第一章 檻の中の詩人
調教師の石浜は、競馬界では少しばかり有名な変人だった。
「先生、またですよ。今度は第三コーナーで内ラチに突っ込もうとした。半田が落ちかけたんですからね!」
馬主の亀崎は、電話口で声を荒らげた。
預託料も、調教費も、遠征費も、すべて亀崎の財布から出ている。ところが、肝心の競走馬はレースのたびに奇妙な行動を繰り返す。まともに走れば相当な能力がある。それだけに始末が悪かった。
「亀崎さん。あれは逸脱の詩ですよ」
石浜は、まるで天気の話でもするように答えた。
「詩?」
「そうです。エブリバディゴーズは、ただ勝つために走っているんじゃない。彼は、自分が走らされている場所に疑問を持っているんですよ」
「馬が疑問を持つ?」
「ええ。昨日も馬房からずっと外を眺めていました。厩舎の裏に野良犬が二匹いたんです。あいつらは自由ですよ。誰にも順位をつけられないし、ゴールもない。食べて、寝て、気が向いたら歩いていく」
「先生、犬の話はいいんです。馬の話をしてください」
「今、馬の話をしているんです」
亀崎は電話を切りたくなった。
エブリバディゴーズ。青鹿毛の牡馬。馬体は美しく、脚力も申し分ない。調教では驚くほどの時計を出す。ところが、いざレースになると、突然コースの端へ寄ったり、観客席の方を気にしたり、誰もいない場所に向かって走り出そうとしたりする。
その名前は「みんなが行く」という意味だった。
皮肉なことに、この馬はみんなが向かう場所を嫌っていた。
石浜の馬房には、競馬関係の専門書に交じって寺山修司の詩集が並んでいた。
石浜に言わせれば、エブリバディゴーズは競走馬として生まれたのではない。たまたま競走馬にされてしまっただけなのだ。
彼が望んでいるのは、たったひとつ。
この円形のコースを出て、まっすぐ走ること。
曲がる必要も、順位を争う必要もない。誰かに追われることも、誰かを追い抜くこともない。ただ、目の前に続く道を走ってみたい。
しかし、皮肉なことに、彼がコースを逸脱しようとするたび、世間の注目は集まっていった。
「反逆の競走馬」
「逸脱の天才」
「競馬界の異端児」
スポーツ紙は面白おかしく書き立て、ファンは次のレースで何をやらかすのかと期待した。
逃げ出そうとするほど、彼を取り囲む人間は増えていく。
エブリバディゴーズは、まだそのことに気づいていなかった。




