94 ーまだー
彼がこの国を穏やかに統治できれば、それでいい。
そのために、今は生きて戦いを終えてほしい。それを確かめたいだけなのだ。
これは我がままな願いだろうか。
帰るのだから、お前には関係ないと言われればおしまいだ。
それでも、彼の無事を知りたい。
それを望むことすら赦されないだろうか。
ウンリュウは黙って馬を走らせた。
息も途切れ途切れの、馬の苦しそうな呼吸が聞こえて、それがうつりそうになる。
走り行く先は戦いの最中だった。刀を握るウンリュウが兵士たちを避けるように進んだが、細い道に差し掛かると武器を持った男たちにそれを遮られる。すれ違いざま掠る金属の音と、馬の地面を蹴る音が耳に響いた。
ウンリュウの腰に、落とされないようにしがみつきながら、近くに見え始めた建物を見上げた。
見やった建物の内でも、戦いが起きている。
そこは知っている場所だった。舞台へ上がる前の大きな一部屋に近い、朱の柱の立つ、待機するための長い廊下のような一室。窓の中でで敵味方が一堂に対している。
「ちっ」
ウンリュウの舌打ちが金属音と重なった。矢を射る男に向かうと、そのまま刀を振り抜いてく。
弾けるように溢れた血が、まるで振ったシャンパンの蓋を飛ばしたあとのようだった。祝いのボトルを開けたF1レーサーみたいだと、後で思った。
蹄が石畳の地面を蹴りつける音と、周りの騒音に混じって、ウンリュウの叫びが耳に入った。馬の背に乗りながら、ウンリュウは器用に馬を操り刀で敵を倒して行く。すれ違いざま倒れて行く男の顔を見る余裕はない。ただ背中にしがみついて、振り落とされないようにするだけだ。
大広場では敵味方が入り乱れて戦い、馬では動きづらかった。だからか、ウンリュウは庭へと入り馬を走らせた。
「人が多すぎる。リオン、振り落とされるなよ!」
その言葉に頷こうとした時に、何かが目端にかすって、理音は手を緩めた。
「リオン!?」
力を入れていた太ももからするりと馬の背が抜けて空に触れると、後ろから草むらに転げ落ちた。走り抜けたウンリュウが急いで手綱を引いて戻ろうとしたが、脇から槍が伸びて来てそれに遮られた。
「リオン!」
ウンリュウへ敵が攻撃を仕掛けてくる。叫びながらそれを遮り、馬を引きながら近づこうとしても敵が現れて、ウンリュウはそちらの相手をせざる得なかった。
転げた理音は、草むらでごろりと寝転びながら空を見て動かない。
転げ落ちて背中とお尻を打ち付けたのに、理音はそれが痛みに感じなかった。
それよりも、ずっと衝撃的な物が目に入ったのだ。
「やだ…」
夕暮れも終わり、闇が空を埋め尽くす。大小の月がうっすらと姿を現している最中に、雫がすらりと流れた。
「待って、まだ」
流れる雫が一粒、二粒。
それが増えていけば、そちらに走り出していた。
星が流れる。
まだ、あれから二ヶ月も経っていないのに。
流星だ。
「待って、まだ会ってない。まだ、帰れない」
星の流れる方向に走っても、それを止められる訳ではない。
けれど、理音は吸い寄せられるようにそちらへ走った。
流れていく星が増えるのを目にしながら、追うように手を伸ばす。
「待って。まだ、帰れないから。帰りたくない!」
ここで帰ったら、また後悔する。
帰って、フォーエンの無事もわからず、そのままになるのは嫌だった。
戻りたくないのだ。
何もわからないのに、わからないまま戻りたくない。
「お願い。まだ、待って。帰らないから。私は、帰らないから!」
光が沈む、流れる涙にそれがぼやけた。
その時だった。茂みの中から雫を垂らして近づいてくるものがいた。
地面に一つ、二つ。ぽつりと濡らす。
垂れていく雫の切っ先は銀に朱色が混ざって、まるでペンからインクが流れ出ているように見えた。
男がそれを振り上げる。それと同じ軌跡で戻ってくるのを、目の前でただ眺めた。
振り抜かれる刀が、同じ銀の煌めきに弾かれて男がふらつく。それに追い打ちをかけるように鋭く斬りつけると、男は声も上げずに仰け反って、地面に倒れこんだ。
何が起きたのか、よくわからない。
自分の背から何かが現れたと思ったら、それが目の前の男を倒してしまった。
「リオン!無事か!」
後ろからウンリュウの声がしてそちらに振り向けば、なぜかウンリュウは騎乗をやめて焦ったように地面に片膝をついた。
「皇帝陛下!」
その言葉を、一瞬理解することができなかった。
振り向こうとしたら自分の前を横切って、ウンリュウの前に出たからだ。
背中ばかりを目で追って、ウンリュウが顔すら下げているのを見た。
「外の状況はどうなっている」
「滞りなく鎮圧を進めております。既にセイアン区、トウニ区、及びアセ区は鎮圧済み。アンテイ門より参りましたが、門は我が軍によって陥落は差し止め、宮中においてはコウドウに侵入者がおり、それを抑えつつあります」
ウンリュウが頭を下げたまま、緊張した声音で報告した。
馬で走って敵を倒してきたのに、どこがどう問題ないのか見定めていたのだろうか。
しかし、はっきりした口調の割に、どこかびくついている感が否めない。
「自分の持ち場に戻れ。これは、このままでいい」
「はっ。失礼いたします」
言われて頭を下げたまま立ち上がると、数歩後ろに下がって逃げるように馬を引いて立ち去った。
実際逃げたのだと思う。彼はここに入る命令は受けていない。王宮の外で戦うように命じられていたのだろう。それなのに理音についてこちらまで来てしまったのだ。
おそらくそれは命令違反で、彼にとって失態なのだろう。
一目散に逃げていく後ろ姿は、馬を引きながら、馬の背に乗っていたように早かった。
それをぼんやり眺めていたら、今度は別の男が走ってくると、ウンリュウと同じように片膝をついて頭を下げた。
「セイドウ、ナンカドウ、鎮圧致ししました。近衛将曹、以下全て捕らえてございます」
「内大臣は?」
「ホクドウにて追い詰めてございます。左程時間はかからぬかと」
その報告を聞いている間に、また別の男が走り寄ってくる。再び報告か、どことどこを終えて鎮圧していると伝える。
王宮に見えた火も消えつつあるようだった。先ほど広がっていた煙が少なくなってきている。風も止んだか、きな臭さが届かなくなってきた。
空を見上げると、煙が闇に滲んでもう見えない。そうして気づいた。
「星、なくなっちゃった…」
流星が終わっている。先ほどはシャワーのように流れていたのに。
流星だったと思ったが、そこまで大きなものではなかったのだろうか。
空は静かで、闇が覆い被さっている。夜が更けつつあった。
あの流星で戻ることはなかった。戻りたくないと祈ったけれど、あちらへ返してくれる流星ではなかったのかもしれない。
安堵しつつも、けれど、それでよかったのかと、心の片隅に言葉が浮かんだ。
帰れなかった。
それはよかったのだろうかと。




