51 ー新世界ー
「この女、退かぬと牢に入れるぞ!」
男の堪忍袋の尾が切れそうだ。
顔を真っ赤にしてがなると、理音に持っていた槍を突き刺そうと脅してきた。
それに恐怖するよりも、理音の中で整理しきれないことが辺りにある。
ゆっくりと立ち上がって、腕に引っかかっていたカバンを見やった。学校で使っている指定のカバンだ。
中にはきっと、今日出た宿題のプリントと教科書、部活で使うパソコンなどが入っている。
「さっさと出ろ!」
追い立てられるように、理音はその棚から出た。
前に見た、ウーゴの木。
ここでは木の周りに柵があり、枝を抑えるための棚が作られていた。
随分と老木なのかもしれない。落ちそうな枝を抑えて、かろうじて地面につかないようにしてある。
男はぼんやりと周りを眺める理音を不審そうに見て、この木から離れろと槍を構えたままだ。
おかしなことが起きたとして、まず最初に冷静に思ったのが、
「おじさん、私の言ってることわかる?」
である。
男は当然のように顔を歪めて問い返してきた。何を言っているのかと。
男は理音の言葉を理解していた。理音もまた、男の言う言葉を理解していた。
混乱すると、何を考えていいかもわからなくなる。
ここはあそこで、けれど言葉がわかって、そしてどうしてこうなったのか、どこから何を考えればいいのか、それを整理して理解する前に、理音の心臓はどんどん早く打ち、めまいがするほど頭の中が真っ白になった。
「おい、女!そのような格好でうろつくとは、はしたない!着物すら売ったのか。寝るところがないからと言って、ウーゴの木の下で眠るとはけしからんぞ!」
「ああ、ああ。そうですね。スカート、ああ、そっか」
納得はいかない。けれど、この格好がこちらでは許されないことは知っている。
理音を見る町行く人の顔はキワモノ扱いだ。一体何のパフォーマンスなのか、訝しげに見てすぎていく。
ここは多分、町であろう。小さい町だ。
前に、女郎として売られた、あの町に雰囲気が似ている。
人の多さや家の多さ、それから遠くに塀が見える。町の塀だ。それがぐるりと囲んで、町を作っていた。
塀が見えるだけあって、前の町より建物が低い。ここは二階建てがあまりないようだった。
前の町では塀など見えず、町の外に出るにも苦労したのだが、ここでは町がどこまでなのか一目瞭然だった。
なぜ再びここにきたのか、問うても答えはないのだが、ただどうして今回は、フォーエンのいる城ではないという現状である。
「あんだけ勉強したのに、喋れてるし、勉強した意味ないし」
人間混乱すると、どうでもいいことが頭に浮かぶ。
顔を伏せって、そのままかきむしりたくなってきた。
ここはあそこである。
そして、なぜここに来たかと言うと、またあの流星を見たからである。
小河原と一緒に歩いて帰って、別れたすぐ後、ビルの隙間から何かが通ったのに気づいた。
夕方の、夜になるかならないかの日暮れ時だ。
それは一瞬にして流れた。
見上げた空に、溢れるほどの星が落ちてくる。
それが何なのか気づいて、まずいと思った。
カバンを抱きしめて、踵を返そうとした。後ろにはきっとまだ、小河原がいるであろうから。
けれど、間に合わなかった。声を上げて後ろ姿の小河原を呼ぼうとして、あのめまいに襲われたのだ。
要くん!
それが自分の声だったのか、心の中の声だったのかはわからない。
声に出していて小河原が振り向いても、きっとそこに自分はいなかったであろう。
その、今である。
落ち着いて考えて、理音は空を仰いだ。
時間の経過がわからない。
この世界の約二ヶ月ちょっとが、自分の世界で約三時間だった事実だ。
あの旅行から帰ってきて、一体何時間が経っているのか、ひとえに計算ができない。
簡単に考えて、向こうの一日が、こちらでは十六ヶ月はすぎていることになる。
だとしたら、ここは何年後の世界であると言うのだろう。
ただでさえ絶望であるのに、それを考えるだけで銷魂した。
ここは、フォーエンのいる世界でありながら、彼がもう既に存在していない未来なのである。
「何だそれ…」
呟くと、唇に塩気を感じた。
溢れる涙が、頬を濡らす。
ここには、フォーエンはいない。
戻ってこられたのに、彼に会うことはできないのだ。
話途中で別れて会えなくなったかと思えば、今度は彼が死んだ後の世界である。
それがわかれば、涙を流すことしかできなかった。




