後編
「ラーナはもっと欲張ってもいいと思うよ」
眠気を誘う心地よさに目を閉じかけていたスヴェトラーナは、つと顔をあげる。ぼんやりした頭に浮かんだ望みを、素直にそのまま口にした。
「それなら・・・・・・キスして。ギデオン」
「いいよ」
「え?」
「え?」
間髪を容れず返ってきた答えに思わず声を漏らすと、答えたはずのギデオンもまた驚いたような声を出した。どうしたのかと目を開ければ、どこかを睨んでいたギデオンが、慌てたようにスヴェトラーナへ視線を落とす。
「い、いいよ。ラーナがそう望むのなら」
ギデオンはスヴェトラーナに甘い。
それは、危険を伴う事でさえも始めは止めてくるが、それでも食い下がれば入念な下準備の後ならばと許してくれるくらいだ。
まあ、今回の望みは命に関わるような危険ではないし、ギデオン自身の感情などそっちのけで叶えようというのだろう。
スヴェトラーナは得体のしれない後宮の主たちよりも、旧知のギデオンに初めてのキスをと願った。しかしさすがに気が乗らないキスをして欲しいとは思わない。
ふっと自嘲するような笑みを漏らして、スヴェトラーナは俯いた。
「無理にとは」
「無理じゃない!!」
言うが早いか、ギデオンがスヴェトラーナの額に唇を押し付ける。そしてすぐに離した。
驚いて顔を上げたスヴェトラーナの視線から逃れるように、ギデオンが顔を背ける。彼の耳が赤く染まっていることから、不快であったわけではなく、照れているのだとわかった。
その横顔に何故だかきゅんときて、スヴェトラーナはもっと大胆なお願いを口にした。
「ギデオン。できれば唇へお願いしたいのだが」
「はっ?!」
一瞬、ソファから浮いたのではないかというくらいに体をびくつかせたギデオンが、言いたいことがあるのに声がでないという様で口をぱくぱくさせながら、スヴェトラーナを見下ろす。
きっと普段の、皇帝としての振る舞いに重きを置いているスヴェトラーナならば、絶対に口にすることなどない言葉だからなのだろう。
どうやら紅茶に混ぜられたブランデーが、思ったよりよく回っているらしい。頭がぼんやりと霞みがかっている感じで、心がふわふわと浮ついて心地いい。少量でここまで酔うなんて、ここ数日、心労でよく眠れない日が続いているせいかもしれない。
「ギデオン」
強請るように名を呼び、目を閉じる。ギデオンの喉がひゅっと鳴った音が聞こえた。閉じた瞼に影を感じて、ギデオンが顔を寄せてきていることが分かる。
自分から強請ったくせに、今更ながら緊張してきた。うるさく騒ぐ心臓の音に紛れて聞こえる、ギデオンの息遣いがかなり近い。
「・・・っう」
互いの唇がそっと掠めるように触れ、すぐにまた重なる・・・なんてベラが朗読する本のように甘くはなく。
互いの歯をぶつけ合い、二人とも涙目で口元を押さえた。
「・・・」
「・・・」
暫くそうして見つめあっていたが、緊張からき放たれた反動か、笑いが込み上げてきてしまった。そして、どちらからともなく笑い始める。
くすくすと笑う二人の前へ、ベラが優しい香りのする紅茶を差し出した。
「お二人とも目を閉じるからですよ。そういう時は薄目で距離を確かめながらするものです」
スヴェトラーナは苦笑して、ギデオンは顔を真っ赤にしてベラを睨みながら紅茶を受け取る。
程よく冷めたそれをゆっくりと口にすれば、ぼんやりしていた頭が急にすっきりした。その横ではギデオンが紅茶を一気飲みしている。
「・・・何か盛ったな?」
「まさか!先程、紅茶をいれたのはギデオンです。きっとお疲れのせいで、気分が開放的になっただけですよ。きっと。」
スヴェトラーナは勝手に向かいのソファへ腰かけ、自分へも入れた紅茶を口にするベラをじっとねめつけた。しかしそんなスヴェトラーナの視線も何のその。ベラは涼しい顔で優雅に紅茶を飲んでいる。
この上なく怪しいが、ギデオンがお茶を入れたのも確かだ。ずっと目で追っていたのだし。そしてギデオンは薬を盛るといった謀はしない。と、いうかすぐ顔に出るのでやったとしてもすぐわかる。
