To be ・・・
ウィラポンは実はシラチャの出身ではありませんでした。フィクションということでご了承お願いします。
椅子に腰かけたまま、少しキョウを見上げる格好で、シンはニヤリと笑っている。
立ったまま、少しシンを見下ろす角度で、キョウもニコリと笑顔を向けている。
マオイはそんな2人に対して、落ち着かない視線を往復させながら、そしてやっぱり困ったような顔をして黙って座している。
(あっ)、そう口にして何かを思い出した様子で、唐突にテーブルの上にあったメニューを手に取り、シンがキョウに声を掛ける。英語である
「あれはどれだったっけ、あれ」
「あれって何?あれでは判らない」
これもまた流調な英語でキョウが問い返す。
「だからあれだよ。注文したかったんだけど、どれだか判らないから、キョウが来るのを待っていたんだ。あの白くて温かいニッポンのヌードルだよ。前にキョウにご馳走してもらった・・・確か・・・フォックス・・・」
(フォックス?)
辛うじてその英単語が聞き取れたマオイが、不思議そうな顔をする。
「フォックスのヌードル?ああ、キツネウドンのことか、それなら・・・パードン!」
少し離れた位置に控えていた白い制服姿の女性店員にキョウは声をかけ、彼女が近寄るのを待った後、(ディスワン、ヌン)、と英語とタイ語のちゃんぽんで、シンの持っていたメニューから一品を指差した。するとシンが横から、(ノーノー)と、素早くメモを取り、厨房へ戻ろうとした店員を再び呼び止める。
「キツネウドン、サン」
「カー」
穏やかな笑顔で了解の意志を女性店員が示し、すぐさまメモに上書きする。
(にっ)と悪戯っ子のような顔をしたシンが、マオイの方に向き直り、そして言う。
「マオイも食べるよね、ジャパニーズ・フォックスヌードル。なかなかこれが美味いよ」
(フォックスのヌードル?)
マオイの表情に、あからさまな不快感が表れる。
「フォックスって、あのキツネのことなの?」
マオイのその声は不安げだ。
「さあ、どうかな。色は確かにキツネ色だけど、材料まで俺は知らない」
タイ語で交わされているシンとマオイの会話は、キョウには理解できないらしく、変わらず笑みを浮かべたまま、黙して2人のやりとりを聞いている。
「なぁ、キョウ、あのフォックスカラーのトッピングは、やっぱり、その・・・キツネの肉か何かなのかな?」
とぼけた顔でシンがキョウに問い掛ける。
少し間を置き、呆れた様子でキョウが(ノー)と言う。
そしてシンにではなくマオイの方を向いて続ける。
「メイド オブ ソイビーンズ. ドンウォリー」
顔を引き攣らせていたマオイの心中を察したキョウが、そう声を掛けると、どうにかその英語を理解したマオイが、ほっとした表情を見せ、ついでにシンを強く睨み付ける。
今度はシンが肩をすくめる。今にも舌を出しそうな様子だ。
「いや~、俺もキツネの肉を食べるなんて、絶対あり得ないと思っていたんだよ、そりゃあそうだよな」
悪びれる様子もなくシンが言う。
「ああ、こっちはマオイ、うちのジムでムエタイを練習している。すごく才能のある13才の少年さ」
自分が紹介されたことを理解したマオイは、立ち上がり両の掌を合わせる。
そのマオイの丁寧な所作に対して、同じく両手を合わせて、キョウが(サワディー・カップ)と、少しイントネーションのおかしなタイ語で、マオイに挨拶を返した。
そんな2人の挨拶の交換を見届けた後、(うんうん)と頷いたシンが口を開く。
「さっきの試合、マオイと2人で観戦させて貰ったよ。ああ、それだけじゃなく賭けた金を損した。50バーツ」
(50バーツ)という言葉を殊更に強調してシンは言った。
「そうかい、それはすまなかったね」
そう口にしたものの、本気でそのことを詫びているという風情は、キョウにはない。
(自分に賭ける方が悪い)、そうとでも言いた気だ。構わずシンが言う。
「マオイがね、さっきの試合の感想を語ってくれたよ。あんなのはムエタイじゃないって。マオイはとても頭がいい子なんだよ」
英語でキョウにそう説明した後、同じ内容を今度はタイ語に変換して、マオイにも繰り返す。通訳もせねばいけないから、先ほどからシンの言葉は忙しない。
