35 ーイベントー
フォーエンは静かに謝罪の言葉を唇に乗せた。
誘拐されたことを謝るのか。
何だか新鮮な言葉だ。フォーエンから謝りの言葉を聞くなど。
まあ確かに、ザルな警備なわけだが。
ただ前の暗殺者の時は、そんな深々と謝ったりはしなかった。
それに疑問を持った。
前は暗殺者で、今回は誘拐犯である。その差はないだろう。であれば、今回も謝る案件ではない。
そうは思うのだが、フォーエンの謝りがとても深く、まるで心当たりがあるかのような雰囲気だった。その時にはわからなかったのだが。
「無事、戻って来れたからなー」
むしろよく戻ってきたと自分でも思うが、それで別にいいと思ってしまっている。
狙われる理由はわからないが、フォーエンが謝ることだと思っていない。だから、そのことも深く考えることはしなかった。
タブレットに描かれた絵を小突いて、次はどうしたのか、フォーエンが問うてきた。次のページを指差して、描けと言う。
「んとね、その後は、馬車の中でー」
手足を縛られて動けなかった。気づいたのが朝方。
まあ簡単な絵である。
絵を描いている途中から、フォーエンは目を眇めていた。
不機嫌に、どこか怒りをにじませて、ただ無言で理音の言葉を聞く。
「時計の上から紐だったから、時計の取って紐も取ったの」
つけていた時計と髪紐を使って、どうやって取ったかを説明する。するとフォーエンが何かに気づいたか、理音の腕を取った。
「ん?何?」
理音の手の平を見せて、これは何だ?と問うてくる。何が何なのだろう。
「ああ、傷?」
両手にあった、治りかけの擦り傷に気づいたらしい。理音はそれの説明は絵で描いた。
馬車から飛び降りて、顔と手と足を擦った絵である。
その絵を見て、フォーエンがため息と共に頭を抑えた。
頭痛がするのかと思ったのだが、そうではないらしい。
やりきれないと苦味を見せて、手の傷をさするように撫でるふりをした。
「え、でも、治ってきたよ?ほら、ここもさー」
言って顎を見せる。信じられないという顔をするので、治ってきたんだって!と伝わってないのに強く言う。
「ほら、こっちだってさー」
さっきがっつり怒られたことも忘れて、理音は着物の裾をめくった。生足が露わになって、フォーエンが勢いよく立ち上がった。
「いや、そうじゃなくて、ここだよ。ほら、結構治ってるでしょ?」
ただ傷を見せたいだけだ。
しかも、治ってきている傷である。
擦り切れて赤いままだが、これでも治っている。
拳大の痣もくっきりと残っていたが、端の方は黄色くなってきているので、治ってはいるのだ。
「もうそんな痛くないし、治ってきてるよ。だから大丈夫」
フォーエンは大丈夫と言う言葉を知っている。
だが、立ったままで、唇を噛み締めたのがわかった。だからすぐに傷を隠した。
「あ、それでね、えっと」
遊郭に売られたことは避けて、理音は男に出会って馬に乗せてもらったことを描いた。
そうして、助けてもらった男に中に入れるよう手伝ってもらい、戻って来れたのだと簡単に説明した。
これ以上、フォーエンが気落ちするようなことを教えたくなかった。
彼は憂いてくれたのだ。自分が傷ついたことを。
それが心から嬉しかった。
戻ってきてよかったのだと思わせてくれた。
「あ、あとあとー。セキュリティやばいよ。がばがばだよ。何とかした方がいいよ」
男と二人で、中に楽には入れたことを描く。万歳してうきうきした絵だ。
ここまで楽に入っているわけではないが、危機管理がなさすぎることは教えておいた方がいいだろう。
「普段から、あんななのかなー。フォーエンいるのにまずくない?」
警備保障がなってない。を表現できたかどうか。
それについては本人もよくわかっていると深く頷いた。
理音誘拐後ですら、がばがばである。問題なんてものではない。
「フォーエンが気をつけなきゃだよ。エーゲーでしょ。何かあったら大変」
通じていないであろうが、気をつけて、に念を押す。するとフォーエンはそろりと理音の顎を撫でた。傷のある場所だ。
「も、平気。ここはそんな痛くないし」
手の平も見直して、まぶたを微かに下ろした。
「こっちも平気だって」
笑って言う理音の腕を引くと、突然フォーエンはその手に静かに口付けたのだ。
「…な、にしてんの」
驚きすぎて硬直した。
なぜか傷口にいきなりキスである。
「え、ちょ、何それ、おまじない?」
動揺しすぎて、椅子から転げそうになる。
それを腕を引いて助けると、フォーエンは見つめ直して呪文を唱える。
目を離せない。と言うより逃げられなかった。
腕を掴まれたまま見つめられて、体が動かなかった。
フォーエンは静かに話しかけて、リオン、と名を優しく呼んだ。
「はい!」
大声の返事は緊張のせいだ。美形をまじまじ目の前で見つめてしまったせいで、体が固まったせいで、大声を出してしまった。
フォーエンは一瞬止まって吹き出し笑ったが、顔を上げて真顔になると、額に優しく口付けた。
それから、穏やかに何かを唱えて静かに笑うと、そのままゆっくりと部屋を出ていったのだ。
「な、何事!?」
しばらく放心していたかもしれない。
フォーエンが部屋を出て、お茶もおやつも片付けられて、その後発した言葉である。
「え、意味わかんない。何、どう言うこと!?」
手にキスとか、額にキスとか。こっちって標準なの?普通にやるの!?
