25 ー誘拐ー
気づいた時、それは荷馬車の中だった。
後頭部には、じくじくする痛みがある。
寝転んで揺られていたせいで、顔もやけに痛んだ。きっと、顔に板の跡がついていることだろう。
それから、結ばれた腕が痛かった。背中で繋がれた両腕はしびれている。
足元を見れば、細い縄で結ばれているのが見えた。これなら後ろ手もそうなっているだろう。
口には猿ぐつわか、言葉が発せないようになっており、息がしづらかった。
内容をまとめよう。
誘拐だわこれ。
冷静に考えないでもわかる。
頭殴られて痛いし、腕は痛いし、顔もきついし、とにかく全身痛い。
冷静に考えて、とりあえずその目で周りを見た。
人の気配は感じない。荷物の隙間に押し込められているようで、目の前には樽であったり、木の箱であったりが積まれていた。
頭を動かして、人がいないかしっかりと確認する。
やはり人はいない。
荷物と一緒に積めているから、監視する必要もないと言うところだろうか。
理音は音をたてないように、せめて座ろうと考えた。顔も痛いが、腕の痺れがひどい。そして口に咥えた布が、よだれで気持ち悪いことこの上ない。
顎を使いバランスを整えると、みの虫のごとくお尻を上げて体重をかけ、揺れ動く車内でも何とか座ることに成功する。
次は口である。
がっつり結ばれているようで、動く気配がない。肩でずらして取ろうとするが全く動かないので、一度諦めた。
次に、後ろ手を取ることにした。
どうやら十時になった手首を結んでいるようで、これもまたびくともしない。けれど腕時計の感触を感じた。腕時計はつけたままで手が縛られている。取り方がわからなかったのだろうか。
まあ、それはさておき、とにかく縄を緩めようと、ねじり引っ張りを繰り返した。
口に猿ぐつわがあるせいで、息が上がる。その上馬車が揺れているので、気分も悪くなってくる。とどめの後頭部は痛みすぎた。
ああ、やばい。気持ち悪い。
猿ぐつわかまされたままで吐けるのか、いや吐けない。そのまま飲み込むことになる。
それはお断りする。
やはり、口から行くことにした。腕よりも口の方が気持ち悪いのだ。
なので人もいないし、どんな顔になろうと構うまい。
舌で押し出し、肩でずらし、壁に擦り、箱の角で引っ掛け、何とか猿ぐつわは解いた。
それでやっと、随分一息がつけた。
大きく息を吐いて、そのまま立ち上がる。立ち上がろうとしたが、バランスが悪く、ごろりと転がりそうになってしまう。
ここで物音を立てて気づかれたくない。
慎重にして、顎で体重をかけながら、足に力を入れて、ぷるぷるしながら立ち上がった。
手の腕の縄を解かねばと、同じように、箱の角に後ろ手を引っ掛けて、何とか緩めようと試みた。
しかし、やはりびくともしない。
指が縄に微かに届くので爪で引っ掻き、そして気づいた。縄が時計よりも外側、つまり肘側に結ばれているのだ。
これは、時計を取れば手首が緩まるのではないだろうか。なので、すぐに時計を取る。ゆっくりとそれを地面に下ろし、…何せ、女子にしては重い時計をつけているのである。
バイト一ヶ月分をつぎ込んだお高い時計で、重厚さがあった。
これを地面に落とせば壊れる、そして大きな物音を立てることになる。なので、ゆっくりと下ろしてやった。
それから縄をずらし、少しの隙間を与えると、肌が擦れたが痛む中手首を抜くことができた。擦れた手首は血がついているが、気にしてはいられない。
足元の縄も取りにかかると、爪が剥がれそうな思いで、何とか外した。
息をついている暇はない。
馬車はまだ走っていて、自分が動けることを気づかれてはいなかった。
後方は布がかぶせてあり、その奥から脱出できるのはわかっていた。
扉のない荷台の垂れ幕をそっとめくると、見えるその先は一本道で、辺りは森が続いている。
人気のない、森の一本道。
そこをこの荷馬車一台が、スピードを上げて走っている。
走り去った後は砂煙が少々。それを嫌がる人間も、動物もなにもいない。
陽の光が暖かい。なのに人がいない。一体どこを走り続けているのだろう。
