スパー
エタらせてなるものか・・・皆さんの応援が力になります。
僕はとても感動している。こんなに綺麗なグローブを着けたことは、ムエタイを始めてから一度もない。光沢のある黒い革製のグローブだ。真新しい革が発する僕の好きな匂いが、まだたっぷりと香っている。
いつも練習に使っているグローブはボロボロで、拳が当たる部分のスポンジは、すっかり小さくなって固まっている。表面は合成皮革で、練習で使うと激しく動く手首の部分から、いつもパラパラと皮革がはがれて落ちていく。
試合で使うブローブは、いくらかマシなものをジムが準備してくれるけど、それでもこんなに綺麗なやつじゃない。
12オンスのグローブはやっぱり少し重たい。普段の練習も、試合の時も、僕が着けるのは大抵6オンスだから、ちょうど倍の重さだ。グローブの中で拳に力を込めると、表面の革が、”キュキュ”っと音を立てる。まだいくらも使われていない証拠だ。
マジックテープがとてもしっかり止まるから、上からテーピングでサポートする必要もない。
重たいけれど、とてもいいグローブだ。黒色もカッコいい。
ああ、シンはさっき、(キョウはお金持ちだ)って言ってたっけ。
もしかしたらこのスパーの後で、この綺麗なグローブを、キョウは僕にプレゼントしてくれるかも知れない。
さっきまではお腹が一杯で、こんなスパーには全く気が乗らなかったんだけど、今は少し違う。この新しい綺麗なグローブで、相手にパンチを打ち込んでみたい。
本当はキックの方が得意なんだけど、今日はパンチを沢山打ちたい。それも力一杯に。
いや、待って待って。キョウは長老と同じくらいお年寄りだって言うじゃない。
それはさすがにマズイでしょ。お年寄りに力一杯パンチを打ち込む訳にはいかない。
さっきキョウの戦っているところを見たけれど、あんな遅い攻撃、僕には絶対当たらない。当たる訳がない。キョウの攻撃を、ひらりひらりと躱して、チャンスがあれば軽くパンチを当ててやる。まあ、そんなところが今日のスパーの落とし所かな。
シンが何を考えて、こんなスパーをやろうって言ったのか分からない。
ああ、もしかしたら、シンは僕に自信を取り戻させようと考えてるのかな。
そんな心遣い、もう僕には要らないよ。確かに、チェンに負けた時は、とても落ち込んでいたけど、もう大丈夫。
(負けることがカッコ悪いんじゃない。負けた自分に負けてることがカッコ悪いんだ)
シンはそう言った。その意味が、今は少し分かる気がする。
あのウィラポンだって、チャンピオンになるまでに、何度かは負けてるんだ。
それでも諦めなかったから、ウィラポンはチャンピオンになったんだ。
そう、もう僕は大丈夫。
んっ、キョウがいま脚に付けてる赤いのは何かな?サポーター?それにしてはやけに分厚い。材質は何だかグローブと似ているな。革製かな。
「シンガードとかレガースとか言うよ。まあ脛の防具だな。俺達ムエタイの選手は付けないけどね」
僕が疑問に思ったことの説明を、シンがしてくれた。本当にシンは僕の考えていることを、よく分かってくれているんだ。いつも、いつも。
ごめんね、シン。不貞腐れていた自分が本当に情けないよ。
シンは怪我をしてムエタイの選手を辞めたんだったよね。
僕が戦うよ。これからは、シンの分もね。
戦って、戦って、勝って、勝って、シンがとても優秀なトレーナーだってことを、皆に認めて貰うんだ。怪我さえしなければ、きっと一流の選手になっただろうことも。
まずはチェンにリベンジだ。あの時だって、セコンドのシンの言うことを守っていれば、絶対に僕は負けなかった。僕が馬鹿だったせいで、シンにも恥をかかせてしまった。そんなことは、もう二度とご免だ。
え~と、シンガードって言ったっけ?足の防具を付け終えたキョウが立ち上がり、そのキョウの両手に、シンがグローブをはめている。そっちは16オンスだったね。16オンスのグローブって本当に大きいね。キョウは背が低くて顔も小さいから、余計にグローブが大きく見える。
あっ、準備ができた?いつでもいいよ、こっちは。
早くパンチを打ち込みたいんだ。この新しいグローブでね。
シンが何か言った。英語だ。(Ready!)は分かった。きっと準備はいいかって僕たちに聞いたんだと思う。シンが英語を話すことを、もう僕は驚かない。
見れば判るでしょ。こっちはいつでもオーケーだよ。あとはキョウの準備が整うのを待つだけだ。
ただでもずんぐりとした体形のキョウが、分厚い脛ガードを付けると本当に足が短く見える。キョウの足は太い。そして短い。ムエタイ選手の足じゃない。そんなに太い足じゃ、切れのあるキックなんて蹴れっこない。
今のキョウの姿は、まるで不格好なロボットみたいだ。そしてまだ中学生の僕より背が低い。
クラスメートの女の子で、タイ航空の客室乗務員になりたいって娘が何人かいるんだ。
皆揃ってきれいな顔をしてる。スタイルもいい。何でも、太ってたらそれだけで客室乗務員には採用されないらしい。
体型が採用の基準になるなんて、何だか差別のようで、こんな話になると先生は決していい顔はしない。でも事実らしい。僕は飛行機に乗ったことはないけど、きっと世の中とはそんなものなんだろうと思う。よく大人の人達が言う(本音と建前)ってやつなんだろうな。
そして、可哀そうだけど、キョウもムエタイ選手になれる体型じゃない。それでも、キョウはどうしてリングに上がり続けるんだろう。僕には、そのことがまるで分らない。
キョウが僕の前に立った。やっぱり小さい。いや、小さいというより背が低い。体重はきっと僕よりも重たいだろう。これまで僕は、ここまで自分より背の低い選手と対戦したことがない。少しはやり難いかも知れないけど、大した問題じゃない。何より僕とキョウとではスピードが違い過ぎる。さっきのキョウの戦いを見た限り。
「Fight!」
特に気負った様子もなく、自分の部屋の扉を開けるかのようなシンの声が耳に届いた。
湿った風が、シンの声を横に運んで、あまりはっきりとは聞き取れなかった。
ちょっとだけ、僕は緊張しているのかも知れなかった。