ほうっとため息をついて、スヴェトラーナは事実を明らかにすることを諦めた。
「ベラ。残りの二人はどんななんだ?」
相変わらずベラを睨みながら、ギデオンが訊ねた。
ギデオンとベラは、ギデオンが護衛、執務の補助といった表の仕事を。ベラが身の回りの世話、諜報活動といった裏の仕事と、分担して行っている。
ベラはカップをソーサーへと静かに置いて、にっこりとほほ笑んだ。
「明日、伺う予定のメレル・レング・ピャーチ様は、少々変わった方ですが、わた・・・陛下に忠誠を誓っておりますから、害になることはしません」
「・・・どう変わっているのだ?」
これまでの流れからして、最も重要な所を聞き咎める。ベラは小さく首を傾げると、人差し指を顎へ当てた。
「ピャーチは去年、内乱をさせ・・・しまして」
「おい。何を言いかけた?」
言葉をかぶせたスヴェトラーナの問いに、ベラは微笑むだけで答えない。
ピャーチの内乱についてはスヴェトラーナももちろん知っている。ピャーチの前族長は領民へ重税を課し、飢えていく民を横目に豪遊するような、腐った男だった。
いつ民が蜂起してもおかしくない状況だったが、反乱軍へ手を貸すにしても、前族長を失脚させるにしても、次期皇帝という立場でしかなかったスヴェトラーナには力が足りなかった。
それがどこから資金を得たのか、反乱軍がついに前族長を打ち取り、先々代族長の庶子の孫という人物を新たな族長にすえたのだ。
ベラは言う気がないようだが、おそらく反乱軍に手を貸したのは彼女なのだろう。
どこで得た知識なのかわからないが、ベラはいくつか変わった事業を起こして軌道に乗せている。正直、なぜまだスヴェトラーナの侍女をしているのかわからないほど、稼いでいるはずだ。
さらに事業を起こしたことにより、必要になったらしく、ある程度の私兵も抱えている。つくづく味方でよかったと本当に心の奥底から思う。
侍女が有能過ぎて何とも言えない気持ちになっていると、ベラが続きを話し始めた。
「そんな訳でピャーチは、前族長一族が末端まで処刑されました。それにより後宮へ上げられるほどの身分を持つ男性が、現族長様とその弟君であるメレル様しかおりません。現族長様にはすでに奥方も御子もおみえですので、必然的にメレル様が後宮入りされました。つまり選択肢が他にないということですね。それを踏まえて、おおらかなお気持ちで対処してください」
「・・・で?どう変わっている人物なのだ?」
「それは、お会いになれば分かります」
にこにこと意味ありげに微笑むベラに、スヴェトラーナはげんなりする。こういう時のベラは懇願しようが、脅そうが教えてはくれない。
いや。「解雇する!」と脅せば教えてくれるが、嘘とは言えないようなぎりぎり事実のような事を言って、余計に混乱させてくるので、無理に聞かない方が身のためだ。
「もう一人は?」
メレルの情報を早々に諦めたスヴェトラーナは、もう一人について聞くことにした。すると今までにこにこしていたベラの笑顔が凍り付く。
「ダイジョウブ、ダヨ。ハハッ」
ベラは鼻にかけた妙な声で笑って、立ち上がった。
今までにないベラの反応に、ただ事ではないとスヴェトラーナとギデオンは焦る。
「ちょっと待て!」
「逃げるな、ベラ!」
素早くベラの逃げ道を塞いで、ギデオンは身構えた。
手数はベラの方が多いが、膂力はギデオンの方が上。不意打ちなしで丸腰ならば、ギデオンの方へ軍配が上がる。
そこまで考えたのか、元から本気で逃げる気などなかったのか、ベラがスヴェトラーナへ向かって跪き、真剣な顔で言った。
「腐れ眼鏡の事は私にお任せください。無駄に有能なせいで後宮入りを許してしまいましたが、明日までに何とかいたします」
「・・・穏便にな」
不穏な空気を感じ取ったスヴェトラーナが釘を刺す。きっとスヴェトラーナが想像した通りの事をするつもりだっただろうベラが、不満げに眉をひそめた。
