第137話 内なる――との邂逅
「アルファズル……このダンジョンを作った神……」
「神か。そう呼ばれることもある。今はどうでもいい話さ」
俺と同じ姿をした男、アルファズルと名乗る存在は、自分が本当に神であるかどうか否定も肯定もしなかった。
「実体のない神霊の化身と考えてもいいし、人類の祖先の残留思念と思ってもいい。ひょっとしたら君の妄想かもしれない。どれを選ぶかは君の好み次第だ。いずれも正しく、いずれも間違っている表現だからね」
こんな風に散々俺を煙に巻いてから、アルファズルは自分の正体についての話題をあっさりと切り上げようとする。
「しかし、あまり時間を使い過ぎるのは良くない。君の肉体が完全に死んでしまったら何もかも台無しだ。なので、私が何者かという追求はここまでにしようじゃないか」
「……俺の、肉体が……? ……痛っ!」
煙に巻こうとするアルファズルの態度は正直不愉快だったが、じっくり追求する余裕がないのもまた事実だった。
自分が致命傷を負った記憶を思い起こすたび、右目周辺の激痛が頭の奥にまで浸透してきて、落ち着いた思考が難しくなってくる。
右の眼窩から溢れ出る流血に、頭蓋骨の中身まで混ざっているんじゃないかと思いたくなるほどの激痛だ。
「単刀直入に言おう。私に体を明け渡すんだ」
もはや姿を真似ているだけの別人であることを隠しもしない言動で、アルファズルは耳を疑うようなことを口にした。
「そうすれば、より強く力を引き出すことができる。君の仲間達をガンダルフの手から救い出すことだって簡単だ。君の肉体のそばに残された子も含めてね」
「何だって……?」
不意に脳裏をよぎったのは、サクラの肉体に宿った魔法紋を【修復】したときに垣間見た、彼女の遠い昔の記憶だった。
燃え盛る家屋の中で、高笑いを続けるサクラの父親。
あれは不十分な備えによる不完全な神降ろしによって、サクラの父親が力に呑まれた結果だと思っていた。
――大筋としてはそれで間違っていないのだろう。
だが、その『力』に人格が宿っていなかったと、果たして言い切れるのだろうか。
炎の中で笑っていた肉体の中身は、果たして本当にサクラの父親だったのだろうか。
彼は――降ろした神に、体を明け渡してしまったのではないだろうか。
「……駄目だ。そんなことは、できない」
「やはり自己犠牲は恐ろしいか。しかし考えてもみろ。このままだと全てがガンダルフの手に落ちるんだ。それに比べれば……」
「違う」
俺は左目だけで、俺と同じ顔のアルファズルを睨みつけた。
こちらは右目から止め処なく血が流れているが、あちらは顔に傷一つない。
見た目だけならあちらの方が普段の俺に近いなんて、妙に腹立たしくなってくる。
それにしても、不思議だ。
こんなに神秘的なシチュエーションで、神を名乗る存在と対峙しているのに、まるでありがたみを感じない。
むしろ理由の分からない反発心が、少しずつ着実に浮かび上がってきていた。
「俺がいなくなったら、きっとガーネットが悲しむ。そんな真似だけは……絶対にしたくない」
以前、ガーネットの実の兄であるカーマイン卿と直接言葉を交わす機会があった。
結局は後でガーネット本人とも同じ会話をすることになるのだが、一つだけ、本人には確認すらできなかったことがある。
――君はガーネットにとっての特別だ。どうか命だけは大切にして欲しい。母親だけでなく君まで失うとなれば、ガーネットは二度と立ち直れなくなるか……あるいは――
「お前が正真正銘の神だったとしても……この体は渡せない。俺は絶対に……あいつのところに戻らないといけないんだ」
――今以上に壊れてしまうかもしれない――
アルファズルの言うことが正しいのなら、ガーネットは右目に魔力の棘を受けて死につつある俺のそばにいる。
血を流し、指先一つ動かさず、名前を呼んでも答えない、ただ冷たくなっていくだけの俺のそばに。
一体どんな思いを抱いてそれを見つめているのだろう。
泣いているのだろうか。
怒り狂っているのだろうか。
それとも感情が凍りついてしまっているのだろうか。
想像するだけで頭がおかしくなりそうだ。
