短編(1) リー・キングストンという男
本編第3章――柚木と佐伯が、伊豆の海で死の淵に沈んでいたあの夜。その裏側のストーリー。
リー・キングストン――本名、李 金斯にとって、世界は常に計算可能な事象の集合体だった。
彼は、深圳の電子デバイス工場の次男として生まれ何不自由無く暮らしていた。無数の電子デバイスに囲まれて育ったリーは、幼い頃から周囲の大人たちが理解できないような複雑な回路を遊び半分で組み上げ、近隣の監視カメラや交通システムにハッキングを仕掛けては、街の動きをパズルのように操作して楽しむような、異質な天才児だった。
彼にとって人間の感情や道徳心はただの雑音でしかなく、ミリ単位で制御された完全な同期だけが、唯一の美しい芸術だった。
そんな彼が究極の芸術に出会ったのは、十歳の頃。母と姉がリビングで古い韓国ドラマを観ていた時のことだ。物語の重要人物が道路に飛び出した直後、どこからともなく現れた大型トラックが彼を跳ね飛ばすシーンがあった。
母と姉は「ほら、またトラックよ」「こんなどこにでもある直線道路で、あんな絶妙なタイミングでトラックが突っ込んでくるわけがないわ。ご都合主義にもほどがある」「ある意味、芸術よね」と笑っていた。
リーはその芸術が映された画面に釘付けになり、全身に電流が走るような衝撃を受けた。
――これは『奇跡の同期』だ。
対象者の歩行速度、風向き、路面状況、そして交差点へ進入するトラックの速度と制動距離。それらすべての変数を完全に掌握し、寸分の狂いもなく衝突という一点で交わらせる。ドラマの監督が安易な演出として描いたそのご都合主義のトラック事故は、リーの狂った頭脳を通した瞬間、現実世界で実現すべき物理演算の極致へと変換された。
また姉が放った「リー、あなたがどんなに神童であっても、現実世界でこんな絶妙なタイミングなんて、そう何度も起こせないわよね?」という何気ない一言が拍車をかけた。
それ以来、リーの情熱は「完璧なタイミングのトラック事故の再現」のみに向けられた。彼は得意のハッキング技術を使い、交通システムを操ることでそれを実現しようと試みた。信号機のタイミングをずらし、カーナビの案内を書き換え、自動運転支援機能を乗っ取り、ターゲットの車と無関係な大型トラックが交差点でピタリと衝突するように誘導を仕掛けた。
しかし、何度試しても彼の望む『奇跡の同期』は訪れなかった。そこにはどうしても計算に組み込めない人間の不確実性が障害となった。どれほど完璧なタイミングでトラックを交差点に突入させようとしても、人間の運転手は本能的な恐怖や違和感から無意識にアクセルを緩め、ブレーキを踏んでしまう。結果として生じるのは、タイミングが数秒狂った無様な急ブレーキや、美しさの欠片もない単なる接触事故ばかりだった。
――他人にハンドルを握らせている限り、完璧で究極な芸術は完成しない。
リーの異常な行動と、底知れぬハッキング能力に気づいた彼の家族は絶望した。国家インフラである交通網へのハッキングは重大なテロ行為に等しい。公安当局の捜査の手が確実にリーに迫るだろう。もし公安に捕まれば、息子は重罪人として処分されてしまう。
家族は、息子の異常性を恐れながらも、その血の繋がりと、類稀なる才能が潰されることだけは忍びなかった。
「二度と帰ってくるな。お前の才能は、よそで使いなさい」
父親は泣きながらリーに偽造パスポートを渡し、裏ルートから彼を日本へと密航させた。
日本へと渡ったリーは、自ら大型トラックの免許を取得した。
深圳で培った技術で独自のセンサーを開発し、ミリ秒単位で車両の挙動を演算・操作するための高度な情報処理サーバと姿勢制御機構を組み上げ、トラックの荷室に搭載した。
だが、この巨大な実証実験を本物の道路で繰り返すためには、莫大な開発・維持費用と、警察の捜査から逃れるための揉み消しの力が必要だった。
天才ハッカーである彼にとって金銭を盗み出すことは容易だったが、連続する不自然な死亡事故をただの不運な交通事故として警察に処理させるには、国家権力との癒着が不可欠だったのだ。
だからこそ、リーは裏社会の殺し屋になった。政財界の暗部から依頼を受け、彼らが消したいターゲットを完璧な事故で葬り去る。依頼主の権力によって警察の捜査を打ち切らせる。その代償として莫大な実験費用を得る。
快楽殺人鬼でもなければ、金に執着があるわけでもない。ただ己の『奇跡の同期』という芸術を合法的に追求するためだけに、彼は権力者たちの死神として振る舞い続けた。
数多くの実証実験を経て腕を磨き上げたリー・キングストンは、伊豆のT字路の崖上で、ターゲットを待ち構えていた。助手席に置かれた自作のコンソール画面には、ドローンから送られてくるターゲットの車の速度と、このトラックが崖から車を突き落とすための最適な衝突ポイントの計算が、凄まじい速度で弾き出されている。
ピピッ、ピピッ、と電子音が鳴り、モニターにターゲットの車両情報が展開された。
『ターゲット車両特定:スヴェルト社EVスポーツセダン フルミネGT』
『車重:二千百五十キログラム / 駆動方式:トリプルモーターAWD / 推定現在速度:百十二キロ……』
次々と弾き出されるマシンスペックと、ドローンが捉えた路面摩擦係数などの走行データを照らし合わせ、リーは鼻で笑った。
「フルミネ(稲妻)とは、大層な名前を付けたものだ。世間では『高額で希少性の高いイタリアの芸術品』などと持て囃されているようだが、トリプルモーターが生み出す過剰なトルクを扱いきれない欠陥品だ。おまけに運転している男もひどく下手くそと来ている」
リーは、薄暗いトラックの運転席で、ARグラスの視界に明滅する緑色の軌道データをうっとりと見つめていた。左カーブで大きく膨らみ、無様に側溝へと落ちかけているターゲットの最新鋭スポーツセダン――その姿勢制御システムが発する信号すらも、彼にとっては美しいオーケストラのチューニング音に過ぎない。
「稲妻のように速かろうが関係ない。人間の手による、そんな不完全な工業製品だからこそ――」
リーは束ねた長髪を微かに揺らし、グラスの奥で冷たくも恍惚とした笑みを深めた。
「私が計算し尽くした『奇跡の同期』という究極の手を加えることで、初めて真の芸術へと生まれ変わるのだ」
巨大な質量を持つ無骨なトラックのシフトレバーをガキリと力強く押し込み、リーは履き慣れたツナギの裾を擦らせて、アクセルペダルへゆっくりと体重を乗せた。
足元から唸りを上げる重低音が、彼のタクトに応えるように車体を激しく震わせる。
「さあ、私の完璧で究極な芸術を作りあげよう」
フロントガラスの向こう、アスファルトでもがく哀れな獲物へ向けて。天才ハッカーにして冷酷な殺し屋は、狂気に満ちた笑みを狭い車内に浮かべながら、アクセルを底まで踏み抜いた。
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ぜひ本編『天国の嘘』、スピンオフもよろしくお願いします。




