レクチャー
「登って、下って、また登りですか。せっかく登った分を一度下るのはなんか勿体無い気がしますね」
真白が呟く。
小仏峠を通過して少々ガレた登山道を登り始めた。
「そうだよね。その気持ちはすごくよく分かる。でも登山は登って下りての連続だよ。特に高い山の縦走…山から山へ通しで尾根を歩いていく事ね。山によっては一気に何百メートルも下って、また一気に登り返すなんてザラなんだから」
ニコラがキリッとした顔で話す。
「そうだね。高尾山外輪山は短くて急なアップダウンが連続するから脚を休ませてくれないよね。私は小刻みなアップダウンが連続する方が一気に登って一気に下るよりも走るには好きだけど」
田坂はよくここを練習で走っているらしい。
高尾山外輪山は大きく北高尾と南高尾に分かれていて、北高尾は特にハードなコースかつハイカーが比較的少ないから練習にはもってこいとの事。水場がないのが難点だが、夏場は南高尾まで行かずに日影沢林道から下りたり工夫するそうだ。田坂は練習ではいま歩いているのとは反対方向に走っているから、景色がすごく新鮮だと言う。
田坂が続ける。
「日向くん、ここは石がゴロゴロしていてバランスを崩しやすいから気をつけてね。地面に埋まっていなかったり、他の石や木の根に乗っかったり引っかかっているだけの石の上に足を乗せるとグラついて転ぶからね。そういうバランスが悪くて固定されていない危ない石のことを浮石って言うんだよ」
浮石か。言い得て妙な…でもこれだけ石がゴロゴロしているとどれが浮石か分からないよな。
「日向くん、ここら辺の石は浮いてるから気をつけて」
前を歩くニコラから声がかかる。
そうだ。前を歩く2人は山歩きのエキスパートだ。そんな2人が初心者の真白を気遣って声を掛けてくれている。なんか安心してきた。
石が浮いているか…初めて聞く言葉ばかりだな。
「やむなく石の上に足を置くときは、一気に全体重を石に付く方の足にかけるんじゃなくて、反対側の足に3割くらい残しておくイメージを持つんだよ。そうすれば自然と接地時間が短くなって、すぐに次の足が出るし、万が一バランスを崩してもすぐに反対の足でバランスを取れるんだ」
マスターのアドバイス。
うーん、よく分からない。
そんな真白の様子を見たニコラがシャシャッと横に来た。
「実際にやってみると良いよ。まず私が2つの歩き方をやってみるから見ていてね」
これが全体重をかける歩き方。
これが体重を分散させた歩き方。
田坂とマスターも一緒にやってくれた。
3人は歩き慣れているだけあって自然にできている感じがする。
でも聞いただけでは沸かなかったイメージが実際の動きを見た今はクリアになっている。
実際にやってみる。
なんとなく安心感が増した気がする。
「ね!違いがわかったでしょ?」
ニコラがサッと後ろを振り向いて言う。
「はい。特に下りが安心です。さっきの木の根が張り巡らされていた下りでも応用できそうですね」
「良い視点だね!下りは特に浮石や木の根で転倒しやすいからこの接地の仕方は転倒防止のために絶対にマスターしておきたいテクニックなんだよ」
ニコラは我が意を得たりとばかりに嬉しそうだ。続けて言う。
「テクニックって言ったら大袈裟だけど、この歩き方が定着すると歩くのが速くなるよ」
「だから皆さんは歩くのが速いんですね。お店から林道までの道を歩いているときにそう感じました。特にニコラ先輩はすごく速いです」
真白にそう言われて、ニコラはフッフーンと得意げな顔をする。するとその様子をチラッと見た田坂が、
「違う違う。私とマスターは足が長いだけ。ニコラちゃんはせっかちなだけ」
ブンブンと腕を振る。
「田坂ちゃん!私の足は長くないってこと?それにせっかちって悪口だよね!田坂ちゃんまで私の敵か!」
ニコラがギャーギャー騒ぐ。
「良い意味でせっかちって事だよ」
対する田坂は冷静だ。
「そ、そっか…じゃ褒められてる…ん?でも…あー!田坂ちゃん!何でも良い意味でって言葉を付けたら許されると思ってるでしょ!この貧乳ポニーテール!」
前を歩く田坂が立ち止まり、首だけ動かして後ろを見る。
あ、これ何か見覚えがある。田坂がイラッとした時の動きだ。
「ニコラちゃん。人の体型や容姿をいじったらそれはただの悪口でしょ。このムダ乳ちんちくりん!」
2人とも悪口が低レベルすぎる…ムダ乳…ちんちく…よく噛まずに言えたな。
いや、それよりも…この状況どうしようって真白がワタワタしてると、
「放っておきな。今日は日向くんがいるからか田坂ちゃんが大人しかったんだ。これが普通だよ」
ニコラと田坂はいつもこんな感じらしい。お互いをいじり合って勝手に騒いでいるらしい。マスターが親の顔より見た光景とでも言うように話してくれた。
本気で喧嘩しているかと思ったら、2人は笑いながら低レベルな悪口の応酬をしている。
「ムダ乳ってただ羨ましいだけでしょ?あー肩こりがない人が羨ましい」
「足が短い人はこういう不整地でバランスがとりやすくていいよねー」
「なんだとー!このエセクールビューティー!」
「壊れた歩くスピーカー!」
ん?ニコラのは悪口か?