「わかりました。視界へは入ってしまうでしょうが、決して陛下に触れさせないようにいたします」
「・・・そんなに危険なのか?」
「はい。精神的に。」
ということは、身体的な危険はないという事だ。まあ、そうならば後宮へ入った後であっても、ベラが何とかしていてしまっただろうし。
なんだか一気に疲れてきたスヴェトラーナは寝室へ向かう。その扉を開ける前に一旦振り返って、心配そうにこちらを見ているギデオンへ微笑んだ。
「おやすみ。ギデオン」
**********
ギデオンとベラを従えながら、スヴェトラーナは後宮へと渡る。やはり他の侍女の同行は断った。
目的の部屋まで来てベラがドアをノックすると、少々の間の後、ゆっくりと扉が開かれた。深呼吸をして気合を入れ、部屋の中へ入る。すると正面のソファの前で、1人の男が立って出迎えてくれた。
緑髪に瑠璃色の瞳の穏やかな、なんとなく母性を連想させる柔らかな雰囲気の男。華奢な顎の形が、なんとなくギデオンに似ている気がする。
男は穏やかな笑みを浮かべながらスヴェトラーナの近くまで来ると、足元へ跪いた。
「ピヤーチの族長が弟。メレル・レング・ピャーチでございます」
深々と頭を下げると、スヴェトラーナの爪先へ額を付ける最敬礼を行う。それを見下ろしながら、スヴェトラーナはこの後の手順を思い返した。
今日こそはちゃんとソファで歓談して雰囲気を作り、それから隣の寝室へ移ろう。そうしよう。
「メレル殿」
とりあえずソファへ移動しようと声を掛ければ、メレルが顔を上げる。しかしその綺麗な顔はみるみる歪み、ついに涙を流し始めた。
「申し訳ございません!陛下!!」
再び頭を下げ、床へ額を擦り付けるようにして謝罪されて、何のことだかわからないスヴェトラーナはメレル付きの侍女へ助けを求めようとした。
「申し訳ございません!!」
しかし頼みの網の侍女たちもまた、跪いて頭を床へ擦り付けていた。
「ベラ・・・」
困ったスヴェトラーナは唯一立っていた、扉横のベラへ助けを求める。すると仕方ないという感じにため息をついたベラが、ゆっくり近づいてきた。
「メレル様。陛下が困っておいでです。とりあえずソファへ座っていただいて、それから訳をお話しください」
「あいあい、まむ!」
しゅたっと立ち上がり、遠くを見る時に日の光を遮るかのような、右手を額へ掲げる不思議な動作をしてから、メレルはスヴェトラーナをソファへ座るように促した。
「どうぞ、おかけください。陛下」
「あ、あぁ」
つい先程までめそめそ泣いていた人物と同一とは思えないほど、爽やかに笑んだメレルに若干怯えつつ、スヴェトラーナはソファへ腰かけた。
メレルはというと、向かいのソファへ座ると思いきや、スヴェトラーナの斜め向かい辺りへまた跪く。何が始まるのかとびくびくしていると、今一度深く頭を下げてすぐ上げたメレルが真顔で告げた。
「私は同性愛者です。陛下は神の奇跡と言えるほどお美しいとは思うのですが、残念ながら私は女性に全く反応しないのです。ですから誠に申し訳ございませんが、殿下の夜伽のお相手をすることができません」
成る程。ベラが言っていたのはこの事らしい。
想像していたより大したことがないな、と思いながらスヴェトラーナは自分の考えを口にした。
「わかった。私としては無理に義務を果たそうとせずとも、構わない。しかしピャーチとしてはどうなのだ?族長はなんと?」
元々乗り気でないスヴェトラーナには願ってもない幸運だ。しかし後宮と言うものは政の影響を受けるし、また影響を与えるものでもある。
グレイジャーランド帝国の帝位継承は出生順であり、後宮では継承順位に伴った力を有することになる。そして政でも発言力が増す。だから皆、次期皇帝の父という座を欲するのだ。
それを心配して問えば、緊張して息を止めていたらしいメレルはほっと息をつくと、晴れやかに笑った。
