第174話 壁の花は白き狼を夢に見る
夜会当日――伯爵邸のダンスホールには色鮮やかな装いの客人が大勢集まっていた。
最も数が少なく、それでいて最も目立っているのは、屋敷の主と同格の伯爵家の人々だ。
彼らは高級だと一目で分かる衣装で身を飾り、社交の中心となって名実共に夜会を盛り上げている。
その次に数が少ないのは、爵位が一段劣る男爵家からの招待客だ。
貴族としては最下級で、実質的にはただの大地主でしかない彼らは、コネクションを広げるために様々な相手との交流を試みていた。
これら二種類の貴族に加え、複数の騎士団の構成員もこの夜会に参加していた。
彼らは気取った夜会服や装飾過多なドレスではなく、各騎士団が制定した質実剛健な儀礼服を着用しているので、貴族との区別が見た目で分かりやすい。
現代の騎士は、並大抵の男爵を上回る財産を持つことも珍しくないが、こういった催しの場で『貴族的な』ファッションをするのは騎士らしくないと見なされる傾向にある。
無論、それはあくまで騎士叙勲を受けた本人の話。
騎士が連れてきた妻子などは、貴族ほどではないにせよ美しく着飾っており、同じ立場の者や貴族の妻子と楽しげに談笑をしていた。
そして参加者のおよそ四分の一は、貴族でも騎士でもない一般人からの招待客だ。
といっても、彼らは単なる庶民ではない。
莫大な財を成した商会や、王都の物流を支える運送業の幹部など、社会の上流と呼ぶに相応しい面々である。
彼らの衣装は三者三様。精一杯に着飾った者もいれば、素材こそ高価だが見た目は普段の仕事着と変わらない者もいる。
貴族間の社交界というよりは、王都における様々な利害関係者を集めた交流会と呼ぶ方が、この夜会の実態に近いかもしれない。
立食形式の夜会という優雅な体裁を保つ傍ら、貴族と騎士、そして大商人達が談笑混じりに政治経済を語り合う――王都においては珍しくもない一夜だ。
そんな光景を、ガーネットは他人事のように眺めていた。
壁の花、という言い回しがある。
異性との出会いを求めて夜会に参加しながらも、ダンスに誘われることすらなく壁際で時間を潰すだけになった令嬢を表した言葉だ。
ガーネットは自ら望んで『壁の花』であり続けようとしていた。
まるで性に合わないひらひらとしたドレスに身を包み、壁際の椅子に腰を下ろして、夜会が終わるのを待ち続ける。
誰にも声を掛けず、誰からも声を掛けられず、空白を埋める壁の花であればいい。
それだけでも父親に対する義理は十分に果たされる。
しかし、意に反して着飾らされたガーネットの容貌は、注目を浴びずにやり過ごすには美しすぎた。
「おい、見ろ。あそこにいるのは誰だ?」
「アージェンティア家のアルマ嬢だろう。公の場には滅多に姿を見せないそうだが、珍しいこともあるものだ」
「銀翼騎士団の……それにしてもなんて美しさだ」
望んでもいない称賛に怖気が走りそうだった。
「まるで亡き母君の生き写しだな。レンブラント卿が手放したがらないのも当然か」
年配の男爵が訳知り顔でそう語ったのも不愉快だ。
人の心とは不思議なもので、かつて魔王城の地下で『母親に似ている』と言われたときは心底嬉しかったが、今は耳を塞いでしまいたいくらいだった。
果たしてあのときとは何が違うのだろう。
――そんなもの考えるまでもない。言われた相手が違うからだ。あいつに言われたからこそ、あんなにも嬉しかったのだと、今ならはっきりと断言できる。
「憂いのある表情が堪らないな」
誰のせいで憂鬱だと思っているんだ。
「そうか? 俺は笑ったところも見てみたいが」
嫌なこった。見せてやるものか。
「ここはひとつ、ダンスにでも誘ってみるか」
そう宣言した若い騎士は、本当にガーネットの前にまでやって来て、恭しく一礼をして誘いをかけてきた。