歩くスピーカー!それは上手い!座布団一枚!
マスターはゲラゲラ笑っている。
真白も自然と笑顔になった。
「日向くん、ここに灯がいたらどうなるか想像できるな?」
マスターが笑いを引っ込めてぼそっと呟く。
「はい。恐ろしい事になるかと…っていうかニコラ先輩はともかく、田坂さんが灯さんに言い返せるんですか?」
田坂はつまりは灯の部下だ。あんな暴言を上司に吐くようなパンクな人間には見えない。
「うちは公私混同しないっていうのがモットーなんだ。登山は仕事じゃないからな。田坂ちゃんを舐めないほうがいいぞ。あの灯と対等にやり合うからな。夫婦喧嘩の時には援護を頼みたいくらいだ」
「マスター達も夫婦喧嘩するんですね」
「健全だろ?パワーバランスがどっちかに偏るのは良くないから、たまにはやり合わないといけないんだ」
「確かにお二人の馴れ初めを知ってからだと不思議に感じないですね」
「お互いに若い頃ほど強烈に主張しないけどな」
「浅川さんもあのお二人みたいな感じなんですか?」
「いや、浅川くんは暖簾のようにひらひらと受け流すんだ。うちの女子ズが手応えがなさすぎるって降参するくらいだぞ。最終的にはこっちにとばっちりがくる」
浅川さん…なんか想像できる。
マスターと話しながら歩いていると、騒ぎながら前を歩いていた女子2人が道の分岐で待っていた。
「決着はついたか?」
マスターの問いに、田坂が答える。
「うん。男子がセクハラ発言したのが悪いって事になった。下山したらジュース奢ってね」
「仕方ねぇな。おい、日向くん、一本ずつな」
「はい。楽しいもの見せてもらいましたし」
真白の発言を聞いたニコラが、
「田坂ちゃん!男子が反省してません!」
田坂にチクる。すると、
「へぇー。そう…」
田坂がニヤッと笑った。
マスターと2人で、反省してます!と叫んだ。
しかし何に反省?
さて、この分かれ道には看板がある。
景信山。っていうのと、まき道(景信山へは行きません)っていうの。
いや、読めば素人の真白でもどっちに行くかは分かるけど、まき道って何だ?
一向は景信山山頂方面への道を進み始めた。
「あの、ニコラ先輩。まき道って何ですか?」
前を歩くニコラに尋ねてみる。
「まき道っていうのはね、読んで字の如く正規ルートを迂回する道のことだよ。ここはそれほどでもないけど、山によっては凄く急な登り坂を行かないと先に進めない箇所もあるの。そこを避けて迂回して進むルートをまき道っていうんだよ」
「それならまき道を正規ルートにすれば良いのではないでしょうか?」
「良い質問ですねぇ。先に進む事が最優先ならそれでいいんだよ。でもね、私たちは登山をしているの。登山の楽しみの一つが高い場所からの眺望でしょ。まき道は大抵眺望がないんだよ。作業用や縦走用に後から作られた道が多いからね」
「そうなんですね。じゃあ、もしも僕らの目的地がこの先だったら、まき道を行く選択肢もあるって事ですね」
「その通り。この先には陣馬山や堂所山っていうピークがあるから、そこを目指していたらまき道も選択肢の一つだね」
そういえばニコラと買い物に行った際に、高尾山周辺のメジャーな山の話を聞いた。陣馬山という名前はその時に初めて知った。帰ってから調べると、山頂は広くて馬のオブジェがあり、登山道も整備されていて登山口までのアクセスも良く、すごく人気の山らしい。
今度はまき道を通って行ってみようか。
そんな事を考えていると前方で田坂が手を振っている。
「着いたよー!景信山山頂です」
「お昼だー!お腹すいた!」
「今日は空いてるな。昼にはまだ少し速いからか」
ついに最終目的地に着いた。
腹ペコはニコラだけじゃなく、真白の腹もぐーっとなった。
他の3人にも聞こえるほどの音だったらしく、みんな笑った。
タイミングバッチリだね。
狙っていたでしょ。
若いってのはいいなぁ。
三者三様の反応だ。
恥ずかしかったのと目的地に辿り着いた嬉しさが相まって、真白も笑った。