「陛下のお許しさえいただければ、問題ございません。兄は私の性癖を知っていますし、ピャーチとしては今後しばらく領内の安定に力を注ぐ必要がございます。後宮の覇権争いに割く余力は無いのです。よって陛下が私の代わりをお望みで無ければ、よいのでこざいます」
互いに納得したところで、メレルにソファへ腰掛けるよう勧める。
その後、ピャーチの現状や、ベラとの関わりなど、穏やかでない場面もあったが比較的穏やかに話し、スヴェトラーナは自室へと帰った。
**********
「陛下。決してヤツの半径2メートル以内へ近づかないよう、お気をつけください。最敬礼も許してはなりません」
非常に緊張した面持ちのギデオンと、警戒心を露わにして鋭く周囲を探るベラと共に、スヴェトラーナは後宮へと渡る。
他の侍女たちは、同行を断る前に皆、体調不良で倒れてしまった。ベラが苦々しい顔で告げてきたので、仮病ではなく、本当に体調不良のようだ。
余程、今晩のお相手は恐れられているらしい。
「わかった。」
スヴェトラーナが神妙に頷いたのを確認して、ベラが扉をノックしようとする。しかしその手が触れる前に、扉が音もなく開いた。
「何の真似ですか?」
「お前こそ。誰に向かって刃を向けている?」
ベラに喉元へ短剣を突き付けられ、スヴェトラーナへ手を伸ばす姿勢で動きを止めた、茶髪で眼鏡の男が偉そうに言う。その眼鏡の向こうにある、瑠璃色の瞳がなんとなくギデオンに似ている気がする。
ちらりとスヴェトラーナを見やったベラは、どうやら主の前で血を流すことを躊躇っているようだ。ほんの少しだけ短剣を押し付ける手を緩める。
それに気づいた男が、喉元へ短剣を食い込ませながら、スヴェトラーナへと一歩近づいた。
その男とスヴェトラーナの間へ身を置いていたギデオンが、無言ですらりと剣を抜く。それを見ても全く怯むことなく、男が高圧的に嗤った。
「どけ。番犬。お前の出番はない」
「陛下へ許可なく触れようとする者に、道を譲る気などない」
剣を構えて相手を見据えるギデオンと、笑みを消してそれを睨み付ける男。
しばらく二人は睨み合っていたが、再び嗤って足を進めかけた男の首から、ついに一筋の血が流れ落ちた。
それなりに痛かったのか、男の眉間に皺がよる。
「・・・いいだろう。入室を許してやる。その目で己の主が、我がものとなる様を見るがいい」
やや涙目で首を押さえながら、男が後ろへさがった。
男との間に十分な距離が開いてから、ギデオンとベラが刃を収める。男の発する妙な空気に飲まれたら負けだと、スヴェトラーナは既に萎えかけていた気力を奮い立たせた。
「モイセイ・レイ・トゥリ。私はものではない。これ以上不快な態度をとるならば、このまま帰るぞ」
「・・・申し訳ございません、陛下。どうぞ、お入りください」
扉を大きく開けて恭しく頭を下げる、モイセイ。
先行したギデオンに続き、警戒したまま部屋へ足を踏み入れたスヴェトラーナは、目の前の光景に足を止めた。
「ひぃっ」
手手手手手手手手手手手手手手手手手――――――。
壁も、床も、天井も。部屋を埋め尽くすのは、数えきれないほどの手。肘から上、様々な格好をした手が、整然と並んでいた。
「ご安心ください。本物ではありません。木製です」
硬直して動けないスヴェトラーナへ、モイセイが壁の手の1つに触れながら言う。その表情は恍惚としながらも、どこか残念そうな様子に、鳥肌が立った。人の手の剥製なんて洒落にならない。
「ギデオン!」
最後に部屋へ入ったベラが、スヴェトラーナの背をその前にいたギデオンの方へと押す。
即座に響いた金属音に振り替えれば、ベラが2メートル四方の檻へ捕らわれていた。
「貴様!」
斬りかかったギデオンの剣を、モイセイがひらりとかわす。
勝手知ったるモイセイに対し、足元の手を避け、壁や天井の手にも気を遣いながらのギデオンの動きは悪い。ついに手の1つに足を捕られ、膝を付いてしまった。ギデオンの名誉のために言っておくと、本当に足を捕られ・・・捕まれている。
「どうだい?その仕掛け、気に入ってくれたかな?」
