第306話 マーク・イーストン
「はぁ、どっと疲れた……」
合同叙任式を終え、最寄りの宿に取っていた部屋に戻ってすぐに、俺は椅子に腰を落として心身に溜まった疲労を吐き出した。
本当に充実した時間だったと思う。
しかし送った時間の良し悪しと疲労の程度は別問題で、どれほど素晴らしい経験でも疲れは相応に生じてしまうものなのだ。
それに式典が終わった後も、他の新人騎士から次々に質問を受けることになってしまい、そちらへの応対でも一苦労だった。
ひとまずこの宿で休息を取り、後片付けを済ませてから皆に会いに行こう。
いやその前に、約束通りここでガーネットと合流するのが先だろうか。
そんなことを考えながら寛いでいると、宿の従業員が扉をノックして話しかけてきた。
「お寛ぎのところ失礼します。騎士団の方がお見えになりましたが、お通ししてもよろしいでしょうか」
「……どちらの騎士団の方ですか?」
ガーネットが到着したのだろうか。
最初はそう思ったのだが、すぐに『いや、違うな』と思い直す。
式典前にガーネットが来たときには確認などされなかったように、上級騎士団の関係者であれば即座に通されるはずだ。
宿の対応から考えれば、少なくともガーネットではないと断言できる。
「紫蛟騎士団の方でございます」
その返答は予想外――いいや、可能性自体は想定できていた。
もしもあの青年が想像通りの人物なら、登壇した俺の姿を見て俺と同じことを考えたとしてもおかしくはない。
「……どうぞ、入れてください」
「畏まりました」
しばらくして扉が開き、予想通りに礼服姿の青年――紫蛟騎士団のマーク・イーストンが入室してくる。
短い黒髪。俺とさほど変わりない程度に高い背丈。
目付きは良くないと言わざるを得なかったが、生まれつきそういう目をしているのではなく、内心の否定的感情が滲み出た結果のように感じる。
怒りか、不満か、それとも見下しか……マーク・イーストンの感情の源泉を探ろうとしてみたが、どうにも理由を掴めそうにない。
……いや、本当にこの青年が俺の知るマークなら、こんな眼差しを向けられる理由に自覚があるのだが。
「お久し振りですね、騎士団長殿」
「参ったな……思った以上に余所余所しいじゃないか」
こうして実際に面と向かい言葉を交わして確信する。
やはりこの青年は俺の弟、白狼の森のマークだ。
最後にマークと顔を合わせたのは十五年前。
両親の反対を押し切って故郷を出た夜、マークが寝床に向かうところで『また明日』と声を掛け合ったのが最後だった。
あのときのマークはまだ十歳にも満たず、今は二十三か二十四か。
年齢すら即座に断言できないあたり、俺は本当に兄として駄目な奴である。
「余所余所しいのは当然でしょう。一体あれから何年経ったと思っているんですか」
マークの言葉に丁寧な敬意表現が使われているのは、俺が兄だからではなく、恐らく曲がりなりにも騎士団長の肩書を背負うことになったからだろう。
もしも一年前までの三流冒険者として再会していたら、絶対に手酷く痛罵されていたに違いない。
平静を装う表情の裏から滲み出た憤りの色が、雄弁にそれを物語っていた。
「俺は『結果良ければ全て良し』だなんて楽観的な考えはできません。父さんと母さんがどれほど苦労してきたか……」
当然の怒りだ。当然の批判だ。
色々あったけれど結果を出せたから万々歳だなんて、俺にとって都合のいい反応ばかりをしてもらえるとは最初から思っちゃいない。
「返す言葉もない。これまでの俺は間違いなくロクでなしだったな。だけどこれからは……」
「これからも何も……!」
マークが眉を顰めて声を荒らげようとしたその瞬間、几帳面に閉じられていた扉が何の前触れもなく開け放たれた。
「良かったじゃねぇか! ルー……」
時間が止まるとはまさにこのことか。
飛び込んできたガーネットは、まず想定外の先客がいたことに硬直し、そして先客の顔と俺の顔を何度も見やって、顔立ちが似ていることに気付いて更に硬直した。
一方のマークも突然の闖入者に驚いた直後、その姿を頭の先から靴先まで視界に収めて言葉を失った。
闖入者がアージェンティア家の令嬢だと気付いたのか、それとも単に場違いなまでの見目麗しさに絶句したのか。
普通に考えれば前者なのかもしれないが、個人的には後者を推したいところだった。
「……ークさん!」
「っ……!」
あまりにも急角度の切り替えっぷりに思わず吹き出しそうになり、肺から逆流してきた笑いが口腔と鼻腔を痛めつける。
しかしマークは、ガーネットの発言の前半がそれほど頭に入っていなかったらしく、豹変ぶりに触れることなくただ困惑しているだけだった。
「に、兄……騎士団長殿、こちらのお嬢さんは……?」
「母さんから聞いてなかったか? 村の方には一度挨拶に行ったはずなんだが」
「えっ、まさかあの手紙って……! 聞いていませんよ! ただ結婚する予定の相手を連れてきたとしか! どこの誰だとかは全く!」
「王都ではそれなりに噂になってると思うんだが」
「つい最近まで地方の任地で訓練をしていたんです! 王都の噂なんて知りませんよ!」
マークの表情から険が取れ、代わりに素の雰囲気に近いであろう困惑の色が顔を塗り潰す。
なるほど、母さんらしい失敗だ。
アルマが騎士の家の子であることは伝えてあったはずなのだが、マークに送る手紙を書くにあたって、その辺りの情報が抜け落ちてしまったのだろう。
母さんにしてみれば、俺にそういう相手ができたことが重要なのであって、その子の実家がどんな家柄なのかは大した問題ではなかったのだろう。
果たしてどこまで説明したものかとしばし考えていると、ガーネットの後ろからアビゲイルが音もなく姿を現した。
「この御方は銀翼騎士団団長、カーマイン・アージェンティア様の妹君であらせられる、アルマ・アージェンティア様でございます。ルーク様とは将来的な婚約を視野に入れたお付き合いをさせて頂いております」
「ア、アージェンティア……!?」
マークは更に驚愕と困惑を深め、俺とガーネットを交互に見やった。
俺は言葉もなく笑い返して返事に代え、ガーネットは気恥ずかしそうに顔を逸らした。
「ところで紫蛟騎士団の方とお見受けいたしましたが、ルーク様に急ぎのご用事でしょうか」
「い……いや、今すぐという必要はないんだ。また日を改めさせてもらおう。では騎士団長殿、今日のところは失礼いたします!」
やや早口気味にそう言い残し、マークは走るように部屋を飛び出していってしまったのだった。