そのシンの言葉を聞くや、一気に顔を赤くしたマオイが、(なんでそんな事をばらすのか)と、表情の変化だけで無言の抗議をシンに向ける。
「それはそれは、お粗末でした」
今度こそは本当に申し訳なさそうな顔をして、キョウはマオイに答える。しかし英語での詫びの言葉はマオイには伝わらない。
そんなやり取りが、シンには堪らなく愉快らしく、(まあ座れよ)とでも言うように、自分の隣の椅子を引いた。やっとキョウが腰を下す。
シンとキョウが並んで座り、その対面にマオイが座っている。暫しの無言。
無造作にテーブルに置かれたキョウの手を見て、マオイが瞠目する。
がっちりとした体躯ではあるが、全体として小柄、身長に至ってはもしかしたら自分よりも低いかも知れないこの小さなニッポン人の拳が、どうしてこんなに大きく厚いのか。そのことにマオイは驚いている様子だ。
そしてマオイが驚いた事がもう一つ。キョウの両手の第一関節、中でも人差し指と中指の部分が、赤黒く盛り上がっているのである。それは異形と言ってよいほどだ。
そのマオイの驚きの視線に気付いたシンが、声を掛ける。
「ああ、キョウの拳のことかい?すごいだろ?俺達ムエタイ選手はグローブをはめて戦うが、ニッポンのカラテ選手は、基本は素手で闘うらしい。だから訓練を重ねると、拳がそんな形になってしまうそうだ。な、そうだろ?」
マオイにタイ語で説明した後、次に英語でシンはキョウに同意を求める。
キョウはこくりと小さく頷いて、そのことを肯定した。
そのシンの説明を聞き、マオイはやや気まずそうに、少し顔をシンに寄せて、小声で言う。
「ねぇ、やっぱりキョウはパンチが下手なんじゃない?当たっているのが、人差し指の関節だよ。パンチはフォーナックルを正確に相手に当てるべきなのに」
そんなシンの小声に、(う~~ん)という微妙な表情をシンが浮かべる。
否定とも肯定とも、どちらとも取れない表情だった。
僅かな沈黙。そしてシンが口を開く
「シンスケ・ヤマナカをマオイは知っているよね?」
その名を聞き、マオイの顔が少し強張る。そして答える。
「知っている。ニッポンのボクサーで、ウィラポンに勝ってチャンピオンになった、あのヤマナカでしょ」
日本人キラーと呼ばれ、日本のボクシングファンにも馴染みのある元ボクシング世界王者のウィラポンは、サラブリ県の出身である。
マオイ自身も9才の時、父親の転勤でシラチャ市に越してくるまで、このサラブリ県に住んでいた。そんなこともあり、シンがマオイを指導する際、この同郷の英雄であるウィラポンのことを、よく引合いに出す。
試合に勝っても、あまり喜びをリングで表さないマオイの態度は、(リング上での勝者の笑顔は、敗者への冒涜に他ならない)と語ったウィラポンの言葉が、その根底にあってのものである。もちろん、それはシンがマオイに教えたことである。
「ヤマナカのあのレフトストレート、ウィラポンを倒したあのパンチは、人差し指の第一関節を当てている・・・らしい。まあ実際には、人差し指を当てる意識で打っているってことかも知れないが」
そう言いながら、シンは対面に座るマオイに、ストレートパンチを打つが如く、左の拳を突き出した。納得できたとは言い難い表情で、マオイが黙って目の前のシンの左拳を見ている。そんなマオイの態度と表情に、(にぃ)と笑みを浮かべたシンが続ける。
「ナーの奴がさぁ、前の試合で小指の骨を折ったよね」
ナーとはマオイの通うジムの先輩選手で、年齢はマオイより4才年上の17才。
地元の学校に通いながらムエタイを続けている日本で言うところの高校生である。
戦績は特に目立ったものではなく、ここ数試合も勝ったり負けたりを繰り返している。
そのナーが、先月出場した試合で、右手の小指を骨折したのだ。そのことをジムメートであるマオイも当然知っている。
「うん、知ってる」
「頭のいいマオイには判ると思うが、あの怪我は、ナ-のパンチが外側から回って入ったために起こった怪我だ。しかも当たったのが相手の額の固い部位だったしね。やってみると判るが・・・」
そう言ってシンはもう一度左の腕を突き出す。先ほどの同じ動作と比べて、少し深く肩を入れたため、その分だけシンの左拳がマオイの顔に近づいた。
