第175話 たった一人の女のために
周囲の人間から絶え間なく視線を注がれながら、ガーネットはルークの手を握ったまま、夜会の舞台であるダンスホールを歩いていく。
驚愕、羨望、侮蔑、好奇。
注がれる視線の意味合いは様々だが、どれも注意を払うには値しない。
何故なら、幾千幾万の視線よりもずっと価値のある眼差しが、すぐ近くから自分を見つめているのだから。
「――待て」
ダンスホールを立ち去ろうとした二人を呼び止める声。
その主は他でもない、ガーネットをこの場に送り込んだ張本人、レンブラント・アージェンティアであった。
「父上……」
「はじめまして、前団長殿」
警戒するガーネットをかばうようにして、ルークが一歩前に出る。
さり気ないその対応もまた、ガーネットの胸を高鳴らせるには十分すぎる振る舞いであった。
「白狼の森のルークだな。何故、貴様がここにいる。魔王戦争において功績ありといえど、伯爵の夜会に招かれるほどの格式は備えておるまい」
「ええ、そうですね。騎士叙勲の話をお受けした後ならまだしも、今はまだ格が足りていないと思います。なのでこの度は……」
ルークは礼服のポケットから一通の書簡を取り出して、その表面に描かれた紋章をレンブラントに見せた。
「辺境伯であらせられるビューフォート家の嫡男、セオドア卿に紹介状を認めていただきました。かの貴人とは浅からぬ付き合いをさせていただいておりますので」
厳めしいレンブラントの顔に、驚きの色が僅かに浮かぶ。
貴族の五階級において、辺境伯は伯爵よりも一つ上にあたる。
しかもビューフォート家は数少ない本物、他国との境界の守護という辺境伯本来の役割を担う、現代では希少となった特別な存在だ。
明確に格上である貴族からの紹介とあれば、スカーレットの夫である伯爵も蔑ろにはできまい。
というか、セオドアはその跡取り息子だったのか――ガーネットは今更ながらに、その事実とルークの人脈の底知れなさに驚愕していた。
「……ならば、この場にいることの是非は問えんな。だが自覚はあるのか? 己の行為がどのような意味を持つのか……」
「もちろん自覚しています。俺は本気です」
レンブラントの放つ威圧感が一段と鋭さを増す。
殺気にすら近いそれを、ルークは正面から受け止めて視線を逸らすこともしない。
ガーネットは真摯なその横顔から目を離すことができず、彼の腕を掴む手に知らず力を込めていた。
「いかに財があろうと、格式のない者に娘はやれん。だが騎士になろうと貴様には無理だ。竜王は一族との婚姻を条件とし、黄金牙は我らにとって古くからの敵。そして……」
「銀翼の騎士に娘を嫁がせるつもりはない……ですね」
「その通り。他の一族や組織と繋がらねば、我ら一族の繁栄には寄与せぬからな。既に配下である者には与えられん」
だからこそ、ガーネットはこれまでに一度も『うちの騎士団に入ってくれ』と言い切ることができなかったのだ。
確かにそうすれば、護衛任務が終わった後でも近くにいることができる。
そもそも騎士であるのなら、騎士団の利益を重視して自分達のところに入団するよう誘導するべきだ。
けれど銀翼の騎士になってしまったら、それ以上の関係に至ることはできなくなってしまう。
こんなことを考え始めたのはつい最近からだったが、もしかするとずっと前から、無意識にそう思って言及を避けていたのかもしれない。
「もちろん分かっています。ですから俺は、陛下から賜ったもう一つの選択肢を選ぶ心積もりでここに来ました」
ルークはガーネットを安心させるようにその細い肩を抱き、力強く言い切った。
「何だと?」
「前団長殿にはまだお話が行っておりませんでしたか?」
「まさか。とうの昔に掴んでいる。だが……本気なのか」
「先ほど本気だと言いました。俺を最初の構成員とした新たな騎士団の創設。この提案をお受けするつもりです」
ガーネットはあまりの驚きに言葉を失った。
新騎士団の創設。それが実現すれば、確かに父親が挙げた問題の全てが一挙に解決する。
誰かと結婚する必要はなく、新組織であるが故に過去の遺恨も敵対関係もなく、曲がりなりにも騎士団の長ともなれば『格』も充分すぎる。
しかし本当に可能なのか。
いや……アルフレッド国王がそうすると言ったのなら、間違いなく実現までの筋道は立っているのだろう。
思い返せば、自分が父親からの手紙を受け取ったその日、ルークは四通の書簡を同時に受け取っていた。
あの頃は今回の夜会の件で頭がいっぱいだったので、書簡の中身について尋ねる余裕などなかったが、きっとそのうちの一通に国王の新提案が綴られていたのだ。
「前団長殿。ガーネットに対する貴方の対応は、恐らく貴方自身にとっては『正しいこと』なのでしょう。だとしたら、いくら反発しても貴方が考えを変えることはないはずだ」
「……無論だとも。変節する必要すら感じぬ」
「ですが、貴方と縁を切って銀翼騎士団と喧嘩別れをしてしまえば、彼女の目的の成就は果てしなく遠くなる。俺にはそんなこと耐えられません」
ルークは肩に回した手に力を込め、ガーネットの顔を優しく見下ろしてから、力強い笑みをレンブラントに向けた。
「ならば――俺自身が駆け上がるしかないでしょう。彼女に相応しい高さにまで」
たった一人の女のために。
自分という女と共に在り続けるためだけに、この男は高みを目指すと言い切ったのだ。
その事実が、焼けるような甘い熱となってガーネットの心と体を火照らせていく。
無論、自分なんかのために重大な決断をさせてしまった申し訳無さもある。
しかしそれ以上に、胸の底から突き上げるような歓喜が、隙間なく心を埋め尽くしていた。
「……まるで陛下のようなことを言う」
レンブラントは踵を返し、振り返ることなく歩き出した。
「正式な婚姻など認められん。貴様が陛下の御期待に応えるまではな。それの婚約者の選定は見合わせるゆえ、陛下を失望させぬよう精々励むがいい」
夜会の喧騒の中にレンブラントの後ろ姿が消えていく。
それはひどく遠回しな語り方ではあったけれど、二人の関係を受け入れるという宣言であることは、誰の目にも明らかであった。