かなりの自信作だったのか、モイセイが満足げな笑みを浮かべる。そしてそのままスヴェトラーナの方へ、近付いてきた。
熱を帯びたモイセイの瑠璃色の瞳が、じっとりとスヴェトラーナを見つめている。その狂気さえ感じる視線に、スヴェトラーナの全身があわ立った。確実にスヴェトラーナの手しか見ていない視線に。
「さぁ、その神の寵愛を受けし御手をもって、我が聖剣を抜き、熱き情熱を解き放つのだ!」
「・・・」
意味がよく解らなかったが、ギデオンとベラの反応から、卑猥な意味を持つことは予測できた。
じりじりと近付いてくるモイセイから、スヴェトラーナもまたじりじりと後退しながら距離を確保しようと試みる。その背がついにベラを捕らえる檻に触れ、スヴェトラーナははっと息を飲んだ。
絶体絶命である。
「陛下。伏せてください」
その時、スヴェトラーナにしか聞こえない大きさでベラが言った。瞬時に伏せれば、スヴェトラーナの頭上に甲高い金属音が響く。
驚いて振り向いたスヴェトラーナの目に入ったのは、ベラの腰の高さで真っ二つに切られ、ちょうど上部が床へ落ちる瞬間の檻だった。
「小刀で居合い切りなんて初めてしましたよ。歯こぼれしてしまったではないですか。トゥリの候補の中ではマシな方でしたし、ただの手フェチだからと多目に見ていれば、調子に乗って・・・もう手加減なんてしませんからね」
ゆらり、と表情を無くしたベラが立ち上がる。
そこから彼女が何をしたのかわからなかった。
気がつけば、目の前にいたはずのベラの姿がなく。モイセイの悲鳴に振り返れば、彼は後ろ手に、亀の甲羅を思わせる不思議な縛り方をされていて。
床の手から解放され、呆然と佇むギデオンの前に、モイセイがぶら下げられていた。
「ベラ?」
とうとう床にへたりこんでしまったスヴェトラーナへ、ベラがにっこりと微笑む。
そしてぱちりと指を鳴らした。
「カモーン、メレル!」
「はっ」
突如として現れ、ベラの足元へ跪くのは、昨日会ったばかりのメレル・レング・ピャーチ。昨日の穏やかかつ、きらびやかな衣装とはうってかわって凛とした、体にぴったりとした黒装束である。
「はい。これ陛下愛用の香油。突っ込むのは同意を得てからにしてね」
「・・・はい」
何処に、とは聞くまい。
恭しく、しかしやや不満げに小瓶を受けとるメレルに、ベラが苦笑する。
「そんな不満そうにしないの。今度、ご褒美あげますから」
そう言って頭を撫でると、メレルが蕩けるように笑み、それを隠すように頭を垂れた。
「御意」
昨晩、メレルから「ベラずぶぅときゃんぷ」とやらの壮絶な話を聞き、半分以上は冗談だろうと笑いながら聞き流していた。
しかしどうやら事実だったようだ。途中でベラが止めたため、すべては聞けなかったが、それでもすごい内容をうっとりと語っていたので、相当ベラに心酔しているらしい。
やはりベラが味方でよかったと、純然たる心の奥の奥底から思う。
「何をする気だ!侍女の分際で我をこのような目に合わせるなど、赦されるものか!」
遠い目で悟りを開きかけていたスヴェトラーナの意識を乱暴に現実へ引き戻したのは、天井からぶら下がったままのモイセイの声だった。
ぎゃんぎゃんと吠えるモイセイの口に、ベラが何やら放り込む。そしてメレルの手をとって立たせると、見せびらかすようにその手を掲げた。
「大丈夫ですよ。貴方にも利のあることです。ほーら。ちゃんと貴方好みの手でしょう?」
「まさか・・・それは我が魂の伴侶である証、聖なる御手!なぜ男に!」
本当にそうなのか、薬の影響なのかは解らないが、嬉しそうに興奮し始める、モイセイ。
にいっと口角を上げたベラが、そちらを指差した。
「さあ、やっておしまい!」
「あいあい、まむ!」
直立したメレルが、指を伸ばした右手を額へ掲げる。そしてその手を大きく横へ広げ、焦らす様にゆっくりとモイセイへ近づいて行った。
「やめろ!」とか言いながら、悦びに口角が上がっている、モイセイ。その声が嬉しい悲鳴に変わった時、急に後ろから視界を遮られた。
「ギデオン?」
