シンとキョウ
中途半端なところで終わってしまった。
ベッドに横たわり、天井の染みを、ただ眺めている。
この染みが気になるのは、決まって瞼が重くならない時だ。
エアコンが必要以上に効いていて、少し肌寒く感じる。
いつの間にか俺も、電気代を気にせず、生活ができるようになった。
そのことを実感する。喜ぶべき事なのかもしれない。でもそれは、シェフとしての仕事とムエタイジムのトレーナーという副業を、どうにか両立できているからに過ぎない。
これから先のことは、どうなるか俺自身にも、知れたことではない。
そんなことを考えると、妙に目が冴え冴えとしてくる。
10代の頃、もちろんエアコンなんて無かったジムの宿泊場で、他の若い選手と一緒に寝泊まりしていた。
合計7つのジムを転々とした。
若くて有望な新人が入ってきて、ジム側から部屋を空けるよう催促されたこともあれば、そのジムのメームバリューでは、一流どころの興業には出場できないと、自分から出て行ったこともあった。
練習と食事以外は、ほとんどの時間を、ベッドに横たわって過ごした。
練習の疲労から、早く体を回復させるのも、選手としての大事な練習だと思っていた。
どこのジムの宿泊場の天井にも、なぜか似たような染みがあった。
試合が近づくと、決まってこの染みが気になりだす。
何かの動物に見えることもあれば、人の顔に見えたりすることもあった。
体は疲れているのに、眠りにつけない。
無理に瞼を閉じても、その瞼の裏の闇の中で、逆に神経が冴えてくる。
そして堪らずまた目を開く。
することがないので、天井に張り付いているヤモリの数を数え始める。
奴らがゆっくりと歩きだすのは、決まって獲物を見つけた時だ。
その尖がった三角形の頭の向きに視線をやると、必ず蝿か蛾が飛び回っていた。
少しずつ、本当に少しずつ、奴らは忍び足で、見止めた獲物との距離を詰める。
注意して見ていなければ、奴らが移動していることすらも気づかない。
そして大抵は、奴らが獲物を捕らえることに成功したかどうかを見届ける前に、俺は眠りに落ちる。暑く、暗く、じっとりと湿った部屋の中で、それは毎晩のように繰り返された。
何故か俺は、あの頃のことを思い出していた。
もう5日間、ジムには顔を出していない。
あの白人の右拳を、俺の額で潰したその翌日は、体調不良を理由に俺はジムに行かなかった。翌日も、その翌日も、一応オーナーには電話で連絡を入れた。
この2日間は、電話連絡すらしていない。普通の会社なら無断欠勤と呼ぶところだろう。
オーナーからの連絡も、昨日までのところは何もない。
できればこのまま、なし崩し的にトレーナーという副業から足を洗うことができればと俺は考えている。
今日のレストランの仕事は早番だった。
朝の7時頃から厨房に入り、材料の下ごしらえを終えたのが9時半頃。11時過ぎから13時にかけては、昼食を食べにくる客の注文に、スタッフ全員がアップサイドダウンの多忙さになる。10人以上のスタッフが、トイレに立つことすらもできない有様だ。
しかしこの2時間足らずのピークタイムが過ぎれば、朝出のシフトの日には、もう俺はお役ごめんとなる。スタッフの何人かも、それは同じことだ。
スタッフの稼働率ということを考えれば、レストランの運営というのは、決して効率のよい商売ではないのかも知れない。
もう一人のメインシェフであるマノーが、夕食時のピークに備え厨房に立つと、そのままジムへと向かうのが、この半年の俺のライフサイクルだった。
15時を回っても厨房にいた俺に、スタッフの誰かが、(ムエタイのトレーナーの仕事はどうした?)と聞いてきたが、適当に聞き流した。そのままディナー客が集まってくる時間まで厨房に立とうかとも考えたが、昼時の客足が途絶えるとすぐに、朝の早かった俺は強い眠気を感じ、結局は厨房をマノーに任せて、自分の部屋に戻ってきたのだ。
今の時刻は夕方の5時半過ぎ。
一度は眠気を感じたはずなのに、いざベッドに横たわるや、目が冴えてきてしまった。
