第1話 隣人トラブル
すべては、我が家(705号室)と隣の706号室の間で起きた、身に覚えのない騒音トラブルから始まった。
午前3時過ぎには「女が大声で電話している」と警察官2名に踏み込まれ、朝の7時には「お経を読む声がうるさい」と再び警察に通報された。
通報主はどちらも706号室の男。
我が家は全員とっくに寝ていたし、朝だってお経なんて読まずに出かける支度をしていただけだ。
身に覚えのない苦情で安眠を妨害され、行動予定を乱された私は、すっかり困惑し、同時に隣人への警戒を強めていた。
あの男は精神的に病んでいるのではないか。
このまま暴走したら身の危険はないのか。
朝の時点で、警察官ともそんな物々しい意見交換をしていたのだ。
その日の夜23時頃、我が家のインターホンが予告なく鳴った。
画面に映っていたのは、例の706号室の住人だった。
画面越しに用件を尋ねると、男は怯えた声で絞り出すように言った。
「……お経を、読んでいませんか?」
私は意を決してドアを開け、玄関外の廊下へ出て小声で対面した。
1週間前の突撃訪問や、度重なる警察への通報を問い詰めると、男はすべて自分だと認めた上で「705号室から壁をドンドン叩かれたからだ」と主張する。
私は「あなたが指摘している騒音は、我が家では一切していません」ときっぱり告げた。
テレビの音だって、本体からは鳴らさず、耳元に置いた高齢者向けの外部スピーカーで小音で聴くなど、集合住宅なりの徹底した対策をしているのだと説明した。
私の生活感ある説明に、706号室の男は「ああ、よかった……」と心底安堵したように表情を緩めた。
今までのギスギスした空気が嘘のように、彼は始終笑みを浮かべ、こちらの話をすべて肯定的に受け入れ始めた。
「私の勘違いだったようです。申し訳ありません。今後は705号室の言葉を信じます」
そう言って男が自室に戻ろうとした、その時だった。
「――あ、また聞こえる」
男がピタリと足を止め、我が家と彼の部屋の間の壁を指差した。
耳をすます。ブツブツブツブツ……と、確かに低く響くような、お経を読む声が聞こえてくる。
「ほら、聞こえるでしょう!?」
「静かに。……これ、うちの部屋からじゃないぞ」
二人の視線が、自然とある一点に注がれた。
よく考えたら、我が家(705)の玄関と、隣(706)の玄関の間は、なぜか不自然なほど距離が離れている。
その間にあるのは、古びた共用部の「消火栓設備」の鉄扉だけだ。
「ここから聞こえる」
確信した。
二人はいつの間にかトラブルの当事者同士であることを忘れ、協力して怪異の正体を探り始めていた。
消火栓の鉄扉をよく見ると、図面にはないはずの、ごく薄い、精巧なドアの隙間がある。
そこは消火栓などではなく、まるで「705.5号室」とでも呼ぶべき、隠された部屋の入り口だった。
二人は意を決して、その扉に手をかけた。
鍵はかかっていない。ゆっくりと扉を開ける。
内部は薄暗く、どこか別の空間に繋がっているかのように奥行きがあった。
「すいません……」
私が声をかけると、それまで響いていたお経の声が、ピタリと止んだ。
静寂の中、廊下の奥の暗がりから、ヒタ、ヒタ、ヒタ……と、何かがこちらに向かって歩いてくる足音が聞こえた。
二人の身体が緊張で強張る。
やがて、共用廊下の明かりに照らされたその「顔」を見て、私と706号室の男は絶句した。
そこにいたのは、一匹の猫だった。
二足歩行で気だるげに歩いてきたその猫は、人間の言葉で、面倒くさそうにこう言い放った。
「なにしてんだ、おめえら。おいらの家に勝手にへえるなよ」
「なっ、猫が喋ってる……!?」
706号室の男がひっくり返りそうな声をあげる。
「猫が喋って何が悪いだ? いいからほら、けえったけえった」
猫は前足でしっしっと手を振ると、驚きで固まる私たちを部屋の外へと押し出し、パタンと勢いよく扉を閉めてしまった。
薄暗い廊下に放り出された二人は、しばらく呆然と顔を見合わせた。
あれは一体なんだったのか。現実の出来事とは到底思えない。
「け、警察を呼ぼうか……」と706号室の男がガタガタ震えながら言う。
「いや、その前にもう1回確認しよう」
息を呑み、私たちは再びその扉へと手を伸ばした。
しかし――そこには、ただの赤く塗られた「消火栓設備」の鉄扉があるだけだった。
いくら引っ張ってもビクともしない、ただの建物の壁だ。705.5号室の入り口も、あの生意気な口調の猫も、どこにもいなくなっていた。
あれはいったい、なんだったのだろう。
それ以来、隣の男を悩ませていた不気味なお経の声も、壁をドンドンと叩く不快な音も、一切聞こえなくなった。
我が家が毎晩点けている北側の常夜灯の明かりが、あの不思議な住人にとって眩しすぎて、文句(お経)を言ったり壁を叩いたりしていたのだろうか。
今となっては確かめる術もない。
ただ、時々、その消火栓の前の廊下に、白黒の猫の毛のようなものが、ふわりと散らばっているだけだった。




