秘密の練習
仕上げに、シュウは可純が書いた接客手順のメモや、基本挨拶で漢字が書かれている部分にふりがなを書く。そしてクリスはその紙の内容を自分の国の文字で書き写していた。
「そういや、風呂が沸いてるんだったな。先に入るかい?」
シュウがクリスに尋ねる。時間は既に二二時を過ぎていて、クリスがそろそろ眠くなる時間だろうと気遣っている。
一方、酒が入ってはいるものの、カプチーノに入れるエスプレッソコーヒーの濃いカフェインでクリスはそこまで眠くはない。だが、昨日は後に入ったのだが、特に抵抗感無く入ることにする。
「うん、そうする」
クリスはガサゴソと今日買ってきた下着を袋から出すと、テーブルの上に置いた。
「あ、シュウさん。ハサミある?」
「ん?」
シュウが目を上げると、商品タグを持って下着をぶらりとぶら下げたクリスがそこにいた。
すぐにハサミの目的を理解したシュウは立ち上がると棚の中にある道具入れからハサミを取り出すと、クリスに手渡した。
「そういや、クリスの下着や服を仕舞うタンスとかも必要かな?」
「ありがとう。そうね、試練を見つけるのにどれだけかかるか判らないものね。家主さんに会ったところで、すぐに試練が何かわかるという保証もないもの……」
ぷつりという音を立てて下着についた商品タグを切り取りながらクリスは話す。他にもサイズ表記のシールなどがあるので、それも一緒に剥がしている。
「そうだな。大きく近づいた気はするけど、確かにまだ安心するには早いよな……」
「うん。あ、昨日買ったお風呂上がりに身体を拭く大きな――」
「――バスタオルな、この箱の中かな?」
シュウはのっそりと立ち上がると、届いた荷物の梱包を解いて中からバスタオルを取り出した。
とても肌触りがいい、ちょっとお高めのバスタオルだ。
クリスの柔肌を拭くことを考えると安物を選ぶことができず、つい奮発してしまったことを思い出しながら、タグ代わりに貼られたシールを剥がす。
「これは一度洗ってから使ったほうがいいから、今日は洗ったオレのを使えばいい」
新品で高級なタオルであっても、店頭に並んだものなら糊がついたままになっている。また、どこの誰が手で触ったかもわからないし、下手すれば顔をうずめていたかも知れない商品だ。
一度洗っておくほうが気が楽になる。
シュウは脱衣室に置いてある洗濯済みのバスタオルを取ると、洗濯機の蓋を開けて新しいバスタオルを放り込んだ。
「ほい、これね。そういや、そろそろシャンプーやコンディショナーも新しいのが必要か……。
まぁ、そのへんは明日の買出しの時にでも買うとするか」
「そうね。明日だね」
クリスは立ち上がると、受け取ったばかりのバスタオルで下着を包むように持つと脱衣場に向かった。
服を脱いでいく音が聞こえると、すぐにガチャリと音がしてクリスが浴室に入り、シャワーの音が聞こえてくる。
こうなるとシュウは何かすることはないかと辺りを見回すと、先ほど開梱した荷物が目に入った。
これは日用品の中でも主に寝具やバス用品が入った箱である。バスタオルは取り出したので、中に残っているのはクリスの枕とそのカバーくらいのものしかない。
枕カバーも糊がついているので先に洗濯しておくほうがいいだろうと、シュウは枕と枕カバーの袋を開き、枕カバーを出しておいた。
そして、残ったもう一つの箱を開梱する。
中身は何故か二人で買い揃えたようになってしまった茶碗や箸だ。
――いずれは元の世界に帰ってしまうのに……。
シュウはこの茶碗を買った時の自分のテンションが知らず識らずのうちに上がっていたのだろうかと思い出してみるが、冷静になって考えると自分がその時に楽しかったのだと思い至る。
ではなぜ楽しかったのかと自分で問いかけるのだが、何故かいい表現がでてこない。
「うむむ……」
小さく呻くような声を上げると、シュウは揃いの茶碗や箸を取り出して、キッチンで洗い始めた。
「カチャリ」
シュウが食器を洗い終えてのんびりとソファで寛いでいると、浴室の扉が開く音がする。
そこから聞こえてくるのは明らかに身体を拭いて、服を着るときの衣擦れの音が聞こえてくる。
