シンとキョウ(3)
きっと誤字脱字、おかしな表現あると思いますが、それでも投稿したくなったのでします。
何だろ、この心境。。。
ゴングの音が、四つの壁に反射して増幅した。
それが収束するには、しばらくの間を要した。
ジム内が、恐ろしく静まり返っていたのだ。
糸を引くような鐘の余韻ののち、最初に俺が耳にしたのは、コリアンの足音だった。
固い裸足の裏が、ざらついたマットを擦って前へ進む音。
(ザッ、ザッ)と聞こえたその音に、迷いは全くないようだ。
(すぐに間合いに入り、蹴りが出る)、俺はそう確信していた。
でもそうならなかった。
コリアンが前進するのを止めたからだ。
何故だ?ゴングがなる前のコリアンの顔は、相手を今にも蹴りたくて蹴りたくて、ただの1秒すらも待てない。そんな顔をしていたはずだ。
不思議に思った俺は、コリアンの顔を覗ってみる。
敵意は変わらず宿したままだった。そして揺るぎない自信もある。
しかし・・・何だ?僅かだ。それは、僅かだが、しかしゴングが鳴る前にはなかった小さな別の心情が浮いている。これは何だ?コリアンは何を今思っている?
俺が現役の選手だった頃、リングで見せる表情は、まるで役者のそれだった。
相手の蹴りが効いてしまっていても、効いている素振りを一切見せない。
呼吸をするのも辛く、大きく息を吸い込んでへたり込んでしまいたいのに、肩が上下するのをぐっと我慢する。息が乱れていない素振りをする。まだまだスタミナが残っているぞと演技する。相手も騙して、そして弱気な自分自身にも嘘をつく。
それは相手も同じことだ。俺達ムエタイ選手は、そんな騙し合いの中、ほんのわずかに表れた相手の真実を感じ、最適なタイミングと有効な戦術を即座に選択し、そして勝機に畳みかけるのだ。そんな場面でのセコンドの声なんて、実はまるで信用できない。
(効いた、効いた!)
セコンドのそんな声は、唯の励ましだ。戦っている選手が、そのまま鵜呑みにすべきものでない。
効いたか効いていないかは、実際に蹴りを放った選手の足の感触のほうが、遥かに正確にそのことを判っているのだ。
昔こんなことがあった。
俺の左ミドルが、唸りを上げて相手のレバーに突き刺さった。
異様なまでに熱狂していた歓声の中でも、はっきりと自分の足の甲が、相手の脇腹の肉を叩き潰す感触が、俺の脳にまで響いた。
「よし、効いた効いた。倒しに行け!」
セコンドが大声で叫んでいる。
彼らも俺のミドルが、相手の脇腹を強く叩いたことが判ったのだ。でも、俺はこのセコンドの声に疑問を感じていた。
確かに俺のミドルは相手の脇腹を捕らえた。
空気を裂くような破裂音も響いた。しかし・・・
違和感があったのは俺の足の甲だ。ジャストミートしたと言っていい感触は得たのに、ミドルで相手を倒す時に得られる、いつもの感触とは、少し何かが違ったのだ。
僅かに、僅かに肉の奥に存在する、何か弾力のあるもの。例えるなら純度の高い生ゴムの塊のような。このゴムのような僅かな弾力が、最後の最後、俺の蹴りがレバーを抉ることを、間際で喰い止めたような疑念が、俺の頭に浮かんだのだ。
それでも俺は、セコンドの声に無意識に反応していた。
大きく前に踏み出した俺のストレートパンチに合わせた相手の縦ヒジが、俺の顎の下から、音もなく忍び寄っていた。俺は間一髪で、当たればKO必至のこのヒジを、躱すことができた。もし俺が、左足の甲に生じたほんの僅かな違和感を感じ取れていなかったら、この日リングに沈んでいたのは、たぶん俺の方だっただろう。
その経験は、その後の俺の戦い方に変化を与えた。
相手の表情を観察するという術を、戦いのなかに織り交ぜるようにしたんだ。
間合いが遠い場面では、無駄な前蹴りやジャブを出すのではなく、相手の顔、特に目の動きと光り具合を観察する。
俺の攻撃がクリーンヒットした時は、これまでの様に一気に攻め込むのではなく、少し相手の眼の光りを確認する間を取るようになった。それは長い時間じゃない。0.1秒にも満たない時間だ。
いつしか俺は、この1秒にも満たない僅かな時間で、相手のダメージの有無や、次に仕掛けてくる攻撃なんかを、かなり正確に予測することができるようになっていた。
自分が現役に戻った気になって、コリアンの表情を観察する。
やはり相手を恐れている様子はなさそうだ。闘志が冷めた訳でもない。
それでもゴングの前にはなかった何か別の感情が、少しだけ揺らめいている。
例えるとしたら、何だろう。そう、料理の味見をした時、狙っていた味と、微妙に舌の感じた風味が違った時のような。或いは練習生に蹴り方を丁寧に教えたつもりなのに、ミットを蹴る生徒の蹴りが、あまり良くならない時に感じる、軽い失望のような感覚、否、どっちも少し違う。
言葉で上手に説明できるもんじゃない。何か心地の良くない胸の辺りの引っ掛かり。
そんな時の心境ってのは、何と表現するべきなのだろう。学の無い俺にはよく分からない。
(迷い)とか(戸惑い)とかいう呼び方なのだろうか。でもそんな表現も完璧な言い表し方じゃあない。
いずれにせよ、このコリアンの心を少し揺らしているのは、向かい合っている小柄なジャパニーズが原因なのだろう。俺は意識をジャパニーズに向ける。
(なんと低い!)