しかしガーネットは視線を合わせようともせず、手を取られることすら拒否し、誘いをすげなく断った。
これだけ取り付く島もなく拒絶すれば、自分に話しかけようと考える酔興な奴は現れないだろう――そんなガーネットの考えは、しかし完全に裏目に出ることとなった。
「参ったな。こいつは手強いぞ」
「よし、次は俺だな」
壁の花から転じて、簡単には靡かない高嶺の花へ。
注目を断つための判断が逆に周囲の関心を引いてしまい、様々な身分や立場の男達が次々に訪れる事態に陥ってしまった。
ある者はダンスに、ある者は食事に、またある者は談笑に。
アルマ嬢。アルマ様。アルマさん。
考えつく限りの呼び名が次から次に投げかけられる。
それらを片っ端から断り続けているうちに、ガーネットの心に陰鬱な思いが積み重なっていった。
拒絶することへの罪悪感はない。
ただ、こんな扱いを受けているという現状そのものが、少しずつ着実に心を曇らせていたのだ。
飾られた造花のように空虚な称賛を受け、度胸試しの道具のように誘いをかけられ、本性を押し隠した言葉遣いで機械的にそれを拒む。
喜びも楽しみも何一つなく、思考回路すらも蝕まれてしまいそうになる。
綺羅びやかなはずのダンスホールも、ガーネットの視界では暗く淀んだ空間のように感じられていた。
目眩がしそうだ。いっそ本当に倒れて退場してしまえば楽だろうか。
いや、そうしたらきっと、甲斐甲斐しく紳士的に介抱しようと目論む輩が群がるに違いない。
そんなことをされたら本気で吐いてしまいそうだ。
――こんな場所にいたくはない。オレがいたいのは――
頭に思い浮かんだのは、長い時間を過ごしてきた銀翼騎士団の中ではなく、森の中に佇む小さな武器屋であった。
「(ったく……未練がましいにも程があるぜ。こんなところにあいつが来るわけないってのに……)」
また一人、参加者の男がこちらに近付いてくる。
お前には無理だと揶揄する声が上がる。
やるだけ無駄だと嘲るような笑いが起こる。
けれどその男は、周囲の反応を全く意に介することもなく、ガーネットの前に跪いて顔を見上げ、目の前の一人だけに届く大きさの声で優しく呼びかけた。
「ガーネット。お前、こんなところにいたんだな。探したじゃないか」
その声が耳に届いた途端、陰鬱だった視界が瞬く間に晴れ渡った。
鮮やかな世界。綺羅びやかなダンスホールを背に、誰よりも会いたいと願う男が微笑んでいる。
「えっ……?」
自分の耳と目が信じられない。
あまりの憂鬱さに幻覚を見てしまったのではないだろうか。
けれど目の前の光景は明らかに本物で、そうと分かった途端に心臓が痛いほどに高鳴り始めた。
「お前……どうして、ここに……」
「話すとかなり長くなるから、後でゆっくりとな。けど一つだけ自白しておくと、お前が破った手紙を【修復】しちまったんだ。不可抗力だったんだけどさ……」
目の前の男は――白狼の森のルークはそう言って気まずそうに笑った。
普段は着ないような下ろし立ての礼服、騎士団の儀礼服に近い装束に身を包んでいたとしても、内面は普段と何一つ変わってはいない。
ガーネットは今にも飛びつきたくなる衝動を堪えながら、椅子に座ったまま身を乗り出した。
「それなら……オレがどうして、ここにいるのか……知ってるんだろ?」
「ああ、もちろん」
「なのに、来たのか?」
「だから、来たのさ」
ルークはガーネットの潤んだ瞳をまっすぐに見上げながら、静かに片手を差し出した。
「俺と一緒にいて欲しい。そう伝えたかったんだ」
「……馬鹿野郎っ」
綻ぶ口元が抑えられない。赤らむ頬が止められない。
心にのしかかっていた憂鬱は跡形もなく消え失せ、言葉に出来ない幸福感が胸を埋め尽くす。
そしてガーネットは意外と骨張ったその手を細い指で握り返し、二人して軽やかに立ち上がった。




