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どん、どどん!

絶対実現はないと思ってました。メイウェザーVS天心。。やっぱりなって感じです。

注文した4品がテーブルに並んでから、しばらくの時間が経っている。

刺し身に次いで運ばれてきたブラックタイガーの天ぷらについて、シンはいかにも料理人らしく、タイ人にも馴染みのあるフライドシュリンプの調理方法との比較を交えて、少々の時間をかけてマオイに語った。

さらに出てきたマーボ豆腐に関しては、(日本人の大好物らしいが、元々はチャイナの料理らしい)という簡単な説明に留まった。

何故なら、この時にはもう2人の会話は、あのマオイとチェンとの試合のことに及んでいたからである。

会話とは言っても、言葉を発するのは一方的にシンの方で、マオイの方はというと、相槌と、目と首の動きだけで、シンの言葉に対しての反応を示しているだけである。


「あの試合は・・・色々な局面のある試合だった」


マオイは真顔で正面からシンの顔を見ている。シンの言葉の意味を推し量っている。

その表情には、つい先ほどまで宿していた、どこか拗ねたようで、そして甘えたような態度はもうない。


「分りやすいところからいうと・・・まずはオーソドックスとサウスポーの戦い」


「うん」


あの試合、マオイはオーソドックススタイル、即ち左手と左脚を前に出す右構えを取っていた。対してチェンは右手と右脚を前に出すサウスポースタイルだった。

俗に喧嘩四つと呼ばれ、突き出した前手同士がぶつかり合う形となり、お互いの動きがぎこちなくなることが多い。一般的にはサウスポー有利と言われるが、これは単に絶対数の問題で、大多数であるオーソドックススタイルの選手が、サウスポースタイルの選手と対戦することが少ないという云わば慣れの問題である。


「次に、背の高い選手と低い選手との試合」


このシンの言葉には、同意の反応をすぐにはマオイは返さない。

やや不服そうな表情をして押し黙っている。


「いや、これはマオイの背が低いという訳じゃない。チェンの身長との相対的な関係で、どちらかを背の高い選手、どちらかを背の低い選手とするなら、あの試合はマオイの方が背の低い選手だった」


やっとマオイがごく小さく頷く。


「ああ、それから序盤は、マオイのミドルキック対チェンの前蹴りという構図もあったな」


マオイの口や表情には変化がないが、シンの言っていることは、彼なりに理解できているようだ。


「さて、ここからが少しばかり説明が難しい」


そう言ってシンは、テーブルの上に体を乗り出し、マオイの眼をこれまで以上に力強く見つめた。その視線は熱を帯びてはいるが、それでもなお、この上なく優しい。

マオイの表情に微かな強張りが張り付く。

そのマオイの変化を確認したあと、ゆっくりとシンが口を開く。

マオイの心の準備をシンは待ったのかも知れない。


「試合前、勝って当たり前と考えていたマオイと、勝てば金星、少なくとも楽に勝てるとは思っていなかったチェンとの違い。まあ、本当のところ、チェンがどう考えていたのかは憶測だが、試合前のあのチェンの緊張から想像すると、きっと大きくは違っていないんじゃないかと俺は思う」


このシンの言葉を聞き、マオイは黙り込み、白い清潔なクロスの掛かったテーブルに視線を落とす。そのマオイの口元の両端に、どこか自己を責めるような苦々しさが浮き出る。

そのマオイの感情の変化を気付かぬシンではあるまいが、頓着せずシンは言葉を紡いだ。


「そして・・・2つの才能同士の戦い」


そのシンの言葉を聞き、意外そうにマオイが顔を上げる。


「僕なんかに才能があるの?2才も年下のチェンに負けたんだよ、僕は」


変らずマオイの眼を優しく見つめていたシンの顔に、より温かい笑みが表れる。

(ずぃっ)とマオイに顔を近づけ、囁くようにマオイに語り掛ける。

その動作の一つ一つが、どれも限りなく優しげだ。


「俺はこれまで何十人という子供達にムエタイを教えてきたが・・・」


言いながら、シンはマオイの眼の奥深くを覗きこむように見つめる。


「マオイほど、ムエタイの才能がある子を見たことが無い。柔らかくしなやかな筋肉。膝から足首までが長いキックに適した骨格。そして、何より、辛くて退屈な練習に一途に取り組むひた向きさ」