それが最初の印象だった。
始めから背の低い奴だとは思っていたが、構えを取った姿は、さらに頭一つ分ほど、重心が下がったように感じる。
例えるなら、そう、短距離走の選手が見せるスタート前の構え。確かクラウチングスタート。もちろん陸上選手の様に、手を地面に付いている訳ではない。
両の拳はちゃんと顎の前に置いているし、座り込んでしまっている訳でもない。
ムエタイではなくボクシングなら、これくらい低く構える選手もいるだろう。
それでもまるで陸上選手のような構えだと、俺が思ったのには訳がある。
気だ。今にも正面に向けて、全力で飛び出す準備を整えた陸上選手の気迫。そんな覚悟のようなものが、この小柄な男の構えにはあるのだ。
いつ自分に向かって飛んでくるかも知れない絞り切った弓。
そんな気迫に、きっとコリアンは戸惑っているのだろう。
(これは・・・なかなか面白い)
思わず口元に緩い笑みが浮かぶ。
この小柄な男に、俺が僅かに抱いていた興味。
あながちそれは思い過ごしではなさそうだ。
いや、しかし・・・
絞り切った弓矢が、人に脅威を与えるのは、放たれる矢を受けることが、即ち死を意味するからだ。向けられた銃口も同じ。一撃必殺であってこそ、それは相手にとって脅威となり得る。
これだけの体格差があり、そしておそらくこの男の武器は両の拳。
何故なら蹴りを出すにはあまりにも不適切な構えだからだ。
いざ冷静に考えれば分かる。
体格に劣り、年齢的にもまともな動きが期待できるはずもない。
矢の先端というべき男の拳は、厚いグラブで覆われている。
やはりこの男に過度の期待をするのは、間違っていると考えるのが、まあ妥当だろう。
俺としたことが、ムエタイとは異質な、この男の構えに、少しばかり戸惑ってしまったようだ。
そして向かい合っているコリアンも、すぐに同じ結論に達することだろう。
もう一度コリアンの表情を確認すると、やはり落ち着きを取り戻しつつある。
しかし・・・やり難いのは事実だろう。
この背の低いジャパニーズは、一気に相手の懐に飛び込もうとしている。
下手なジャブや前蹴りを出そうものなら、それを潜り込み、或いは横に払い、一気にリーチの差を埋めにかかるだろう。
構えがそのことをはっきりと語っている。
構えに迷いが一切ない。
なるほど、背が低く、リーチが短いということは、ムエタイのリングではハンデには違いない。
しかし逆に、やらねばいけないことが明確で、戦術に迷うことがないというメリットもあるのかも知れない。
さあ、どう出る?テコンドー野郎。
そんなことを考え始めた時、いよいよ俺は楽しくなってきた。
ぐいっとジャパニーズが間合いを詰める動きに反応して、コリアンが後ろに配していた右足で、軽い前蹴りを出す。まるで誘われたような前蹴りだ。
ごくわずか、前進の速度を弱めたジャパニーズが、難なくその蹴りを横に捌く。
それはそうだ。その蹴りを、おそらくジャパニーズは待っていたのだから。
捌くだけではなく、ジャパニーズはその捉えた蹴り足を、大きく横に放り投げた。
コリアンがバランスを崩し、半身になる。
距離を取ろうとコリアンが繰り出した横蹴りよりもわずかに早く、ジャパニーズの低い蹴りが、コリアンの軸足を打った。しかし刈り切れない。やはり体格差は大きい。
コリアンの態勢がぐらりとしたが、マットに足裏以外の箇所を付くことは、踏みとどまった。
顔面と首筋を赤くしたコリアンが態勢を整える前に、ジャパニーズが前に出る。
まるで相手を抱擁しようとするかのような至近距離だ。
(ゴチッ)
ジャパニーズがまた低い蹴りを出した。
俺は思わず顔をしかめた。
ボーン・トゥー・ボーン。骨と骨とが、薄い肉を介して激しくぶつかり合う時の音。
膝だ、膝の皿の辺りだ。コリアンの膝を、ジャパニーズの足の甲が打ったのだ。
(また無茶なことをする)
俺が感じたジャパニーズの攻撃についての感想がそれだ。
確かに膝の関節は弱い。筋肉が付き付きにくく鍛えるにも限度がある。
しかし足の甲というのも決して強い部位ではない。