目を塞いだ手は慣れた感触だったので、スヴェトラーナは落ち着いて問いかける。するとやや緊張している声が降ってきた。
「・・・帰ろう。手を外すけど、目は閉じておいた方がいい」
きっと耐え難い光景が繰り広げられているのだろう。耳に入ってしまう内容だけでも現実を逃避したくなっているし。
素直に頷いて目を閉じれば、目の前にあったギデオンの手が離れていった。
そっとスヴェトラーナの手を取ったギデオンのそれを握り返し、立とうと試みて、上手く力の入らない自分の足に顔をしかめる。すると気遣うように優しく、ギデオンがもう片方の手でスヴェトラーナの背に触れた。
「抱えるよ」
「頼む」
ギデオンがスヴェトラーナの背と膝裏へ手を差し入れて、全く重みを感じさせない動きで立ち上がる。すぐに扉の閉まる音がして、モイセイの嬌声が遠のき、ほっと息をついた。
モイセイの部屋への滞在は、思ったよりもスヴェトラーナの精神を圧迫していたらしい。開放感からか妙に甘えたくなり、ギデオンの首元へ額を押し付ける。ギデオンは少し体をこわばらせたが、足を止めることはなく、周囲に人の気配がないからか、咎めることもなかった。
誰かに見咎められそうならばギデオンが警告してくれるだろうから、それまでこの状況を楽しもうと、時折額を擦り付けるようにして甘えてみる。しかし珍しい事に誰とも鉢合わせることなく、スヴェトラーナの自室へ到着した。
「ね、ギデオン。このまま寝室へ連れて行ってくれないか?」
散々甘えたにもかかわらず、ギデオンは嫌がるそぶりを見せなかった。それに気を良くしたスヴェトラーナは、彼女をソファへ下ろそうとするギデオンへ、少し大胆なお願いをしてみる。
一瞬で首まで真っ赤になったギデオンが、信じられないものを見るような目をスヴェトラーナへ向け、すぐに視線を彷徨わせた。
男であるギデオンが寝室へ足を踏み入れたことなど、ただの一度もない。
だが今、いつもならば寝室まで付き添うベラはいないし、他の侍女たちは体調不良で臥せっている。ベラがいるのだからいいかと、代わりの侍女を呼ばなかったのは、スヴェトラーナにとって幸運だったようだ。
他にスヴェトラーナを寝室へ連れていける人間がいないのだから、とギデオンが考えたかどうかはわからない。それでもあまり間を置くことなく、ギデオンが頷いた。
「い、いいよ。ラーナがそう望むのなら」
明らかに緊張している様子のギデオンが、スヴェトラーナを横抱きにしたまま寝室へと足を踏み入れる。そしてゆっくり、宝物を扱うようにゆっくりとスヴェトラーナを寝台へ横たえた。
「ギデオン」
ほっと息をついて、すぐに離れようとするギデオンの首へ手を回し、スヴェトラーナはしっとりと彼の名を呼んでみる。
そして、ぎくりと動きを止めて硬直したギデオンの唇へ、自分のそれを重ねた。噛みつくようになってしまったのは、逃がすまいという気持ちの表れなのかもしれない。
「ラーナ!」
ギデオンの抗議を無視して、スヴェトラーナはもう一度、唇を重ねた。がちりと互いの歯が当たったが、それを気にとめることなく、2度、3度と貪るように唇を重ねる。
ギデオンはスヴェトラーナの肩を掴んで引きはがそうとしてくるものの、乱暴にはできないようで、ほぼされるがままだ。
止めようとはしても、嫌がるそぶりのないギデオンの態度は、スヴェトラーナの昂る心の中に僅かな満足感を生む。
自分の欲望に忠実な、モイセイ。
義務を放棄した、メレル。
性癖を隠そうともしない、ムフ。
自分勝手な、ミハイル。
愛を体現する、マルセル。
個性的な5人に出会い、それぞれを知ったことで、スヴェトラーナは自分だけ我慢していることが馬鹿馬鹿しくなってしまった。
自分は皇帝だ。少しくらい好きにしたっていいではないか。
初めてくらい、好きな人に抱かれたいと思うことの何が悪い。
それに自分は女だ。誰の子を産もうと、皇帝が産んだ子ならば出自の証明など不要だろう。