風で垂れ幕が大きく揺れて、理音ははしゃぎまくる髪の毛を耳にかけた。
飛び降りて無事であるわけがないが、いつまでもここにいても危険だ。
馬車の後部から顔を出して、運転手が見えるか確認すると、人は見えなかった。多分二人は乗っているだろうが、馬車の大きさがあるせいで、前に人がいるかは確認できない。
だとすれば、まっすぐ飛び降りれば、馬車が邪魔して見えないはずだった。
行先はしばらく直進の道。
覚悟を決めるしかなかった。
足元は紐靴で、こちらの靴ではない。丈夫さはあるはずだ。
スピードはある。馬車ならば何キロ出るのか。だが車で乗っている体感の早さと、今この場で感じる早さは全く違う。
しかも、今着ている服は着物である。転べば傷だらけになるのは目に見えていた。
だが、それでも迷っている暇はない。これでどこかに止まってしまえば、逃げる隙を逃してしまうかもしれないのだ。
理音は意を決した。せめてまっすぐ飛べるように、垂れ幕をどかす。
走り幅跳びの要領だ。まっすぐ飛んで、尻餅をつけばいい。そんな簡単にいくわけがないが、気持ちの問題だった。
ハリウッド映画みたいに、横っ飛びでごろごろするのが妥当なのか。あれ絶対痛いよね。なので、まっすぐに走ることを決めた。
飛び出した矢先、着地の瞬間、足がつんのめった。次の足を出そうなどと、おこがましい考えだった。
勢いに耐えきれず、滑り込むように前のめりになると、膝どころか手も顎も擦り切って、更に滑り込んで鼻すら打ちそうになった。
大仰な音が荷馬車が通り過ぎた音だったのか、自分が滑り転んだ音なのか。
痛いどころではない。痛くないわけがなかった。
特に顎だ。あと少しで顔面も滑り込むところで何とか顎で終えたが、擦りむいたなんてものではなかった。血が滴った。
手の平は言うまでもなく、膝は血塗れで、どうやってぶつけたか、膝下にも擦り傷ができている。多分、痣もできるだろう。かなり打ち付けた。
痛みを我慢しながら後方を見ると、既に馬車は遠ざかっている。
とにかく森で姿を隠そうと、茂みの中に入った。
足の痛みはかなりひどい。膝に入り込んだ小石や砂を、帯で撫でて落とす。しかし血がひどかった。綺麗な水でもあればそれで流すが、ここに水などないし、こちらの水をかけて逆に菌でも入ったら困る。血を出すだけ出して砂利を取った方が良かろうと、それは放置した。
そして気になる後頭部は、触れると何と血が固まっている。どこぞの誰かが道具を使って殴ってくれたらしい。それで死ななかったのが幸いだが、触れれば痛んで、血の塊がポロポロと落ちてきた。
「勘弁してよ…」
殺されなかっただけ、マシと言えるのだろうか。
問題を提議するならば、まず第一に、ここはどこ。である。
第二に、言葉が通じない。助けを呼ぶとしても、呼べるかどうかである。
第三に、人が全くいない。
そう。人が、人っ子一人いなかった。
森に囲まれた道は、道以外何もなく、人の影も形も一切見られなかった。
「とりあえずは、道を戻るしかないか」
時計を見ると、時間は朝の五時過ぎを記していた。
「えーと、あの時、九時前くらいだったから」
ゆうに、八時間は眠っていたわけだ。
「あー、八時間で馬車ぶっ飛ばして走らせて、どこまで行くんだろ…」
王都から一日かけて、エシカルまで来た。
のんびり行幸。その上、途中いくつかの休憩を挟んだので、その距離は軽く過ぎたかもしれない。
人を殴って運んで、町を出て馬車を走らせたならば、もう少し短いだろうか。
しかし、かなりのスピードを出して荷馬車は走っていた。それならば、もっと遠くへ来てしまったかもしれない。
「まあ、歩いて戻れる距離だろうけれど」
気楽に言うが、問題は山ほどある。
とりあえずは、どこへ向かえばいいかと言うことだ。ただ、まっすぐな道ならそれでいい。けれど分岐があれば?
「ああ、最悪だわ」
自分は冷静だ。冷静である。けれど、それで答えが出るわけではない。
「最悪だわ」
もう一度呟いて、理音は戻るべく血だらけの足を前に進めた。