只でさえ、自分より重たい人間を蹴ることは足に負担がかかる。
今の攻防は、この二人の体格差を考えたら、ジャパニーズにとっては、良くて痛さの痛み分けだ。
(ゴチッ)
またもや同じ攻撃、同じ音。そしてまた抱擁しようとするような前進。
その距離は、ムエタイというよりレスリングだ。
どうにか相手と正対する形に上体の向きを戻したコリアンの顎の下に、ジャパニーズの頭部がすっぽり入っていく。薄く顎と前頭部が、ぶつかった。
顎を上げられ、あからさまに嫌な顔をするコリアン。
強く顎にヒットしていたならバッティングの注意を与えるところだが、そこが微妙なところだ。
リーチに劣っているジャパニーズが、敵の懐に潜ろうとした動きの中で、偶然起こったアクシデントと見るべきだろう。俺は注意を与えない。
(ゴッ)
またジャパニーズがコリアンの足を蹴る。今度は膝ではなく内腿だ。
この男はただ闇雲に、低い蹴りを出しているようだ。
さっきの蹴りも、膝を狙った訳ではなく、たまたま膝に当たったというだけだろう。
それにしても・・・こんな近い間合いで蹴りが出せるものなのだろうか。いや出せるのだろう。
あまりにも大きすぎるリーチの差が、リーチの長い選手側からすれば、普通はあり得ない間合いから、蹴りを受ける格好になるのだ。
どうやらこのジャパニーズは、自分より遥かに体格の勝る人間を相手に、これまで幾度となく戦ったのだろう。こういう戦いに慣れている。
(ゴチッ)
それにしても痛そうな音だ。
コリアンが何とも嫌そうな顔をしている。
顎を引いて、相手の懐に潜り込んでいるジャパニーズの表情は読み取れない。
低い蹴りの後、小さなパンチの連打を、コリアンの腹に放っている。
軌道の短い、細かいパンチだ。回転は速いが、しかし、グラブを嵌めた手での、そんな細かいパンチが、相手にダメージを与えることができるとは思えない。
体の大きな人間を相手にすることに慣れている。
しかしグラブを嵌めたファイトには不慣れ。
そんなところが、俺の分析だ。
よく分からない奴だ。分からない奴だが・・・
俺はここで一つ仮定する。そう、もし素手なら・・・
もし素手の拳なら、このジャパニーズの小さなボディーパンチは、当たり所によっては有効なのかも知れない。固い拳の関節が、相手のあばら骨を直接叩くからだ。
でも今、奴が立っているのは残念ながら、ムエタイのリングだ。
そして手にグラブを嵌めている。
グラブを嵌めることによって、その攻撃の威力は著しく削られている。
そんなことも承知した上で、お前はこのリングに立ったのだろう。
体格差も不慣れなグローブを着けての戦いも。
ならば何とかしてみせろ。
俺は心の中で、そんなことを、ジャパニーズに向かって語り掛けていた。
超の付く接近戦を嫌ったコリアンが、距離を取ろうとバックステップする。
その動きに合わして、ぶつかるようにジャパニーズが体ごと押し込んでいく。
(バゥン)
コリアンの背中がロープを大きくたわませた。
そのことに俺は少し驚く。これだけの身長差、体重差があるのに、ロープまで押し込まれたのは体格に勝るコリアンの方であるという目の前の現実に。
コリアンも同じことを考えたようだ。振り返る余裕はなかったが、背中に生じたその感触に、やや驚きの表情をにじませた。
(ガチンッ)
またもや鈍い音。骨と骨とがぶつかり発する音。またジャパニーズの低い蹴りだ。
頭ごと突っ込むような感じで、コリアンが体を横に躱すのを、ロープに押し込んで封じる。
小さなボディーへのパンチの連打。やはり有効とは思えない。そして低い蹴り。
コリアンが膝を上げて受ける。また膝と足の甲がぶつかる嫌な音。
これは痛いだろう。ややコリアンが顔をしかめる。
痛がっていることを隠し切れていない。
そうか。このジャパニーズの攻撃はそういうことか。
相手を倒そうとしている攻撃ではない。
ダメージを狙っての技でもない。
痛みだ。このジャパニーズの狙いは相手に痛みを与えることなのだ。
しかし、それでは自分も痛い。そのことは判っているのだろう。
