第135話 取り巻く者達の戦い 後編
「私がどんな目に遭ってきたか! じっくりと教えてあげる!」
空中に立体的な魔法陣が展開され――たかと思われた次の瞬間。
魔法陣に異常なまでの歪みが生じ、黒い渦と化してブランの左腕を巻き込んでいく。
「えっ――な、何よ、何なのよこれはっ!?」
ブランの左腕はまるで紙に描いた絵を潰したように歪み、空間に穿たれた穴のような黒い渦に取り込まれていきつつある。
異変はそれだけではない。
周囲の空気までもが黒い渦に吸い込まれ、狭い通路に猛烈な突風を吹き荒れさせる。
「ノワァァァル! 私に! 何をしたの!」
「その、腕の呪紋を……短絡、させた、の……でも、こんな……こんな、に……!」
腕を拘束する振りをしてブランの左腕に接触し、剥き出しの試作呪印に干渉することで、追加の竜人兵士召喚を妨害する――それがノワールの立てた作戦だった。
試作というだけあり、呪紋の魔力干渉に対する備えは不十分で、数秒程度の接触でも充分な経路短絡を引き起こすことができた。
だが、こんなにも苛烈な反応が起こるとは予想もしていなかった。
未完成の召喚術式が暴走し、別の場所から呼び寄せる作用が不完全な形で逆流して、ブランをどこでもない虚空へ引きずり込もうとしているのか。
「くっ……下がれ! ノワール!」
ナギが焦りを露わにして叫ぶ。
しかしノワールはその場から一歩も動かなかった。
恐怖に足が竦んで動けなかったのではない。
黒い渦に引きずり込まれながら絶叫するブランから、目を離すことができなかったのだ。
目を伏せてしまいたかった。
耳を塞いでしまいたかった。
けれど、最後まで見届けなければならないという思いが、どうしようもないくらいにノワールを突き動かしていた。
「私だって、魔法使いなんだ! これくらい、止められる……!」
左腕を襲う異変を食い止めるべく、ブランは必死の形相で右手に魔力を集めたが、その魔力自体が黒い渦に削り取られ吸い取られていってしまう。
もはや魔法ではどうにもできないのは明白であった。
ブランは絶望に顔を歪め、縋るように右腕をノワールへ伸ばした。
「嘘、嘘うそウソ嘘……! 姉さん、お願い、助けて!」
穴の如き黒い渦は、左腕のみならずブランの肉体全体を虚空へと引きずり込んでいく。
「……ブラン……」
人類を裏切って魔族についた妹を、自分の手で打ち倒す。
ノワールはその決意と覚悟を固めてここにやってきた。
けれど、まさかこんな幕切れになろうとは、夢にも思っていなかった。
「嫌嫌嫌嫌嫌っ! どうして、どうしてこんな……こんなことにっ……! 助けて、お願い、謝るから! こんなの嫌、死にたくない……!」
「……ごめんね……」
「いやああああああっ!」
体も足も引きずり込まれ、白い髪も涙に濡れた顔も、最後に残された右腕さえも黒い渦の中へと消えていく。
そして、ブランの肉体が跡形もなくなったことが合図であったかのように、黒い渦は見る間に収縮して消失したのだ。
全てが終わったことを悟ったノワールは、通路に膝を突くようにして崩れ落ち、顔を手で覆って押し殺した声を漏らした。
――エントランスホールにおける、白狼の森のルークと二体の魔将の戦いに大きな変化が起こったのは、まさにそれとほぼ同じ瞬間のことであった。
ダークエルフの少女の肉体を得た氷のノルズリが、ルークとガーネットを諸共に氷の塔へ閉じ込め、自らもその中へ入っていったのだ。
「させるかっ!」
桜色の緋緋色金の刀に火を灯し、サクラが氷塔に斬りかからんとする。
しかしその刃は魔将スズリの刀で受け止められ、凄まじい力でサクラ自身ごと弾き飛ばされてしまう。
「ぐうっ……!」
スズリは全身を布で覆っているため顔も見えないが、体格そのものは嵐のアウストリや本来の姿のノルズリと比べて細身である。
にも関わらず、その膂力はサクラのそれを大きく上回っていた。
恐らく何かしらの強化スキルを高練度で修めているのだろう。
やはり四魔将という特別な地位を得ているだけあって、見た目では計りきれない実力を秘めているようだ。
「ノルズリが本腰を入れた氷壁ともなれば、多少火力を高めたところで問題にはなるまい」
「……っ!」
スズリの肉体に魔力が滾り、膨大な熱量へと変換されていく。
即座にサクラはその脅威を察し、薄紅色の刀を素早く鞘に修めて緋色の祭具を抜き放った。
あの熱量は間違っても生身で耐えられる代物ではない。
対抗するには『神降ろし』が必要だ。
「第一拘束解放、火焔躯体起動」
「御座しませ、火之炫日女!」
二つの灼熱がエントランスホールに顕現する。
片や、簡素な外套の下に炎が燃えたぎる異形の姿。
フードの奥に顔は見えず、激しい炎だけが揺らめいている。
肉体が火炎を纏っているのか、あるいは炎が人間の形をして外套に収まっているのか――それすらも定かではない。
片や、炎の帯を羽衣のように漂わせた流麗なる姿。
黒く艷やかな長髪は鮮やかな赤色に染まり、太陽にも似た色の瞳が冷徹に眼前の敵を睨む。
