シンとキョウ(たこやき)
おでこに青黒いタンコブを拵えた背の低いジャパニーズと俺は、広いレストランの一角で、清潔な白いテーブルを挟んで向き合っている。
夕食時にはまだ時間は早く、客の数は程ほどだ。
それにしても奇妙な奴だ。
練習生でもない立場で勝手にジムのリングに上がるという暴挙を犯した。そのリングの上で見せたおかしな打ち方のパンチ、そしてまるで自分自身を痛めつけるような相手の足を狙ったキック。
元プロ選手の俺でなくとも分かる。全くその技術には洗練さの欠片もなかった。あんな大振りのテレフォンパンチが、コリアンの顔面を捉えたのは、ほとんど奇跡と言っていい。
いや、必ずしもそうとは言えないかも知れない。それ以前のボディーへの執拗なパンチとしつこいほどのローキック。全く有効打とは呼べない技だったが、もしかしたらそれは、このジャパニーズが張っていた伏線だったのかも知れない。
相手にたった一発のパンチをぶち込むために、顔面に膝蹴りを突き上げられるという代償は払ったが。
実は、そこのところが、俺にもよく判断できていない。
顔面に喰らう膝蹴りは、普通なら必倒の技だ。
それを貰ったにもかかわらず、このジャパニーズはマットの上に立っていた。
一番近い場所で、それを見ていた俺には判った。
相手の膝が当たったのは、鼻っ柱ではなく、額の部分だったのだ。
そのことがこのジャパニーズを救った。だから額にデカいタンコブを作る程度で済んだのだ。もし、もろに顔面に入っていたなら、鼻骨を折られていたか、悪ければ眼窩の陥没もあり得た。
俺が今でも分かっていないのが、その膝蹴りが、幸運にも額に当たっただけなのか、それとも、ジャパニーズが敢えて額で受けたのか、それがどちらなのかと言うことだ。
いずれにしてもこのジャパニーズは、そんな自殺行為に近い賭けをくぐり抜けて、いま平然とこのレストランで飯を食っているのだ。やっぱり変な奴だ。
コリアンの方は、まさか貰うとは思っていなかった顔面へのパンチに、相当動揺したようだ。油断と呼べなくもないが、それも仕方がないと思えるほど、二人には大きなリーチ差があったのだ。
自分の鼻から垂れた血の滴を見止めるや、(こんな馬鹿に付き合ってられるか)とでも言うような表情をして、両手を大げさに広げるゼスチャーと共に、ラウンド終了のゴングを待たずリングを降りた。
出口に向かい歩いていくコリアンの後ろを、頭1つ程背の低い取り巻き2人が子分のように続く。
「おい、待てよ」
俺は不貞腐れた顔をして出て行こうとするコリアンを、英語で呼び止めた。
始めから抱いていた敵意が、ついセリフに籠ってしまった。
まあ、振り返ったコリアンの目にも、たっぷりとした敵意が滲んでいたが。
「リングに上がるのは練習代とは別料金だ。2000バーツ置いていけ」
2000バーツ。俺たちタイ人にとっては、それは大金だ。
リングに上がっていたコリアンではなく、取り巻きの方の1人が、自分の財布から1000バーツ紙幣を2枚取り出し、俺に向けて投げ捨てるように放る。
無理に粋がった目を作っている。目の奥には怯えに似た感情が見え隠れしている。
ムエタイ選手だった俺からすれば、相手の心の動きを読み取るのは容易い。
オーナーが床に落ちた紙幣を拾い上げようと近づいてきたが、さすがに臆病な奴だけあって、その険悪な空気を感じ取ったのだろう。すぐに足を止めた。
コリアンがドアを開くと、ジム内の空気よりも僅かに温度の低い埃臭い風が、ジムの中を吹き抜けた。バタンとドアが閉じられる。再びジム内を静寂が支配する。
コリアン達が出て行った出口方向を、俺はこみ上げる怒りを噛み殺してしばらく見つめていた。
その時、俺の視界の片隅で、ジャパニーズがリングを降りていく姿が映った。
ゆっくりとジムの隅の方向に歩んでいく。
その背中に、何か言葉を投げようとした俺なのだが、何故か不思議と言葉が出てこない。
ジャパニーズが歩いていった先にあった濃紺色のバッグに手を掛けた。おそらくそれは奴のバッグなのだろう。何かをバッグから取り出した。サイフだ。
それ程分厚くはないサイフから、紙幣を数枚抜き取った。立ち上がりジム内を見渡す。
すぐに探していた何かを見つけたように歩き出す。
その先には・・・ああ、オーナーに向かって歩いているのか。
手にしている紙幣は、2枚?そうか、2000バーツか。
少しは落ち着いた様子のオーナーの前に立ち、紙幣を手渡そうとするジャパニーズ。