そんなシンの言葉を聞くや、マオイの目が少し湿度を増したように濡れて輝く。


「そしてチェンにも才能がある。マオイも対戦して判っただろうが、天から授かったあの上背と長い手足だよ。あの前蹴りと右のパンチは、やり難かっただろう?」


潤みを帯びた黒い瞳で、マオイは小さく頷く。


「まだまだチェンの身長は伸びるだろうな。もしかしたら将来6フィート以上になるかも知れない。俺がチェンのトレーナーなら、次はテンカオ、つまり膝蹴りを教えるだろうね」


マオイは自分の背中がぶるりと震えるのを感じた。

チェンの繰り出す前蹴りと右のパンチを、被弾覚悟でかい潜るにも、マオイには相当の勇気が必要だった。チェンの内懐に入ってからの攻防は、ややチェンがその長い手足を持て余していたが、しかしその懐は深く、マオイ自身もチェンの顔面に、数多くの有効打を打ち込めた訳ではない。

あの攻防の中で、もしチェンが入ってくるマオイに対して、膝蹴りをもっと自然に出すことができていたなら、神経を削りながら、決死の思いで持ち込んだ接近戦になってからも、マオイはこの膝蹴りの脅威に晒されることとなっただろう。

一つの思いが、マオイの胸に沸く。


「もう、僕はチェンには勝てないのかな」


いよいよ潤んだ瞳で、マオイはぼそりと呟く。顔を寄せていたシンに、やっと届くかどうかという小声。そのマオイの魂から滲み出るような問いに対して、シンは直接的な答えを返しはしなかった。


「今回の契約が105ポンドだったね。マオイもこれからどんどん体重が増えていくだろうが、背の高いチェンはなおの事、この階級に長く留まっていることはできないだろう。すぐに115ポンドか、120ポンドくらいの階級でやるのが、彼にとっては適当だろう。才能のある若いムエタイ選手同士が、お互い成長期の中で、たまたま105ポンドの契約体重で一戦交えることになった。今回の試合はそんなところの物だよ」


「僕に才能なんか・・・ないよ。才能があるのはチェンのほうで、チェンみたいな選手が、きっと将来ルンピニーのリングに上がるんだよ」


つい先ほど、一度だけ口を付け、(マイ・アロイ)、美味しくないと感想したブラックタイガーの天ぷらを、自分に罰を架せるかのように、指で摘まみ上げ、口の中に放り込んでマオイが言った。


その姿を、それでも優しい目で見つめるシンが言う。


「俺は嘘をつかない。マオイには、チェンのそれに劣らない才能があるんだよ。持たざる者にとっては、なんて理不尽なんだと思ってしまう程の才能がね。そんな才能がマオイにはあるのに・・・あるにも関わらず、マオイは手放したのさ。だから負けた」


(えっ?)


シンの言葉の意味をマオイは推し量りかねている。13才の少年には少し難しすぎる、シンの言葉にしてはやけに抽象的な表現だった。


「チェンも才能はあるが決して器用な選手ではなかった。それでも神から与えられたリーチという武器を信じて、前蹴りと右ストレートという、たったそれだけの武器で、格上のマオイから決して逃げることをしなかった。そしてマオイは・・・」