エントランスホールのあらゆる可燃物が一瞬にして燃え尽きる熱の只中で、神降ろしを成功させたサクラは一切の熱を感じていないかのように佇んでいた。
「ほぅ」
火焔の肉体と化したスズリが感嘆の声を漏らす。
「先祖返りか。しかも意図的な。なるほど、人間も捨てたものではないな」
サクラはそれに返答せず、無駄口など不要とばかりに閃光のような速度でスズリに肉薄した。
斬り結ばれる剣閃。
目にも留まらぬ速さで間合いを離し、そして瞬時に詰め、熱波と轟音を撒き散らしながら剣撃を繰り広げる。
一秒でも早く決着をつけなければ、氷の塔に閉じ込められたルーク達を救い出すことができない。
現状では氷の塔から脱出させることすら不可能だ。
「(体が軽い……以前よりも力を引き出せている……! ルーク殿に紋様を【修復】していただいたお陰か!)」
戦いの中で、エントランスホールの出入り口を塞ぐ壁が跡形もなく溶け失せ、城外への道が開いた。
しかし、魔王軍の兵士が様子を見に来る様子もない。
ホールに満ちる灼熱があまりにも凄まじ過ぎるために、誰一人として接近することすらできなかったのだ。
一方、ルーク達を閉じ込めた氷壁は、魔将ノルズリの渾身というだけあって熱波に耐え抜いているようだったが――突如として、粉々に砕け散った。
「なっ……!」
「むっ……?」
早すぎる崩壊に、サクラのみならずスズリまでもが戦いの手を止める。
まさかノルズリが早々に決着をつけてしまったのか。
あるいは逆にルークとガーネットがノルズリを打ち破り、脱出を果たしてしまったのか。
いずれにせよ、このままでは生存者が灼熱の魔力で焼け死んでしまう。
――しかし氷塔が消えた跡には、無人の空間が広がっているだけだった。
「(そうか! ルーク殿が床を【分解】して地下に逃れたのか!)」
ルークの能力をよく知っているサクラは、すぐさま現状を理解した。
氷塔の外が灼熱に満たされたことを即座に悟り、エントランスホールの地下に退避することで被害を回避しようとしたのだ。
きっとノルズリもそれを追って地下に移動し、不要になった氷塔を破棄したという経緯に違いない。
「……ならば!」
サクラは現状把握が僅かに遅れたスズリに突進して、有利な鍔迫り合いに持ち込んだまま、火炎を噴出した反動でスズリを城外に押し出した。
自分達がエントランスホールで戦い続けていては、ルークの脱出を阻害してしまう。
恐らくスズリはそういう意図で能力を解放したのだろうが、それに付き合ってやる理由などなかった。
「ほう、大した出力だ」
「ここならば憂いなく戦いを――」
エントランスホールから充分に距離を取り、城と城壁の中程で改めて対峙しようとした直後、サクラの肉体に異変が起こった。
視界が急速に歪み、平衡感覚が失われていく。
「(熱い、熱い、熱い、熱い! 体が、心が、内側から焼かれるようだ……!)」
どうにか踏み止まって転倒は免れるも、その異変はスズリにも伝わってしまっていた。
「人の器で力を引き出しすぎたな。目覚めさせてはならぬモノが目覚める前に、潔く死なせてやろう。これは慈悲である」
「なめ、るな……! 力になど! 呑まれるものか!」
スズリが白熱する灼熱の刀を振るい、炎を纏った緋色の刀がそれを迎え討つ。
互角の火力が激突し、天を突かんばかりの火柱が噴き上がる。
その直後、サクラは言葉にし難い悪寒を感じた。
自分自身の内側から伸びた無数の腕が、不知火桜の人格を深淵に引きずり込もうとする――そんな幻視すら見えた気がした。
「くうっ……!」
全力で後方に飛び退き、スズリの灼熱圏から逃れたところで神降ろしを解除する。
冷や汗が一気に吹き出して顔を伝い落ちる。
「はぁ、はぁ……」
「踏み止まったか。人間の血脈を遡るとは……愚かな真似を」
「何を……言っている……」
「貴様達が知る必要などない。ここで息絶えるがいい」
スズリが灼熱の刃を構えたまさにそのとき。
城壁の方向から何かが高速で飛来したかと思うと、空中で無数の魔力の槍に分裂して、落雷の如き轟音を上げてスズリの周囲に降り注いだ。
「むうっ!?」
間一髪のところで離脱したスズリを、雷光のような軌跡を描く超高速の投槍が追尾する。
それはスズリが人間離れした身のこなしで城の外壁を駆け上ってもなお振り切れず、遂に後方から追いついて、炎と化したスズリの左腕を引きちぎった。
「……潮時か」
スズリは右手で左腕を掴み、炎を噴き出す切断面を押し付けながら、陽炎のような大気の歪みに溶け込むようにして姿を消した。
「雷光と雷鳴の魔槍……まさか!」
サクラが振り返った先にいたのは、白狼の森のルークが友としてきた二人のAランク冒険者。
「間一髪だな! ルークは無事か?」
「ふん、まだ何もしていない奴が、よく偉そうな口を叩けたものだ」
「ははは! これから全力で挽回してやるとも!」
ミスリル合金の籠手を装備した屈強な男――黒剣山のトラヴィス。
二振りの魔槍を携えた幽鬼の如き男――二槍使いのダスティン。
彼らがここにいるということは、攻城部隊が城壁の突破を成功させつつある何よりの証明であった。