この男は痛さに対する我慢比べを仕掛けている。
何とも不器用な戦い方もあったものだ。
俺はそのことに心底呆れてしまった。
そして自分でも不思議だったのだが、このとき俺は、自分の口元に何故か僅かな笑みが浮いていることに気付いた。
(バィン)
またもやコリアンの背中が大きくリングロープをたわませた。
小さく小さく、低く低く、前へ前へ、徹底した小さなジャパニーズの戦術を、コリアンは持て余していた。
(それでも・・・)
俺は、そう思っている。
体重制が採用されているムエタイのリングでは、ここまでの体格差・身長差の相手と向き合うことは、まずないだろう。
それでも自分より小柄な選手と戦った経験は、俺にももちろんある。
そんな場面で有効なムエタイの技は・・・
それにコリアンは気付くだろうか。
テコンドーという闘技について、俺は詳しく知らないが、おそらくテコンドーの試合では禁止されているのだろう。
コリアンの動きで、俺にはそれが判る。同時にこのコリアンが、優れた格闘センスを持ち合わせていることも知っている。
(ガチン!)
またもや骨を骨にぶつけるような低い蹴りを出し、その蹴り足をそのまま踏み込んで、ジャパニーズが超の付くほどの接近戦に持ち込もうとする。その動きに合わせて、コリアンが右ひざを突き上げた。これがジャパニーズの腹部を捕らえた。
(気付いたか)
それが俺の正直な感想だった。
構わず前進するジャパニーズに、またもや膝蹴りを出すコリアン。
またも腹部を捕らえたように見えた。
(これで互角だな、いや形勢逆転か・・・)
俺はそう思った。
中へ中へ、そんなインファイターを相手にした場合、カウンターの膝蹴りが有効なことはムエタイ選手には常識だ。そもそもムエタイが立ち技最強と言われている所以が、この膝蹴りの巧みさなのだ。
遅まきながら、このコリアンはそのことに気付いたようだ。
膝蹴りを受けながらも、ボディーへの細かいパンチを出し続けているジャパニーズだが、至近距離からのパンチと膝蹴りでは、一発の重みが違う。
そしてもう一つ。もうコリアンは気付いているだろう。
だからこそ腹への膝蹴りを連発しているのだ、いま奴は。
腹を意識させての必殺の一撃。ジャパニーズの両腕が、徐々に自分の腹の前に位置しつつある。
ガードを腹に集めさせて、顔面、あごへの膝。
ムエタイの武器の中でも、最も強烈で殺傷力の強い必殺の一撃。
コリアンがそれを繰り出した時が、この戦いが終わるときだ。
今もコリアンは膝を腹に当て続けている。ジャパニーズのパンチの回転が、いよいよ落ちてきた。潮は満ちた。
遂にコリアンがその長い両腕で、ジャパニーズの頭部を抱え込みにいった。
そして右の膝を大きく引く。
頭を抱えての顎に向かっていく膝の突き上げ。その初期動作。
(ここまでか)
そのことを少し残念に思った俺は、その時になってやっと見ることができた。
マットからジャパニーズの顎に向かって、真っすぐ立ち上がってくるコリアンの膝は、予測していたのだから、最初からよく見えていた。
それと同時に、ジャパニーズの背中側から、曲線を描いてコリアンの頭部に向かっている太いもの。右手だ。ジャパニーズの右のオーバーハンドクロスだ。
(エサだったのか!)
コリアンは膝蹴りをボディーに集めていた。腹に意識を向けさせて、顔面への膝蹴りにつなげる布石を置いていたのだ。それは俺も判っていた。
同時に、このジャパニーズもボディーに小さなパンチを打ち続けていた。
俺はたった今まで、それは体格的な要因による苦し紛れの攻撃だと思い込んでいた。
このボディーパンチも、コリアンの膝と同じく、エサだったのだ。意識を腹に向けさせるための。2人はお互い、エサを撒きあっていたのだ。
どくんと、大きく心臓が躍る感覚がした。当たると思った。
コリアンの顎への膝も、ジャパニーズのオーバーハンドも。
コンマ何秒先に結果が出る、東洋人同士の騙し合いの顛末。
これほど時間とはゆっくり流れるものかと思う程、俺にはその瞬間が待ち遠しかった。
俺は歯を噛みしめていた。