「僕は?」


「ミドルキックとひた向きさという、この2つの最大の武器を、マオイは手放したんだ。才能がある者同士の戦いで、2つも同時に武器を手放したら、それは勝てないよ」


マオイは視線を下げない。下げればその潤んだ瞳から涙が零れるからなのか、それともシンの言葉を、真正面から受け止めると覚悟を決めたのか。

今にも臨界点を超えそうなマオイの張りつめた表情を前にして、ふいにシンが、(ふっ)とさらに柔らかな笑みを浮かべる。


「マオイが自分で気づいているかどうかは分らないが・・・」


そう言ってテーブルの上に置かれていた紙製のナプキンと、注文する品名を書くための短い鉛筆をふいに手にとった。


「以前の俺は、練習練習、また練習って感じでね、根性論というか、理論なんてクソだみたいな教え方をしてたんだけど、最近それだけじゃ、トレーナーとしてどうなのかなと思うところもあってね。こんな頭の悪い俺でも・・・」


シンはナプキンをテーブルに置くと、横一文字に鉛筆を走らせた。その線に右向きの矢印を書く。

ついで縦線。これも上方向への矢印を追加する。横線にはアルファベットの“t”、縦線には“f”の文字を矢印の先端に付け加えた。“t”と“f”の意味については、何も口にしない。


「少しマオイには難しいかも知れないが、まあ食べながらでも聞いて欲しい」


言われてマオイは、シンが取り分けてくれていたマーボ豆腐の入った椀を手にした。

銀のスプーンで少量を口に運ぶ。甘辛い味付けは、食べ慣れているタイフードとの共通点があるが、それでも舌の先端が、少しぴりりと違和感を唱える。

しばらくの後、小さくマオイは、


「アロイ」、美味しいと言った。にっ、とした表情と共にシンが続ける。


「この図だけど、横方向は時間の経過を表している。でっ、縦方向が力の強さだ。頭の良いマオイには分るよね」


分るとも分らないとも答えず、マオイはナプキンに視線を向けたままである。

構わずシンが続ける。いきなり、(どん!)とそう口にして、細長い山のような三角を書いた。引かれた横線の上に、高い一つの山型が立ち上がった。


「この山がパンチやキックの衝撃だよ。強ければ強いほど、この山が高くなる」


こくりとマオイが頷く。シンの説明に合点が行ったようだ。


「チェンの前蹴りは強烈だったねぇ、どんっ!」


そう口にして、先ほど書いた山の上に、さらに高い山を、指先に力を込めてシンは書き足した。


「これがチェンの前蹴りだよ」


紙の縦方向一杯に描かれた山の形に、強烈だったチェンの前蹴りの衝撃をマオイは思い出す。


「でっ、マオイのミドルは・・・こうだ、どどんっ!」


初めにシンが描いた山は、チェンの前蹴りの山より高さが低く、その事が少なからずマオイを傷つけた。しかしシンの持つ鉛筆の動きは、そこでは止まらず、続けてもう一つ別の山を描いた。細長い山が二つ連なる。アルファベットで言えば、”M”のような形状。

再びマオイを見て、シンはにやりと笑った。


「これがマオイのミドルキックだよ」


チェンの前蹴りとシンが表現した形は一つの高い山。対してマオイのミドルは、高さは若干低いものの、二つの山が連続している。

その形の意味がマオイにはよく理解できない。

その時、突然シンがまたも大きな声を上げた。


「どん!」


またもや周囲の客がシンに視線を送る。

全く意味が判らないマオイは、きょとんとするしかない。

シンがにっと笑う。そして・・・


「こういう一発の衝撃には、意外と人間って強いんだよ。それが多少強い衝撃でもね。でも・・・(どどんっ!)、こういう2段階で受ける衝撃には、人の体は耐えられないそうだよ。そして・・・」


マオイは次のシンの言葉を待つ。


「いいかい、マオイ。マオイのミドルキックは、天性の腰の柔らかさがあって、軸足の踵が相手の方を向きながら、膝から真っすぐ入っていく。そして膝の角度を保ったまま、インパクトを迎える。この時の衝撃が、最初の(どんっ!)だ」


いつの間にかマオイの目の潤いは乾いたようで、代わって何か別の輝きを見せ始めている。シンが続ける。


「インパクトの後、今度は膝と腰の関節が一気に解放される。そしてこの瞬間、もう一度、(どんっ!)。でもその2つの衝撃の合間はごく僅かで、感覚としては(どどんっ!)だ。これが、マオイのミドルキックの正体だよ。柔らかい腰と強靭な脚のバネと、そして長い脛を持った者にしか出すことのできない、神から授かった天性のミドルキックだ」


一気にシンが捲し立てた。そのシンすらも少し興奮気味だ。


(どどんっ?)僕のミドルキックは・・・(どどんっ!)