そして無意味に、天井の染みを睨み付けているのである。天井にヤモリは一匹もいない。
夕刻となり、日が西に落ちた分、窓から入ってくる光量が減り、天井の染みの形がぼやけてきたが、今度はエアコンの音が、やたらと気になり始めた。
(今頃、ジムの子供達はちゃんと練習をしているのだろうか)
そんなことを少し考えた。ほんの僅かだけムエタイに未練があるとすれば、あの子達のことだ。才能を感じさせる子は、正直なところ一人もいない。
それでも毎日、この子達のキックを受けた。たまの試合ではセコンドを務めた。
この子達の試合は、どれも決まって泥臭い判定決着だった。動きも洗練されたところが見られない。到底、将来一流のムエタイ選手になるとは思えない試合ばかりだ。
それでもこの子達は、ムエタイに懸命だった。試合の時も、練習の時にも、それは変わらない。判定のアナウンスが自分の勝利を告げるや、くしゃくしゃの笑顔で、俺のいるコーナーに戻ってきた。そのたび俺も、自然と笑顔になれた。
もうムエタイと関わるのは辞めよう。
そう決めたはずなのに、それでも何だか晴れやかな気持ちになれないのは、どうやらジムの子供達のことが原因らしい。5日間ジムに顔を出さない日が続き、そのことがやっと分かった。
その時、突然、枕元に置いてあったセルフォンが震える。
すぐに出る気にはならない。伝言サービスへは、コール5回で切替わるように設定されているが、たった5回のコール時間が、とても長く感じる。
俺は天井の染みを睨み付けたまま、振動が止まるのを待つ。
一度は静かになったセルフォンが、間を置かずまた震え始める。
これまでにあまり無かったことだ。
(一体誰からだ?)
2回目の振動が止まったその時になって、やっと俺はセルフォンに手を伸ばした。
(ちっ)
液晶の画面を見て、思わず俺は舌打ちする。
ジムのオーナーからの着信だ。そしてまたコール。
3回、4回・・・そしてまた振動が止まった。
体調が芳しくないと、そういう説明は一応オーナーには伝えている。実際のところ、それは嘘なのだが、これまでの俺のジムへの貢献を考えると、それくらいのわがままは許容範囲だろうと、無理にでもそう自分を説得しようとする。
いや、それでもなし崩しというのはよくない。オーナーやジム仲間に対してではなく、4才から23年付き合ってきたムエタイとの別れに対する、俺なりの礼儀だ。
よし、次にもう一度、オーナーからのコールがあったら電話を取ろう。
そして、もう二度とトレーナーとしてジムに顔を出す意図がないことを、俺の口からはっきりと伝えよう。子供たちの事は少し気になるが、俺の役目はここまでだ。
できることなら、少しはムエタイの分かる新しいトレーナーを紹介してやることができれば、ほぼ100点満点の幕の引き方だろう。心当たりがないでもない。
しかし、セルフォンが震えない。なんだよ、せっかく人が次の着信で取ってやろうと決めたのに。気になることを、あるままに置いておくのは芳しくない。
俺からかけるか。そう考えた矢先だった。着信の振動。
(んっ?)
オーナーからじゃない。親父のセルフォンからの着信だ。もしかしたら、俺が電話に出ないものだから、オーナーが親父に言いつけたのか?27才の俺をガキ扱いかよ。不機嫌な気分を隠さず、俺はついに電話に出る。
「シンサックだ」
「ああ、シンか、俺だ。今、どこにいる?」
「もう部屋に戻ってるよ。レストランの仕事はちゃんと終わらせたし、ジムに出るには、まだ体調が万全でないんでね。今もベッドに横たわっている」
そう言えば、トレーナーを辞めるという話は親父には伝えてなかった。まあタイミングを見て切り出そう。
「そうかい、いや、今ジムのオーナーから連絡があってね」
「ああ、俺のセルフォンにも着信があった。さっき気が付いたところだよ。これから折り返そうと思ってた矢先さ」
「それなら、すぐに連絡を入れてやってくれ。どうも大変なことがジムで起こっているらしい。詳しいことは聞いてないが、とにかくお前と連絡が取りたいそうだ」
(なんだって、大変なこと?)