シュウはその音を聞いていると、自分の家に年頃の女性がいるということだけで、何か背徳感のようなものを感じ、自分が妙に場違いな場所にいるような気分になってきた。
慌ててテレビの電源を投入すると、番組表を表示させていろいろと見たい番組を探し始めるのだが、連休期間というのはスペシャル番組ばかりで特に面白そうなものもない。
結局適当なチャンネルを選んでクリスが服を着る音が聞こえない程度にまでボリュームを上げた。
「ふいぃーっ、気持ちよかったわ。ありがとう」
脱衣室にかけたカーテンを引いてクリスが現れる。
伸縮性のある生地でできた上下セットの部屋着で現れたクリスは、昨日と同じように肩にバスタオルを掛け、その上に濡れた白い髪を載せている。
温まった顔は頬がほんのり赤くなっていて、化粧をしていた時にはない幼さのようなものをシュウは感じ、普段とのギャップに戸惑ってしまう。
「どしたの?」
「あ、いや……なんでもない。オレも風呂に入ってくるよ」
シュウは自分の着替えと寝間着兼用の部屋着を持って脱衣室へ向かった。
とことこと歩いてポフッと小さな音をたて、クリスはソファに座る。
センターテーブルには風呂に入る前に書いた自国文字で書いたマニュアルと基本挨拶がある。マニュアルにはしっかりと基本挨拶が含まれているので、どういう時に何を言うべきなのかということまで理解できるように整理しやすい。
接客のベテランとシュウが頼るだけのことはあり、可純が書いたマニュアルは片手間に書いたとは思えないくらいの出来であった。
また、基本挨拶というのもクリスの周囲では侍女や執事たちが使っている言葉が多く、覚えなければいけない言葉は二つだけだ。
「いらっしゃいませ。
ありがとうございました、またご利用くださいませ」
貴族として旧王城内に暮らしていれば、この二つの言葉を誰かから聞くこともないし、話すこともない。
クリスは何度も繰り返してその言葉を覚える。もちろん、マニュアルにはお客さんが店に来た時に使う言葉と、お客さんが帰る時に使う言葉であることは書いてあるので理解している。
「いらっしゃいませ。
ありがとうございました、またご利用くださいませ」
何度目かわからないくらい、クリスは繰り返して読み上げていた。シュウがいれば、コンビニという店のことについてもっと尋ねたいと思ってしまうし、店員が手に持ったものを商品にくっつけいくだけで買い物の会計ができる仕組みのことも知りたい。だから、クリスはシュウが風呂に入っている間にできることをする。
「いらっしゃいませ。
何名様ですか?
お飲み物はお決まりでしょうか?
かしこまりました。少々お待ち下さい。
お待たせしました。
ありがとうございまいした、またご利用くださいませ」
マニュアルの内容を読み込んでシミュレーションをしてみる。
今日、可純の店や、千怜の店での応対を見てきた成果と言えるだろう。
そうしている間にも二〇分ほどの時間が過ぎて、シャワーの音が止まるとシュウが風呂から上がり、「ガチャリ」と音を立てて浴室の扉を開く。
バスタオルで身体を拭く音や、衣擦れの音が聞こえると脱衣場のカーテンが開いてシュウが部屋へ出て来た。
「ふぅ……アイス食べるか?」
「うん、もちろん」
シュウは冷蔵庫の前に立つと、冷凍庫を開けて買ってきたアイスの名前を一つずつ読み上げる。
「バニラ、クッキーアンドクリーム、抹茶、ストロベリーにクリスピーサンドか……どれにする?」
「最初に食べるべきっていうのがあれば、教えて?」
「そりゃバニラだな。アイスクリームの基本だし」
シュウは食器棚からティースプーンを二つ取り出すと、バニラのアイスと、自分のレモンシャーベットを持って何気なくクリスの隣に座った。
初稿:2020年3月11日
いつもお読みいただきありがとうございます。
またブックマーク、誤字報告等頂戴いたしました。ありがとうございました。
お風呂に入ってアイスを食べるところまで進めるつもりが、食べられませんでした。
次回更新は2020年3月15日(日) 12:00を予定しています。