嫌らしい顔で、それを受け取ろうとするオーナー。
「お前も待てよ!」
自然と出た俺の言葉に、ジャパニーズは動きを止め、こちらを振り返った。
紙幣を受け取ろうと手を伸ばしたオーナーが、出した手をそのまま空に置き、困ったような間抜け面で立ち尽くしている。
俺はリングを降りて、二人に近づいていく。
この変なジャパニーズのことが、好きか嫌いかと問われれば、きっと俺は嫌いなのだろう。
このジャパニーズのやったことを、気に入ったか気に喰わなかったかと問われれば、きっと俺は気に喰わないのだろう。
だが、さっきジムを出て行ったコリアンに抱いた憎悪のような感情とは、何か少し違ったものが確かにある。それが自分でも何なのかよく判っていない。
判っていないまま、俺はジャパニーズの前に立った。
「これは・・・受け取れない」
ジャパニーズが今も握っている2枚の1000バーツ紙幣を、奴の胸に叩き返すように、俺は押しつけ、言った。
ジャパニーズは、少し意味が分からないといった表情をしている。
このジャパニーズ以上に、何が何だかという顔をしているのは、相変わらず間抜け面のオーナーだ。構わず俺はジャパニーズに言う。
「今日のところは、ある意味ではあんたに助けられた。だから金は受け取れない」
ジャパニーズはどうやら俺の英語を理解したようだ。
英語は理解できないが、俺の動きからオーナーは意味を察したのだろう。
いかにもケチ臭い守銭奴のように、がっくりした表情を浮かべた。
「今日のところは助かった。でも、あんたか今日リングでやったことを認めた訳じゃない。またあんたがこのリングにもし上がることがあったなら、この俺が、お前をぶちのめす」
(わかった)
とはジャパニーズは言わなかった。代わりにコクリと小さく頷いてみせた。
こいつなりに、俺の言ったことの意味を理解したようだ。
そしてこの時になって、俺は気付く。
目尻の辺りに刻まれている皺。首筋の張り具合。白いものがたっぷりと混じっている髪。
30台後半から40代の前半だろうと、このジャパニーズの年齢を予想していた俺は、この自分の予想が、少ない方に見積もっていたことに驚く。
40代後半、あるいは50代に手のかかった人間が、あれ程の動きができるとは思えなかったため、俺としたことが、それを見誤ったのだ。いや、それ以前に、40代後半になってまで、ムエタイのジムで練習するような人間を俺は知らない。
そのことが、俺のわだかまりを多少なりとも小さくした。
やはり俺も儒教の国タイの人間であり、敬老の精神がその奥底にあるのだろう。
小さくお辞儀したジャパニーズが、紙幣をサイフにしまい俺に背を向けた。
そのとても小さな、それでも太い筋肉の筋が幾本も走っている背中に、思わず声を掛けてしまった。
「ちょっと、待てよ」
呼び止めては見たものの、特にこれという言葉を準備していた訳ではない。
ジャパニーズが振り返る。穏やかでどこか悲し気な表情だ。
たったの今まで、俺の目の前で無謀な戦いをしていた男と同一人物とはとても思えない程の優しそうな顔だ。
「何か用かな?」
そのジャパニーズの英語の問いに対して、俺は必死に言葉を探した。
やがて俺の口から出た言葉は、自分でも全く考えてもみなかったものだった。
「デカいタンコブができてるぜ。今のうちに冷やしとかないと、明日の朝にはひどく痛むはずだ」
やけに優しいことを言っているじゃないか。俺は一体何を話しているのだろう。自分でも訳が判らないが、それでも勝手に言葉が流れ出てくる。
「おい、誰か氷を持ってきてやれ」
その俺の声に、まだ少年の練習生が、すぐさま冷蔵庫から氷の塊を持ってきた。
ジャパニーズに手渡す。
「コークン・カップ(ありがとう)」
「ドン・メンションニット(気にするな)」
タイ語でジャパニーズが言い、俺が英語で返す。
おかしなやり取りじゃないか。どうにも俺のペースを乱す奴だ。
「それにしても立派なタンコブだ」
そう言った俺は、自分がこの時、少し微笑んでいる事実に気付き、かなり驚いた。
「それにしても不細工な戦い方だ。あれじゃあ、相手と痛みの我慢比べをしているようなもんだ」
何だか俺の声色が穏やかになっている。さっきまでは敵だと思っていたジャパニーズに対して。もちろん今でも味方だとは決して思っちゃいない。
「ナットウの方がキムチよりも粘り強いからな」
ジャパニーズが英語で答えた。
俺も料理人の端くれだ。キムチは分かるし、実際に俺の店でもメニューにある。
しかし、ナットウとは一体?