俺には、その大変なことという状況が、すぐには想像できない。
この時間なら、いつも通り学校を終えた子供達が、思い思いに自主練習をしているはずだ。
まさか、誰か怪我でもしたか?いや、そんなことならオーナーが俺を頼ってくるとは思えない。ああっ、もしかしたら、また外人が見学にでも来たのか、それなら腑に落ちる。
英語で話しかけられて、オーナーが額から大汗を噴き出しているのだろう。
(ふっ)
オーナーには申し訳ないが、思わず嫌らしい笑みが浮かんでしまう。
困り果てたオーナーの顔が、眼に浮かぶようだ。
もう少しオーナーが困っている様を想像していたいところだが、眠りに就くや、また電話がかかってこないとも限らない。間の悪い電話とは、大抵そんなものだ。
それじゃあ、ジムの通訳としての最後の仕事をこなすとしよう。
俺はオーナーの番号をダイヤルする。
最初のコールでオーナーは取った。待ち構えていたのだろう。
(申し訳ないが、今日も体調が戻らなくて・・・)
そんな言い訳を俺が口にする前に、オーナーの興奮した声が、俺の鼓膜を破る勢いで響く。
思わず耳からセルフォンを、俺は遠ざけた。
(シンッ!)
そう俺の名を呼んだのは理解できたが、その後の言葉から、全く聞き取れないほど、受話器の向こう側でオーナーは興奮している。
叫び続けるオーナーに、俺は一喝した。
「少し落ち着け!」
思い返せば、これが初めてのことかも知れない。俺がオーナーに声を荒げるのは。
当たり前だ。俺はたかが一人のトレーナーで、立場的にはオーナーの方が遥かに偉いのだから。云ってみれば一人の従業員と社長の関係だ。
そんな普通ではあり得ない俺の声が、それなりに効いたのか、受話器の向こうの声のトーンがわずかに落ち着いた。
でっ、何が起こっているというんだい?俺のいないジムの中で。
何?コリアン?テコンドー?リングに上がった?それから何だって?
前に来た奴?俺?俺が何だって?
ああ、そう言えば、以前コリアンのキックをミットで受けたことがあったな。
ムエタイとは違う独特の蹴りで、正直なところ少し驚いた。こんな蹴り方もあるのかと思った。そうだ、そうだ。
バンク?誰だい、それは?うちのジムの高校生?
先月?ああ、そう言えば、俺がセコンドについて先月リングに上がり、判定勝ちした選手の名前が、確かそんなだったかもな。
何?リングに上がった?どういう意味だ?
何だって?あのコリアンとリングで戦ったのかい?馬鹿な・・・
俺は数カ月前に、自らの腕で受けたコリアンの蹴りを思い出していた。確かテコンドーとかいう格闘技をやっていたと言っていたはずだ。
体重は70キロを超えていただろう。ミドル級だ。
腹回りの厚い脂肪は、日ごろの不摂生を語っていたが、その分体重があり、蹴りは確かに重たかった。
少し驚いたのは、蹴りの軌道だ。
ミドルもハイも、途中までの軌道が同じで、ハイキックを蹴らせた時、思わずミットを下げそうになった。要はミドルの軌道で足が始動して、その後、足が顔の高さまで跳ね上がるものだから、ついミドルへの蹴りと勘違いしてしまうのだ。もし戦うとなれば、これはなかなかに厄介な蹴りだと、正直感じた。
悔しいことだが、あのジムで、ミドルウェイトはあるあのコリアンと、互角に蹴り合える選手は、ほとんどいないだろうと、あの時、俺は思った。
そんな奴とバンクが戦った?それは無謀というものだ。
バンクというのが、俺の考えているバンクなら、それは駄目だ。
確かあの子はバンタムウェイトで、この前リングに上がったはずだ。
その試合だって、勝てたのは相手に恵まれたからであって、バンタムウェイトの選手としてですら、バンク自身が決して強いわけではない。そして20キロ近い体重差。
状況が理解できてくるにつれ、頭の血管が、今にも破裂しそうなほど脈打ち始めている。
今も受話器の向こうでテンパっているオーナーを、俺は怒鳴りつける。
そこに遠慮は欠片もなかった。
「いいか、今からすぐにそっちに向かう。20分か30分だ。それまで絶対に、誰もリングに上げるな。いいな、判ったな!」
それでも何かの言葉を発しているオーナーを無視し、俺はセルフォンの電源を叩き切った。その時にはもう、俺はホンダのキーを握りしめ、部屋のドアを蹴り開いていた。