シンとキョウ(2)
またリングに上がる。絶対に・・・
夕刻の県道125号線は、それはひどい渋滞だった。
しばらくは車間を縫って走っていたのだが、それがもどかしく、結局俺は泥んだ脇道をホンダで走り抜けて、部屋の扉を蹴ってから僅か15分でジムに飛び込んだのだ。
途中二度ほど泥濘に車輪を絡めとられ、危うく転倒しそうになった。
ホンダを乗り始めてから、初めて自分でもやばいと思う状況だった。
これまでに経験がないほど気が急いていたのだろう。
事故にならなかったのは唯の幸運と呼ぶべきかも知れない。
ジムのドアを蹴破るようにして中に入ると、ムッとした濃い汗の匂いに鼻の天辺を叩かれる。
毎日嗅いでいた匂いであるはずなのに、たった5日来なかっただけで、ここまで違和感があるものなのかと思った。
一斉に皆の視線が俺に集中する。
「シンっ!」
まるで子供が泣いているかのような、情けない顔をしたオーナーが俺に走り寄ってくる。
しかし俺はそんなオーナーに構ってやることができなかった。
何故なら俺の意識はこの時、リングの上で向かい合っている2人の男に、完全に掴み取られてしまっていたからだ。
左右のこめかみで熱い血が脈打っている。収めようのない激しい怒りの血流だ。
(俺が来るまで誰もリングに上げるな)
そう念を押したはずだ。でも今、リングの上で2人の人間がグラブを嵌めて向き合っている。しかも向き合った2人の体格差が常識を逸して大きい。
例えライトスパーであったとしても許されない体格差だ。
練習生を掻き分けて俺の腕にしがみ付いてきたオーナーの胸倉を、危うく怒りに任せて捩じ上げそうになった。
(んっ?)
リングの上の背の高い方の男は見知っている。一度ミットで蹴りを受けたことのあるコリアンだ。しかし、もう一方の背の低い男に、俺は見覚えがなかった。肌の色がやけに白い。
(練習生ではないのか?奴は一体誰なんだ)
俺はオーナーの胸倉を掴む代わりに、オーナーに問うた。
「あの背の低い方の奴は誰なんだい?」
完全に肝を失った泳いだ目をしたオーナーが俺に言う。
「ジャパニーズだよ。一昨日くらいからジムに来てはバッグを蹴って帰っていく奴さ」
(この野郎もか。どいつもこいつもムエタイを舐めやがって)
十分な怒気を含ました口調で俺はオーナーに喰い付く。
「でっ、そんな奴が一体誰の許可を得て今リングに上がっているんだい?あんたの許可かい?」
「いや、そうじゃない。あのコリアンにバンクが蹴り倒された後、コリアンが叫んだんだ。(次はどいつだ)って。俺もどうしていいかさっぱり判らなくて・・・そうこうしている間に、いつの間にかあのジャパニーズがリングに上がっていたんだ」
俺は改めてリングに上がっているジャパニーズだという小柄な男を睨み付けた。
このジャパニーズはこちらを見向きもしない。向かい合っているコリアンだけを見ている。それにしても背が低い。コリアンより頭一つ以上は低いだろう。遠目では年齢すらよく判断できない。
ゆっくりと俺はリングに近づく。糞の役にも立たないが、オーナーが俺の後ろをついてくる。
(んっ?)
リングに近づいていくにつれ、あまりにも怒り過ぎたのか、少しは俺の精神状態は落ち着いた。改めてそのジャパニーズを観察すると、上背はないが体自体はがっちりしている。肩幅が広く、四肢の骨格の太さが見て取れる。
ふと俺は思った。何かに印象が似ていると。
それは何だっただろうと俺は考える。
何度かテレビで見たことがあるあの動物。
そう、確か、アキタイヌ。ジャパンの寒い地方にいると言う固有種だ。
もちろんタイにはいないし、俺自身も見たことはない。
大型犬ではないが闘争心が強いと聞いた記憶がある。肢体が太く重心が低い。
飽くまで直感的なものだが、俺はそのジャパニーズにそんな第一印象を抱いた。
もう一つ俺が気になったことがあった。
やけに落ち着いているこのジャパニーズの佇まいだ。
明らかに体格差があるコリアンを前にして、少しも力んだ様子が感じられない。
これから身に起こる未来を、この小柄な男は果たしてどこまで判ってこの表情をしているのだろうか。そのことがまるで読めない。
コリアンの方は判りやすい。
明らかに向かい合っている相手を舐め切った目つきだ。
それはそうだろう。
俺は見た訳ではないが、きっとこのコリアンはバンクを一方的に蹴り倒したのだろう。
そのバンクよりも、体重はどうだか分からないが、明らかに上背のない奴がリングに上がってきたのだ。俺の目測で、少なく見積もっても体重差は15キロ以上。
「おいっ、シン」
ああ、オーナーの声か。この期に及んで何だと言うんだい?