「なるほど、それが未練となっているわけだね。よし分かった、じゃあこうしよう」
アルファズルは名案を思いついたとばかりに腕を広げ、笑顔を浮かべて言い放った。
「私は君として生きよう。君を取り巻く全ての人間に対して正体を隠そう。これならば誰も悲しむことはない。そうだろう?」
「…………っ!」
何か言葉を発するよりもずっと早く、俺は俺自身と同じ姿をしたアルファズルの胸ぐらを掴んでいた。
手を濡らしていた鮮血が、アルファズルの着衣を赤く染める。
間違いない。この感情は殺意だ。
「ふざけるな……お前が、何をするって?」
「誰も悲しまない解決策を提案しただけさ。もしも問題があるとすれば、それは……」
「……ああ、そうだな。俺の利己だ」
ガーネットのため――それは一つの事実だ。嘘偽りなど一切ない。
けれど、それだけが理由だと言えば嘘になる。
「俺以外の誰かが、あいつの隣にいるだって? 俺になりすまして、あいつの『特別』になるだって?」
怒りが腹の底から湧き上がって、右目の痛みが意識から消えていく。
同時に右目が――失われた眼球が収まっていた空洞が熱を帯び、激情を加熱させていく。
一体いつからだったのだろう。
あいつが俺を『特別』だと思うようになったのと同様に、俺もあいつを『特別』だと感じるようになったのは。
「そんなこと! 許せるわけがないだろうが!」
胸ぐらを掴む手に力を込め、拳を至近距離から殴りつけるように押し付けて、渾身の魔力を叩き込む。
次の瞬間、アルファズルの胸部が弾けるように吹き飛び、背中まで突き抜ける大穴が穿たれた。
「なっ……!」
自分でも驚くしかない出来事だった。
生物には効果が極めて薄いはずの【分解】――ほとんど自棄になって打ち込んだそれが、アルファズルの体を貫いたなんて。
いや、それとも、今の俺達は生物としての肉体を備えていないから――
「……試すような真似をして、すまなかった」
困惑する俺とは反対に、アルファズルは心の底から落ち着いた様子で後ろに下がった。
胸の穴からは血が流れていない。
それどころか肉の断面すら存在せず、白い陶器を割ったようなざらついた破断面が見えるだけだ。
「君は魔力の棘によって脳髄を破壊しつくされて死亡した。肉体と魂を繋ぎ、魂の記憶領域を書き換える器官を徹底的に。その状態で脳髄を【修復】するには、限界をもう一段階越える必要があったわけだが……」
アルファズルが胸の前で何かを抱えるような仕草をすると、その手の中に魔力が集まって丸い鏡を生成した。
鏡に写った俺の右目は、深い青色に輝く魔力の塊に置き換えられ、炎のような揺らめきを漏らしていた。
「これは……」
「右目を捧げて叡智を得たと考えたまえ。君ならば【修復】によって元に戻し、【分解】によって再び捧げることができるだろう」
しわがれた声が耳に入り、驚いて視線を上げる。
いつの間にか、アルファズルの姿は俺とは似ても似つかない精悍な老人へと変化していた。
それも、今の俺と同じように右目が光に変わった姿で。
「私を拒んだ以上、能力の性能はこれまでと変わらぬ。しかしその目を用いれば、どのように『力』を使えばいいか見抜くことはできよう」
「……まさか、最初からこれのために……」
「そんなわけなかろう」
老人となったアルファズルは、愉快そうに肩を揺らして笑った。
「貴様の心が折れていれば容赦なく貰い受けていたとも。だがこれならば、もう少し育つのを待ってもよい……そう判断しただけだ」
しかし身勝手な言葉の内容とは裏腹に、アルファズルの表情はとても穏やかだった。
「心せよ。その目に頼り過ぎぬことだ。いわば『神を降ろす』も同様の行いゆえな」
俺は右手で自分の前頭部を掴み、全力で【修復】を発動させた。
こうすれば戻ることができると、誰に教えられるでもなく理解できたのだ。
周囲が真っ白に輝き、アルファズルの姿も薄れて消えていく。
そして視界が切り替わる直前、特徴的なしわがれ声がはっきりと俺の耳に届いた。
「せいぜい守り抜くがいい。失うときが貴様の折れるときだ」
「……言われるまでもないさ」
このシーンの間に現実サイドがどうなっていたかの描写は、恐らく次回になるかと思います。