「人差し指の関節付近を当てようと意識するだけで、まず絶対に脇が開くことがない。だからナーのように外側から拳が回って怪我をするということがない。それと・・・」
「それと?」
「肩が奥まで自然と入るので、パンチが相手に向かってよく伸びる」
このシンの説明はマオイにも納得が入った。軽く頷いてそのことをシンに伝える。
「まあ、でも一長一短さ。遠くまで伸びるということは、反面、回転がどうしても遅くなる。たまたまヤマナカがそういう打ち方をしていたと言うだけで、別にマオイにもそういう打ち方をしろと言ってる訳じゃない。俺が言いたいのは、飽くまでそういうパンチの打ち方もあるってことだ」
約半時間前に聞いた(ああいう戦い方もある)とシンが評したキョウの戦い方が、マオイの頭に蘇る。
黙り込んでしまったマオイから視線を外し、シンがキョウに話しかける。
「さあ、キョウも何か食べなよ。俺たちはもう大分お腹が膨れた。ああ、ブラックタイガーのテンプラが残っているよ。マオイが(マイアロイ)だってさ」
(ふ~ん)という顔をしたキョウは、すでに冷めきって、衣の表面にべっとりと油が浮かんでしまったエビの天ぷらを箸で掴み、備え付けの塩を少し付け、黙って口に運んだ。
いくらも咀嚼せず飲み込んだ後、たまたま一番付近に居た女性従業員に声をかけ、トムヤンクンのスープを追加注文した。またも笑顔に変わったシンが、キョウに声掛ける。
「ニッポン人は本当にトムヤンクンが好きだねぇ。俺達タイ人にしてみれば、わざわざレストランに来てまで注文するメニューじゃないんだが」
そんなシンの声をキョウは聞き流し、緊張した面持ちのマオイの方に向き直り、
「トムヤンクン、アロイ(トムヤンクンは美味しい)」
と柔らかな声を掛けた。今も緊張した表情を崩さないマオイに対しての気遣いのようだ。
少し引きつってはいたが、それでも笑顔を作ってみせたマオイに、シンが声掛ける。
「さあ、マオイ、何かキョウに質問はないかい?どんな事でもいいから聞いてごらん。マオイの村の長老と、ほとんど同じ年齢だよ、キョウは」
そんな催促を受けたマオイだが、逆に完全に困り果てている様子だ。
助け舟のつもりなのだろうか、キョウがマオイに声掛ける。
「エニークエスチョン」
その意味は理解できたマオイではあるが、(どんな質問でも)と言われて、それはそれで困っている。それでもマオイとして聞きたかったことだったのか、あまり長く間を置かず口を開いた。キョウにではなくシンに対してである。
「キョウは・・・お金持ちなの?」
そう問うたマオイの顔を、変らぬ悪戯っ子のような表情のままシンは暫く見つめ、その後ゆっくりとキョウの方に振り向く。
「キョウはお金持ちなのかって聞いてるよ、マオイが・・・」
数舜の沈黙の後、シンとキョウは、ほぼ同時に笑い声をあげる。
シンの笑い声が大きい。今にも涙を流しそうな程の高笑いだ。そのままマオイの方に向き直り言う。
「そうだよ、キョウは金持ちだよ。なっ、キョウ」
「どれくらいお金持ちなの?」
真面目な顔でさらに問うマオイの言葉を聞き、またもシンは笑いを吹き出す。
「どれくらいお金持ちかだってさ。さあ、どう答える?キョウ」
「何て答えてあげたら分り易いんだろう?」
「さあ、どうかな。毎月の給料の額でも答えとくかい?」
そんな内容のシンとキョウの英語のやりとりが続く。その間、マオイは大笑いしている2人とは対照的に、今も固い表情を崩さない。
「じゃあ、手取りで月々20万バーツくらいとでも答えておいてくれよ」
そのキョウの言葉に(分った)という表情で、シンがマオイの顔を見つめる。
そしてタイ語でマオイに話す。聞くや否や、マオイが目を丸くする。
「んっ?ちょっと待て、ヌン、サン、ソン・・・いま30万バーツと答えなかったかい?」
「おや、分ったかい?キョウもそれくらいのタイ語が理解できるようになったんだね。いや、ニッポン人はとても謙虚な民族なんだろう。実態に合うよう俺が修正してやったのさ」
そう言ったシンがまたも腹を抱えて笑う。そんなシンのまるで子供の様な言動に、キョウも流石に少し呆れ顔だ。
とっ、その時、すらりと背の高い、鮮やかな赤いワンピース姿の女が、キョウの座っている椅子の脇に立った。胸元が大きく開き、浅黒い肌が露わになっている。胸廻りの生地が限界近くまでに張り詰めている。すらりと伸びた素足も、若い張りが感じられたが、履いているのは何故か古びた薄いサンダルだった。