「何だい、そのナットウというのは?」
素直に俺はそのことを問う。
「ジャパンのイースタンパートに住んでいる人間のソウルフードだ。キムチと同じく発酵食品だよ」
「へぇ、美味いのかい、それは?」
「タイ人の味覚には・・・きっと合わないだろう」
いったい何なんだ、全く無意味なこの言葉のやりとりは。
その間も、おれはずっとこのジャパニーズの額に出来た大きなタンコブが気になって仕方がない。ちらりちらりと、つい視線がそこに向いてしまう。
「どうでもいいが、ちょっと鏡を見てみろよ。ますますコブが大きくなってきたぜ」
ジャパニーズが、シャドー用の壁に埋め込まれた鏡の前に立ち、顔を近づける。
そろりと右手で大きく膨らんだタンコブを擦る。
「これは・・・立派なタコヤキが焼き上がったものだ」
「タコヤキ?何だい、そりゃあ?」
「これも日本のウエスタンパートのジャンクフードだ。こっちの方が、ナットウよりはタイ人には受けがいいかも知れない」
「へぇ、一度食ってみたいものだ」
もちろん本気で言った言葉じゃない。ただの言葉のあやだ。
「機会があったらごちそうするよ」
軽い口を叩きやがる。俺は冗談で言い返してやった。
「貧乏なタイ人は、そんな言葉を冗談とは取らないぜ。いつそのタコヤキってのを、ごちそうしてくれる気なんだい?」
いま俺の口元には、少し嫌らしい笑みが浮いていることだろう。敢えてそんな表情を作ったのだ。少しこの変なジャパニーズが困った表情をするところを見てみたかっただけだ。
本気で口にした言葉じゃない。
「なんなら今からでも。自分が泊まっているホテルにジャパニーズレストランがある。きっとそこならメニューにあるはずだよ」
そんなやり取りからまだ1時間も時が経っていない。
そして何故か俺は、自分の口にした冗談に付き合わされる形で、ジャパニーズレストランにいるのだ。
真っ先にテーブルに運ばれてきた料理はゴルフボールのような形状をしていた。
白い皿の上に乗っていて、合計8個。
すぐにそれがタコヤキという食い物だと、俺には分かった。
もうもうと湯気が立っていて、上に振られていたカツオブシが、ゆらゆらと踊っていた。
このカツオブシは、俺達タイの料理人も、普通に料理に使うよくできたトッピングだ。
「これがタコヤキだよ。熱いから気を付けて」
そんな声を掛けたジャパニーズの方を見ると、その額には、いま目の前にある料理とそっくりのコブが赤く膨らんでいた。
なんだかペースが乱されっぱなしで気分が良くない。
「もし不味かったら、俺は帰るぜ」
タイ人には珍しく俺は”ハシ”を器用に使える方だが、それでも思ったより柔らかかった(タコヤキ)を少し苦労して、口に運んだ。
表面はカリッとしていて舌触りは悪くない。トッピングされているカツオブシもいいアクセントになっている。口の中で一通り転がしたあと、俺は一気に舌と上顎の腹で、この丸い食い物を押し潰した。
(うぉっ!)
迸り出てきた熱い汁に、俺の口内が悲鳴を上げた。
必死に空気を吸い込み、口の中のものを冷まそうとするが、まるで追いつかない。
耐えきれない熱さから逃れるように、俺は一気に熱い塊を食道に流し込んだ。
いつの間にか俺の眼からは涙がこぼれていた。
「だから、熱いから気をつけてと言ったんだ」
ジャパニーズがテーブルの向こう側で、真面目な顔のままそう言う。
「ふっ、ふふっ」
「ふふ、ふふふ」
「がは、がははっ」
それが、俺とキョウが、初めて顔を見合わせて笑いあった瞬間だった。