「シン、止めなくていいのか」
うん、それは止めるべきだろう。常識で考えれば。
そもそもそれ以前に、バンクがリングに上がることを止めるべきだったんだ。
多分、このジャパニーズもバンクと同じように、あのコリアンの蹴りで倒される。
大きな怪我に繋がりかねない危険な体格差だ。
俺の知ったことじゃないと言えば正にその通りだが、このジム内で事故が起こるのは、やはりよろしい話ではない。ないが、しかし・・・
「もう少し様子を見てみようじゃないか」
自分でも自分の口にした言葉が意外だった。
理由は分かっている。少し興味を持ったのだ。この小柄なジャパニーズに。
普通の感覚を持っている者なら、これから自分に降りかかる不幸は予想できるはずだ。
さっきのバンクとのスパーもきっと見ていたのだろう。
にもかかわらず飄とその場に立っている。そこに粋がった様子はまるで感じられない。
そんなジャパニーズの態度と表情の理由を、俺は知りたいと思ったのだ。
ふと、皆の視線が俺に集まっている気配を感じた。
子供たちの視線が、俺にこの場を仕切れと訴えている。
さらにリングに近づこうとした俺の腕に、オーナーがしがみ付く。
「おい、シン、どうするつもりだい?」
「さあね、いずれにせよコリアンもジャパニーズも、俺たちにとって敵であることは違いないからな。勝手に敵同士が噛み合ってくれれば、俺達には何の問題もない」
吐き捨てるようにそう言って、俺はリングサイドまで歩き、第2ロープに手を掛けてリングに立った。
コリアンの視線が真横から俺にぶつかってくる。
敵意を微塵も隠そうとしていない。視線を合わせずともそのことが判る。
(この次はお前だ)
そうとでも言いたげな表情をしているのだろう。いや、そんなことよりも・・・
俺が驚いたのは小さなジャパニーズの髪の色だ。総髪ではあるが両脇の部分が白い。
俺が考えていた以上に年を喰っているようだ。30代なら間違いなく後半。いや、きっとそれ以上だろう。
ますます俺はこのジャパニーズの行動が不可解に思えてきた。
本当にやり合うつもりなのか、自分よりも遥かに若く体格も大きな相手と。
「レッツ ゲット スターティッド!」
コリアンが大声で喚く。その息は酒臭くない。
今日に関しては、初めからこのジムでリングに上がるのが目的だったのだろう。
酒を飲んでいないか、飲んでいたとしても量を控えたようだ。
すでに構えを取っているコリアンの方には聞く必要もない。
グラブを嵌めた手をだらりと下げている、俺より頭一つ低いジャパニーズに言った。
「アーユー レディ?」
「エニィタイム」
間を置かずやはり場違いと思えるほど落ち着いた声で、ジャナニーズが返した。
何だか胸が騒ぐ。それはさっきまで俺の胸を支配していた胸糞の悪さとは少し質が違う。
俺はもしかしたら、この小さな年寄りのジャパニーズに、何かの期待をしていたのかも知れない。
「3分だ」
そう言った俺が、もしかしたら今、一番ゴングを待ち侘びている人間なのかも知れない。。
「おい、誰かゴングを鳴らせ!」
ジム内の誰にともなく、俺は声を張り上げた。
その声は静まり返ったジム内に、自分でも驚くほど大きく響き渡った。