最初にその女のことに気付いたのはマオイだった。そのマオイの視線の動きで、シンもキョウも、ほぼ同時にその女の存在を、遅まきながら見止めたようだ。
初めから店内にいた女ではない。キョウが入ってくると、その後を追うように、店内に何食わぬ顔で入ってきたのだ。そのことは入口付近を見渡せる位置に座っていたマオイだけが知っていた。
キョウに対して、これ以上はないという程の好意を宿した笑顔を見せる。その視線を受けながら、ややキョウは困惑気味だ。
「ルームナンバー」
やけに女としては低い声で、そうキョウに女は声を掛けた。
「ソーリー?」
「ルームナンバー」
どうやらこの女は、キョウの泊まっている部屋の番号を聞き出そうとしているようだ。
何かを得心した表情になったキョウは、愛想の欠片もない態度で、(アイム ビジィー)と短く返す。女はそれでもしつこく部屋の番号を聞き出そうと、同じセリフを繰り返す。どうも彼女は英語が理解できていないようだ。それを察したキョウが、掌で追い返すようなゼスチャーをする。
そんなやり取りを数度繰り返した後、遂に女は不服そうな顔を浮かべて、そのまま入口の扉を開き、出て行った。
「なかなかモテるじゃないか、キョウ」
始終を見ていたシンが、含み笑いを浮かべたままキョウをからかう。
(ふん)という顔をしたキョウは、これと言った相槌を返さない。
「なかなか綺麗なレディーだったじゃないか。俺達のことは気にせず、彼女と一晩遊べばよかったのに」
(レディー)の部分を、シンはやけに強調した。
「レディーじゃないだろう、レディーじゃ」
そのキョウの言葉を聞き、またもシンはにやりと笑う。
「さすがにタイでの生活が長いと、ちゃんと判別できるんだね、大したものだ」
そのシンの言葉をキョウは無視する。
マオイだけが、何が起こっているのか判っていないという顔付きをしている。
そんなマオイの思いを察したように、シンがマオイに対して説明する。
「今のレディーだけど、レディーボーイだよ。オカマちゃんだな。パタヤには多いのさ。かなり綺麗な方のオカマちゃんだったけどね。ニッポン人は何故かオカマちゃんにモテるんだよな。でも残念ながらキョウの趣味じゃあなかったらしい」
そんな大人の会話についていけないマオイは、またもや困った顔になって押し黙っている。
そんなマオイの困惑を察して、キョウがマオイを促す。
「ネクストクエスチョン」
何か遠慮したような上目遣いでキョウの視線を受けたマオイが、タイ語で言う。もちろんシンの方を向いてである。それは噛みしめるようなゆっくりとした問いかけだった。
「どうして・・・どうしてキョウは・・・そんな年寄りになって、まだリングに上がるのかな」
そのマオイの問いを聞き、くしゃくしゃになっていた笑みを残しつつも、すぅとシンの表情が真剣なものに変化していく。マオイの眼を見つめたまま、その問いを、すぐに英語には訳さない。
たっぷりとした静かな時の後、やっとシンはマオイの振り絞ったような問いかけの内容をキョウに伝える。
そのシンの通訳に、今度はキョウが穏やかな笑みを湛えたまま、その眼の奥に何か真剣なものを宿していく。(ふぅ~)と小さく息を吐き、そして大きく空気を吸った。
「To be ・・・」
すぐには言葉が紡がれてこない。
もう一度息を吐き、先ほどよりは、少し控えめに息を吸った。
「To be … who I am.」
そのキョウの、大声でもなく小声でもなかった言葉を聞いた後も、シンはそのままキョウを見つめたままである。
マオイはシンの通訳を、ただに待っている。
キョウの視線はシンに向いてはいない。マオイに向けられている訳でもない。
何か虚空の一点を睨むかのような眼の光。
何かが満ちて来るのを待つようにたっぷりと時間をかけて、そしてゆっくりとシンがマオイの眼を見つめて口にする。
「To be who I am. 俺が俺であるために・・・まあ訳すとそんなところかな」
またも3人の間に訪れる沈黙の時間。
先ほどまでの賑やかさが無くなったテーブルの脇に、キツネウドン2杯が乗ったトレーを持ったまま、女性店員が立ち尽くしていた。
