?」
「平民出身の騎士志望者が、一応の成人扱いの十五くらいから修行を始めるなら、全部合わせてだいたい十年だ。騎士としての基礎教養から叩き込む必要があるからな」
「ああ、確かそういう話だったな。騎士の家柄の出身ならもっと早いんだったか」
俺が参加した合同叙任式にも、下手をすれば十五歳を下回っているかもしれない少年少女の姿があった。
幼少期から高い水準の教育を受けてきた子供は、一般からの志望者が受けなければならない基礎教育を省略できるので、単純に期間が短くて済むのだ。
「けどな、オレはちょっとばかり特別でさ。ああ、いや……優れてるって意味じゃなくて、普通はやらねぇことをやってるって意味でな」
ガーネットはより深く肩を寄せ、金色の柔らかな頭髪を俺の肩に預けてきた。
「物心がついたかどうかって頃に母上を亡くして、それから何年かして騎士になりたいって言い出して……エゼルと友達になったのもこの間だな……とにかく、騎士になったのは十二やそこらの頃だったんだ」
「分かってはいたけど、やっぱり早いんだな。まだまだ小さかったんじゃないのか?」
「いや、背丈は今とあんまり変わらなかったぜ。あれから伸びたのはせいぜい小指一本分くらいじゃねぇか?」
ガーネットは片手の小指を立ててみせながら、にっと口の端を上げて笑った。
まだ幼い子供の場合、男よりも女の方が早く背が伸びるものだ。
十二歳の少女なら、背丈の成長のピークが過ぎて、少しずつ伸びが鈍くなってくる頃合いだろう。
俺が十二歳くらいだった頃は、そろそろ背丈が伸びて欲しいなと願い始めた時期で、あれから今の身長に至るまでの痛みを想像もしていなかった年齢だった。
何というか、こんな流れでガーネットの性別を意識してしまうとは、さすがに想定外だ。
「ひょっとしたら、十二歳の俺とお前を比べたら、背が高いのはお前の方だったりしたかもな」
「ははっ、そうかもしれねぇ。んでもって、お前が骨とかミシミシ言わせながらでっかくなるのを、オレが『ちょっとはよこせ』って言いながら見上げるわけだ」
ガーネットは俺が溢した冗談にひとしきり笑ってから、話を本題に戻した。
「普通は成人前で騎士になっても、すぐには公務に就かねぇもんなんだ。そっからもうしばらく訓練を積んで、十五くらいにようやくってのがよくあるパターンだな」
「だけどお前は確か……」
「ああ。ルークと会ったときには、何度もアガート・ラムの尻尾を掴み損ねて、場数だけはとっくに踏みまくってたぜ」
「……待ちきれなかったんだな。騎士の肩書を得たらすぐに、アガート・ラムを追いかけたくて仕方がなかったわけだ」
特別とはそういうことだ。
一刻も早くアガート・ラムの捜査に加わりたいという衝動と、それができるのは十八歳になるまでだという父親との約束が、こいつに実戦参加を焦らせたのだ。
それが許されたあたり、十五歳になるまで訓練を積むというのは、義務ではなく単にそうすることが多いという程度の話なのだろう。
「つーわけで、話のネタになるような人間関係なんざ、お前と違ってろくに積み重ねてきちゃいねぇのさ。強いて言うならエゼルくらいだろうな」
「エゼルの件だけで充分凄いと思うんだが。王女と気の置けない友人関係になるなんて、かなり強烈なエピソードじゃないのか?」
「全っ然。父上の後継がヴァレンタインからカーマインに変わったってことを報告するために、オレも一緒に王都まで連れていかれてさ。王宮の庭で暇そうにしてた同年代の餓鬼と遊んだって程度のきっかけだぜ」
いや、それはやっぱり相当な語り草になる代物ではないだろうか。
母を失った少女が、それと知らずに出会った王女と友情を育む……無関係な第三者の視点からだと、何とも絵になる光景だとでも思われそうな状況である。
もちろん、俺は事情をよく知っている立場なので、そんなことを大真面目に思ったりはできないのだが。
「……正体がバレたらマズいから、同僚の騎士とも距離を置きがちでさ。他の若い騎士達が休日に何だかんだ遊んでるのにも参加しなかったから、同僚からは『騎士団長の弟の立場を鼻にかけたいけ好かない奴』って思われてるかもな」
「そいつは仕方ないさ。やらなきゃいけないことを全部片付けて、心置きなく正体を明かせるようになったら、そのときは二人で思いっきり驚かせるのもいいんじゃないか?」
「ははっ! 騎士団の連中を掻き集めてネタバレか! 面白そうだな、それ!」
ガーネットは陰気になりかけた表情を一気に明るくして、頬を赤らめながらにいっと笑った。
頬が赤い理由は葡萄酒のせいなのか、それとも俺と一緒に真相を明かす瞬間を思い浮かべたせいなのか。
「まぁ、もうどっかでポロッと言っちまってるかもしれねぇけど、いい機会だから言っとこうか。オレも素面じゃなくなっちまったしな」
どちらかはっきりしないまま、ガーネットはぐいっと葡萄酒を飲み干して、はにかみながら言葉を続けた。
「オレは騎士になる前も、なってからもとにかく無我夢中で、余所見なんかする気はこれっぽっちも起こらなかったんだ」
「……お前らしいと思うぞ」
「だろ? それでだな……当然といえば当然なんだが、こんな気持ちを抱くようになったのも、こんな関係になったのも、お前が初めてなんだぜ」
肩を寄せて囁くガーネット。
甘い熱のようなものが体の芯から滲み出てきて、心臓が強く脈を打つ。
まったく、こいつは手痛い反撃だ。
ついさっきガーネットに投げかけた一言のお返しを、こんなにも早く食らってしまうとは。
前にも聞いたことがあったかどうかは、今はさほど重要ではない。
お前がこれまでで一番だという発言に対して、この一言をぶつけ返してきたことが重要なのだ。
これに対抗できるような言葉を、俺は持ち合わせてはいない。
だからどんな言葉よりも雄弁に――強く肩を抱き寄せて、ガーネットの想いに応えようとする。
夜はまだ始まったばかり。
今日は心行くまで、お互いの思い出話に花を咲かせるとしよう。
なお、次回更新分は数日後のシーンからスタートです。