その言葉を何度もマオイは口の奥の方で反芻する。

どんどんマオイの目に力強さが宿っていく。何かを取り戻しつつある者の表情。


「これは正直な俺の感想だよ。もしあの試合、マオイが感情に任せてパンチを振り回すようなことはせず、ただ一途に自分のやってきた練習を信じて、ミドルキックを出し続けていたなら、3ラウンドが終わる頃には、きっとマオイのミドルキックが、チェンの前蹴りを上回っていたはずだ」


(どどんっ、どどんっ)


そう心の中で繰り返す度、マオイは何か得体の知れない興奮が起き上ってくることを実感していた。そして次に思い至ったのは・・・


「ねぇ、シン」


「んっ?」


「僕・・・負けたばかりでどの口が言うって感じだけど、もう一度チェンと戦いたい。今すぐにでも」


その言葉を聞き、シンが破顔する。


「チェンはこれからもっともっと強くなるよ。マオイも負けずに練習しなきゃ。ところで・・・」


笑顔のマオイがチェンの言葉を待つ。


「どうだい、なかなか俺らしくない論理立った説明だったと思わないかい?」


「うん、正直思った。シンらしくないって」


僅かな間があり、見つめ合ったまま2人は声を上げて笑った。

この日初めてマオイが見せた、心からの笑顔だった。


「まあ、マオイの想像通り、今説明した内容は、ある人物の説明の受け売りさ。これを聞いた時、長くムエタイに関わってきた俺が、やっと一流選手のミドルキックの正体が解ったって気がしたよ」


「誰なの、その人物って?」


そのマオイの問いには答えず、シンが別の内容を話し始める。


「でも、このミドルキックは、誰にでもできるキックじゃない。もしかしたらそれが理由で、これまであまり語られなかったのかも知れないなぁ。理屈では解っても、普通の選手には無用な理論なんだから。でもね、ある条件では、マオイのような天性の才能が無くても、これに似たキックが蹴れるんだよ」


「それはどんな条件なの?」


「太くて高い位置にある相手の胴体を蹴るのは無理でも、低い位置にあって、それが細いものなら、例え筋肉のバネが無くても、腰の関節が固くても蹴れる。例えば相手の脚を蹴るときとか」


少し考え込んだ表情になったマオイに、シンは(まだ判らないかな?)という悪戯っぽい笑みをその顔に出現させる。



(はっ)と、マオイは今日見た闇ムエタイの試合を思い出した。


キョウという小柄な選手は、何度もムエタイ選手の脚を狙ってキックを出していた。

マオイから見て、そのキックはあまりにも遅く、フォームも綺麗とはお世辞にも言えなかった。

試合終了後、ムエタイ選手が脚を引き摺ってリングを降りたことについても、(もつれ合った時に、足首でも挫いたのかな)程度にしか考えていなかった。

でも、あのローキックが、もしかすると・・・


そこまでマオイの思考が至った時、肌寒さを感じる程に空調の効いていた室内に、マオイの右横から生温い空気の流れがぶつかってきた。

その方向に視線を向けたシンが、(にっ)と笑みを浮かべる。


「おっ、小難しい理論を俺に教えてくれた先生の登場だよ」


そう口にしたシンの視線の先をマオイは追う。

開け放たれたレストランの入り口に、ずんぐりとした体型の背の低い男が、ポロシャツと短パンというラフな服装で立っていた。

たった今、マオイが頭の中で思い出していたあのキョウが、赤く腫れあがった顔とは対照的なにこやかな笑顔で、こちらも笑顔のシンと、真っすぐに見つめ合っていた。



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