それにもし問題があれば、ベラへ頭を下げてでも、靴を舐めろとか変態的な要求を飲んででも、どうにかしてくれるよう頼もう。
いや、自分でしたことの結果ならば、自分で何とかしてみせる。誰にも文句を言わせないほどに、完璧な皇帝になればいいのだ。
「駄目だ!ラーナ!」
ギデオンの首へ回した腕をそのままに体の力を抜き、後ろへ体重をかけると、彼は焦った声をあげながら力ずくでスヴェトラーナの体を引き離した。
「お願い。ギデオン」
後ずさるギデオンを呼び止め、スヴェトラーナはベッドの上で夜着を脱ぎ捨てた。
「ラーナ!自棄を起こすんじゃない!」
自分の上着を脱いで包み込んでくるギデオンの胸に、スヴェトラーナはすがり付く。視界がぼんやりしているのは、胸の痛みと共に浮かんできた涙のせいか。
スヴェトラーナは涙ながらに懇願した。
「誰でもいいわけではないよ。ギデオンがいいんだ」
耳元で、ギデオンがひゅっと喉を鳴らす。彼の心臓が自分のそれと同じくらいの速度で打っているのを感じ、もう一息だ、とわずかに残った冷静な部分でスヴェトラーナは思った。
「好きだよ、ギデオン。今晩だけでいい。私を貴方のものにして。お願い」
スヴェトラーナは顔を上げ、戸惑いの奥に熱を孕んだ瑠璃色の瞳を覗き込む。こくりとギデオンの喉が上下した途端、息が詰まるほどぎゅっと抱きしめられた。
「ラーナ!ラーナ!俺も―――」
言葉を切ったギデオンが、苦しそうに顔を歪めながらスヴェトラーナの頬へキスを落とす。徐々に口へと近づいてきた唇へ、スヴェトラーナは自ら唇を重ねた。ちろりと彼の唇を舐めて誘うと、それを捕えようとするように舌を絡め付けてくる。
「・・・っふ・・・」
少し離れて呼吸しては、また舌を絡め、唇を合わせる。
ギデオンが身を乗り出し、ベッドへ足をかけたあたりで、スヴェトラーナは自分の体を後ろへ倒した。ベッドへ横たわり、両手をギデオンへと伸ばす。
そのスヴェトラーナの体を目に収めたギデオンの顔が、ぎらりとした雄々しいものへと変わった。
それは全身に気力が溢れる、生命力を感じさせるもので。まさにスヴェトラーナが心を奪われた、あの時のギデオンの姿そのもので。
胸いっぱいの歓喜に押し出されるようにして、スヴェトラーナの瞳から涙がこぼれる。
しかし望んだぬくもりが訪れることはなかった。
「ギデオン?」
「すまない・・・俺はなんてことを・・・」
真っ青な顔でギデオンが後ずさり、突き当たった壁へ背を預けた。
それを目にしたスヴェトラーナはがっくりと脱力して、ベッドへ体を投げ出す。
失敗だ。ギデオンが我に返ってしまった。
いったい、何がいけなかったのだろう。やはりギデオンの理性と言う名の強固な枷を解くには、自分では役不足だったのか。せっかく恥を忍んでベラに借りた、官能小説を参考にして事を進めたというのに。
震えながら顔を両手で覆っているギデオンを横目で見ていたら、何の前触れもなく扉が開いた。
「ギデオン!!」
「っベラ!」
怒りを露わに入ってきたベラが、ギデオンの胸倉を乱暴につかむ。
主に手を出した事への叱責を覚悟したギデオンは、その怒りに燃える茜色の瞳をまっすぐに見つめた。
「すまな・・・」
「なんでやめた?!女から誘う事が、どんなにハードル高いのかわかってんの?!」
「は?」
予想と違った叱責に、ギデオンがあっけに取られた様子でベラを見返す。
その表情がベラの怒りに油を注いだらしく、掴んでいたギデオンの胸倉を引き寄せて、思いっきり頭突きした。
「いっ!!」
「いいか!耳の穴かっぽじって、よーく聞け!!この世界にはな、DNA鑑定なんてものは存在し無いし、血液型という概念があるかどうかも怪しい!しかも髪色は加護を受けた精霊で決まるから遺伝しないし、肌色は一緒だから問題なし!そして好都合なことに、なぜか貴族階級が高い方の瞳の色が優勢遺伝する!でも絶対とは言い切れないから、念のため瞳の色を揃えて、似たパーツを持つ男を集めてやった!」
そこでベラはぐっと胸倉を持ち上げ、頭痛の為に俯きかけていたギデオンの顔を上げさせる。