頭が困惑の渦だ。
こちらの通例として、ああ言うことはレギュラーなのか、そうでないのか。誰か教えてほしい。
レギュラーだとして、同じ人として、否、女としても美人すぎる美貌の男に口付けられたら、それは驚き越して止まるだろうが。
心臓が、止まるだろうが!
ついでに言えば、手慣れたようにやってくれたが、こちとらはそのような真似をされるのは未体験であり、初体験である。
いたずらに人の心をかき混ぜる真似は、やめていただきたい。
恐ろしくも、美形の迫力を思い知った。
威力がある。
理音の日記には、あとでそう書かれた。
「リオン」
「はい!」
呼ばれると、つい背筋を伸ばしていい返事をしてしまうのは、なぜなのか。
フォーエンに呼ばれて、理音は伸ばされた手に、どう対処しようか本気で迷った。
前にもこんなことがあったが、前よりもフォーエンの表情は柔らかく、どこか優しげで、そのせいかその手に応えるべきかわからなかった。
けれど彼は何ともなしに、理音の手を引いた。
「シーニン、ドゥコンセーティオイヴォーク」
まあ呪文だが、シーニンの意味はわかった。これから、である。それと、イヴォークは始まる、だった。
これから何かが始まるらしい。
「コンセーティオ?って何?」
「コンセーティオ、…」
その後は長かった。わからないので、見ればわかると言われた。
今日はおめかしの日である。
朝ご飯を食べたあと、ツワとその他の女性たちが、着物やアクセサリーをずらりと並べ、部屋で待機していた。
後ずさる理音の背をがっしりと掴んだツワは、理音の着ていた制服を脱げと要求してきた。正確には、脱がそうとしてきた。
こういう、有無を言わさないツワがいる場合は必ずイベントごとで、頭に多くの飾りがつけられ、華美でそれはもう高そうな刺繍のある着物を着せられて、慣れない化粧を施されるわけである。
もう、無言で言うことを聞くしかない。
ツワは人を飾るのが趣味らしく、メイクや髪をいじる時は、それは楽しそうに盛ってくれる。
やられる本人は疲れるので、早く終わりにしてほしいのだが。
イベントで大勢の前に出るには色々やらなければならないと、何時間もかけて、丹念に用意がなされるのだ。いや、もう首痛い。
そうして連れられた場所が、フォーエンの待つ一部屋だった。
先に来ていたフォーエンは、理音の姿を見回して一度頷いた。その頷きが何なのか、そろそろ問いただしたい。
まあいいだろう、くらいの頷きに思えたのだが、気のせいだろうか。
そのフォーエンと言うと、今日は男っぽい出で立ちだった。そして色は白を基調にしたものである。
何と、真っ白に金の飾りが施された、どこの妖精の王様な格好である。
それがまた似合うのが腹立たしい。
女っぽい服も似合うくせに、男っぽいのも似合うとは、どう言うことだろうか。美人って得だな。
そのくせやけに色っぽいのだ。どう言うことか説明していただきたい。前髪が七三分けのくせに、色っぽく見えるのは、どう言うことなのか。
女より色っぽい男とかどんなだ。
だからなおさら、おしゃれしてイベントなんて参加したくないのに。
フォーエンは、理音の心知らずと手を引いた。
扉の先はやはり広場だったが、前とは場所が違う。長い階段の下に大きな広場があり、その周りを円形状にして、観客席のように人が並んでいた。
大舞台なのは前の宴と同じ。設置された席は二席で、そこに無論、フォーエンと理音が座るわけだ。
気が滅入る。
大舞台から人々が見えるように席に着くと、座る前にフォーエンは右手をさっと上げる。