最後に注文したトムヤンクンがテーブルに置かれてから、暫くの時間が経っている。
赤く濁ったスープはまだ少し残っていたが、すでに湯気は立っていない。
具材はほとんど無くなっている。大部分はキョウが1人で食したのである。
マオイの持つ小皿には、数匹のエビと魚肉の切れ端が残っていたが、その箸の動きはとても緩慢だった。キツネウドンをスープまで平らげた段階で、マオイの胃袋はすでに満腹状態だったのだ。シンの方は、このトムヤンクンには一口も口を付けていない。
マオイの2つ目の質問、(どうしてそんな年寄りになってまで、リングに上がっているのか)という問いかけに対して、キョウは、(To be who I am.)と英語で答え、その英語をシンが、(俺が俺であるため)とタイ語に訳した。そのやり取りを境に、3人の会話は急に少なくなった。言葉少なくシンとキョウが、今日の試合について、いくらかの会話をしたが、それは全て英語で交わされ、その内容をマオイのためにタイ語に訳すことをシンはしなかった。従ってマオイにはこの2人の会話の内容が判らない。シンとしては敢えてマオイにその内容を伝える必要がないと考えたのかも知れなかった。
キョウが大振りのサービングスプーンを使い、赤いスープを自分の小皿に取ると、いよいよトムヤンクンの鍋が空になった。マオイも、半ば強制的に取り分けられた小皿の中身を、大汗をかきながらどうにか食べ終えていた。
「なあ、キョウ」
先ほどから料理には全く口を付けていないシンが、キョウに声掛ける。
口の中にトムヤンクンの具材が入っているキョウは、眼だけでシンの次の言葉を催促する。
「キョウはさっき3ラウンド戦ったばかりだけど、もう1ラウンドか2ラウンドくらいは動けるよね。大きな怪我もしてなさそうだし」
そのシンの質問にキョウは答えない。無言でシンの言葉の意図を探っている。
次にシンは、キョウではなくマオイの方に向かって話しかける。
「マオイ、さっき俺の言った(俺が俺であるために)って言葉だけど、意味が判ったかい?」
そう問われてマオイは視線を落とす。その態度からも、幼い彼にとってはあまりにも難しいシンの通訳だったらしい。初めからそうと判っていたように、シンが言葉を続ける。
「よく判らなかっただろう。だって俺ですらよく判っていないんだから。でもマオイよりは、俺はキョウのことを知っていて、その分だけキョウの言ったことの意味が、少し判る気がする」
マオイが視線を上げてシンの顔を見る。その視線を受けてシンが続ける。
「キョウはリングに上がることの理由を、(俺が俺であるために)と答えた。その意味を理解しようとすれば、キョウとは一体どんな人間なのかを知らないといけない。判るかな」
判るとも判らないとも、マオイは答えない。そんなマオイの顔を、暫く見つめた後、シンはキョウの方を振り返る。
「部屋にグローブはあるのかな?」
「12オンスと16オンスのものが1セットずつだけど、あったと思う」
(グッド)と短く口にしたシンが頷き、(ちょうどいいグローブハンデだな)と、ぼそりと英語で口にした。そしてマオイの方に視線を戻す。
「じゃあマオイ、相手のことを理解するのに一番手っ取り早い方法が、マオイには判るかい?」
「ううん、判らない」
今度ははっきりとそのことをマオイは口にした。
(にぃ)と笑ったシンが言う。妙に楽しそうで、そして少し興奮もしているようだ。
「それはね、実際に拳を交えてみることだよ。俺達ムエタイ選手には、それが最良にして唯一の方法さ。お腹が一杯で動きづらいだろうけど、キョウはキョウで、今日すでに3ラウンド戦っているしね。条件としてはお互い五分だろう。さあ、マオイ、今からキョウと軽くスパーリングだ」
言うや否や、テーブルの上に置かれていた数枚のレシートをキョウに手渡し、嬉しそうにシンは立ち上がった。
すぐには意味の判らなかったマオイだが、それでも間を置かず、強い緊張がその顔に張り付き始めた。一方キョウは、なるほどという顔になり、マオイの表情の変化を見つめたまま、手渡された数枚のレシートを、その大きな拳に握っていた。
「チェック!」
会計を催促する一際大きなシンの声が、店内に響き渡った。