「・・・っな・の・に!このヘタレ!!これだけお膳立てされて、さらにスヴェトラーナ様にあそこまで言わせておいて、何様なのお前!!えぇっ?!何とか言いなさいよ?!」
胸倉をつかんで持ち上げたまま、がくがくとギデオンの頭を揺する、ベラ。
ギデオンはされるがままだ。うめき声さえ漏らさな・・・いや、あれは息ができていない。
「あ・・・あの、ベラ?首絞まってないか?」
「っち」
舌打ちしたベラが、ギデオンをベッドの上へ放った。信じられない力で投げられたギデオンは、ベッドボードへ背中を打ち付けてうめき声を上げる。
ゆらり、と立ち上がったベラは半裸のスヴェトラーナと、ぜいぜいと息をするギデオンを見て、ぞっとする笑みを浮かべた。
「お二人とも。リアルな描写が売りの作家が書いた官能小説で予習させたのですから、手順はわかっていますね?」
「「はい!」」
恐怖のあまりベッドの上で寄り添いながら、返答をするスヴェトラーナとギデオン。
ベラはつ、とシーツを人差し指でさして言った。
「明日の朝、証がなければ・・・」
指していた指を握りこむと、今度は親指を立てて水平に動かし、首を切るような動作をした。
震えあがる二人に満足したらしいベラが、背を向けてゆったりとした足取りで扉へ向かう。
「ちゃんとフォローしますから、難しい事をごちゃごちゃ考えずに、楽しみなさい」
扉を閉める直前にそう言って、ベラは寝室を出て行った。
暫く抱き合ったまま扉を見つめていた二人は、どちらからともなく視線を合わせる。互いの強張った顔が笑いを誘い、同時に吹き出して笑い始めた。
笑いながらギデオンがベッドへ横になり、スヴェトラーナの腕をつかんで引き寄せる。笑いに震えるギデオンの胸に頬を寄せたら、彼の心臓が早鐘のように打っていた。
「ラーナ」
優しく呼びかけられて、スヴェトラーナは上半身を起こし、ギデオンへ覆いかぶさるようにして彼を見下ろす。その頬をギデオンがそっと掌で包んだ。
「愛してる。ラーナ。いろいろ問題はあるが、何とかしてみせる。君を俺のものにしてもかまわないか?」
「もちろん。愛しているよ。ギデオン」
額を合わせて、互いに軽い笑いを漏らす。そしてゆっくり慌てることなく、薄目で距離を確認しながら、キスをした。
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「ベラ・・・ベラには意中の相手がいたりしないのか?」
翌朝、上機嫌で夜明けの紅茶を出してくれたベラに、ソファへ脱力気味に座るスヴェトラーナが問いかける。そんな彼女の横には、いつもよりべったりと寄り添って座るギデオンがいて、彼もまた興味深そうにベラを見上げていた。
「私は仕えると決めた主に名を与えられたら、一生忠誠を誓うセバス族です。ですから何があっても、陛下の御傍を離れるなんてことはありません」
胡散臭い笑顔で言ったベラへ、スヴェトラーナはじっとりとした視線を向けた。
「本音で言え。」
「あー。・・・前世に置いてきた魔法使いになりかけの息子をまだ愛してるし、旦那とかいらないので、この18禁乙女ゲームの世界かって現状を堪能したい」
真顔で聞いたことの無い単語を交えながら言う時のベラは、嘘を言わない。きっと本心なのだろう。
だからといって意味が分かったわけでもないが。
結局、理由がわからないことに眉根を寄せると、ベラがふわりと笑う。新しい紅茶をスヴェトラーナの前へ置いて、とんと自分の胸を叩いた。
「そう心配されなくても、お二人の事は私が何とかしますから、大丈夫ですよ。後宮の男どもも、対応済みです。陛下が望まない限り、指一本も触れさせません」
優し気な笑みの中に仄暗いものを見つけて、スヴェトラーナはぎくりとする。ギデオンも見てしまったようで、カップをソーサーへ戻そうとした姿勢で硬直していた。
ふふふ・・・と、声を漏らして笑うベラを見て、スヴェトラーナは思う。
ベラが味方で本当に良かった。