途端、地響き声である。
圧巻だ。
当たり前のようにその声を聞き、大したことがないのだと、フォーエンは席へ着く。
「リオン?」
座れ、と言われているのはわかるのだが、そこに座るのは気が引けた。
何せ、下にはウーランがいるのだ。自分の目線に入って、つい目をそらしてしまった。
よりによって、理音の左手すぐ下に座している。
横向きに座っているため、さぞかしガンつけやすかろう。視線が痛い。
よくよく見れば、女たちはみな理音を睨みつけていた。女の嫉妬ほど怖いものはない。
「リオン、レーヴァ」
レーヴァは座れだ。はい、わかってます。
渋々隣に座ることにする。
これが針のむしろと言うものである。右からも左からも、突き刺す視線が集まってくる。
最初は気にもしなかったが、気づくと大変な目力だった。
目からビームである。
フォーエンの花嫁だか、花嫁候補だかが大量にいて、その女官たちからもビームが飛んできていた。
「きっついなー」
居心地が悪いどころではない。
理音の呟きは、すぐにフォーエンの耳に入る。
何と言ったのかすぐに確認しようとするのは心から見習いたいが、説明の難しい話だ。
「だからね、ここにいると女の子たちの視線が痛いなって。目がね、目、オウル、痛いの、ヌラ」
直訳すれば、目痛いである。通じるわけがない。
お前の目が痛いのか?と問うてくる。
いや、違うって。あんたのハーレムからの視線が痛いんだわ。
「女の子ね、エウラスタ、オウル」
女の目。で通じるだろう。
フォーエンは鼻で笑ってくれた。気にするなの意だ。
「いや、気にするって」
何分にも多すぎる。何十人どころか、百人以上は軽くいるだろう。数えたくない。
「ドゥコンセーティオイヴォーク」
コンセーティオが始まるらしい。フォーエンは気にするなと舞台下へ目をやった。
動物に乗った鎧を被った男たちが現れると、槍を持って相手と面し、その槍を面した相手とクロスさせている。
これから、戦いが始まるような、剣道の手合わせの始まりの合図のようだった。
「ああ、コロセウム的な」
槍の先は丸いものでできているので、そこまで危険性はなさそうだが、乗っている動物が牛に似ている。
耳の横にツノがある動物で、どちらかと言うと、あの動物で刺される可能性がありそうだった。
男たちは二手に分かれ一列に整列する。これから騎馬戦でも始まるようだった。
ドラのような鐘の音がすると、一気に動物を走らせた。
お互いにスピードを伴わせて走り寄り、相手を槍で突き、避けては突き刺す。その間牛自体も興奮するようにツノを突き立ててくる。
「うわ、あぶなっ。え、あれ怪我するよね?」
槍に突かれて転がった男は、今度は牛に突かれそうになり、慌てて逃げて、柵の中へ走るのだ。
「闘牛じゃん…」
「トーギュージャン?」
フォーエンのおうむ返しが来た。
「そー、闘牛。危ない競技だね」
「トーギュー?」
「うん、闘牛。んとね、こーゆー感じ」
人が牛をひらりと交わす、そんな絵を描いてみる。
何だか段々絵が上手くなりそうだ。
「悪くすると怪我しちゃうの。怪我」
「ケガ?」
「怪我」
これは描く必要もない。自分の手の平をかざす。
「痛い、ヌラ」
「オーレン」
「オーレン?怪我?」
「ケガ、オーレン」
会話の中に少しずつ学びが入ってくる。理音はメモるが、フォーエンは頭の中の記憶に記す。
脳みその違いである。
凡人である理音には真似できない。
フォーエンの記憶力は相当なものだ。




