鍵の確認
食後のデザートを食べて一段落ついた頃、シュウは席を立って千怜に声を掛ける。
「千怜さん、お会計お願いします。
あ、そうそう……明日からクリスがうちの店を手伝ってくれるんで、またうちにも遊びにきてください」
「え? それって男性客がそっちに全部行ってまうやん。やばいわ、そらあかんわぁ」
千怜が大袈裟な反応を示しながら、金額を紙に書いて提示した。
男性が全て支払う際に女性に気をつかわせないための配慮がそこにあった。
シュウはクリスにここまでの気遣いはまだ期待できないだろうと考えながらクレジットカードを千怜に手渡した。
それにしても、女性客が八割を占めるこのイタリア料理店で男性客の心配をする必要はないだろう。それに、和室を除けば最大一二名しか入らないシュウの店に殺到したところで近隣の店に影響が出るはずもないし、クリス一人が増えたところで他店の客足が変わるとは到底考えられない。
「大丈夫ですよ。うちは小さいですし、クリスが手伝ったからといって箱が小さいからどうにもなりません。ということで、ごちそうさまでした」
シュウが支払いを済ませて扉を開くと、クリスも千怜に小さく会釈して外に出る。
四月の月末となると昼間は汗をかくほど暑いものだが、日が沈んでしまうとひんやりと肌寒い。
七分袖のカットソーでは少し寒いのか、クリスは両腕で自分を抱えるようにしてその寒さを我慢していた。
「寒いか?」
「うん、すこしだけ」
シュウとクリスは店のシャッターを開けて中に入る。
特にエアコンなどはかけていないが密閉された空間なので外にいるよりは暖かく感じるようで、クリスはホッと息を吐いて安心した表情を見せる。
「羽織れる物、買ってなかったからなぁ……お茶でも飲むか?」
「ううん、大丈夫。でも急にトイレに行きたくなっちゃった。行ってくるね」
「おう」
肌寒くなるとトイレが近くなるのは仕方がない。
シュウはその間に自宅に持ち帰る荷物を整理し、厨房から持ってきた折りたたみ式の手引きカートにそれを括り付ける。営業前にまた仕入れに出なければならないので、手引きカートを持ち帰らなければいけなかったのだが、今朝買ったクリスの下着類が入った袋を持ち帰るにも丁度良かった。
そして、荷物をすべて括り付けたところでクリスがトイレから出てくる。
「それはなぁに?」
クリスはその白く細い指で下唇の下あたりを押さえ、コテンと首を傾げて折りたたみ式のカートを見る。
クリスのいた世界では鉄をつかった武器や包丁のような道具はあるのだが、それ以外の道具は木製が多い。馬車や荷車にもほとんど鉄は使われておらず、ましてや折り畳式の小型荷車など見たこともない。
「これは折りたたんで小さくできる荷車なんだ。明日は開店前に市場に仕入れにいくんだけど、これがあれば今日みたいに担がなくて済むだろう?」
「そうなんだね。そういえば、似たような形で箱を引っ張ってた人もたくさんいたわね。あれとは違うの?」
クリスが言ってるのは旅行客などが使うスーツケースやキャリーバッグのことだ。外国人旅行客が大型のスーツケースをゴロゴロと押したり引いたりしながら歩いているのを見かけたのだろう。
「あの箱型のものは鍵がかけられるんだよ。飛行機という乗り物に乗って旅行に行くときは荷物を預けるんだけど、その際に鍵を掛けておけるようになってるんだ」
「なるほどねー」
飛行機の説明は図鑑を見た時にシュウが済ませているのでクリスはすぐに理解した。
ともあれ、シュウの自宅に戻る準備は整ったと言える。
「ガスよし、水道よし、電気よしっ! じゃ、帰るぞ」
シュウが指さし確認して、店の引き戸を開けてクリスを先に出すと気がついた。
「あ……そういえば引き戸が開けられるか、確認してないよな?」
「ええ、そうね。やってみてもいい?」
シュウが許可するまでもなくクリスが店の中に戻ると、引き戸をシュウが閉めて鍵を掛ける。
――この鍵をクリスが開けることができたなら、すぐに別れがやってくる。
そう考えると、シュウは何故か胸が締め付けられるような感覚を覚えた。
「試してみてくれ」
シュウは平静を装い、クリスに鍵を開けてみるよう促した。心の奥では開かないことを祈りつつ――。
一方、クリスにとっては扉が開けば元の世界に戻れるのだからとても嬉しいことだ。嬉しいのだが、今は開いてほしくないと思う気持ちが胸の奥底からふつふつと湧き出し、何か熱いものと冷たいものが胸の中でぶつかって苦しくなってくる。
だが、開くかどうかは試してみなければわからない。
「や、やってみるね」
クリスは引き戸についた鍵のつまみを持って左に回そうとする。だが、鍵はびくともしない。
力を入れてみても、力を抜いてみても……少し引き戸を傾けてみたり、逆に引き戸を押し込むように反対の手で押さえて回そうとしてみる。
だが、遂につまみは動くことがなかった。
息を止めて力を入れていたかのようにクリスは大きく息を吐いて、力なく話す。
「だめみたいね……」
「ああ、不思議だよな……」
シュウは相槌を打つように言葉を漏らすと、何でも無いようにつまみを左に回して鍵を開け、引き戸を開いた。
「ほんと、不思議ね」
クリスはそう話すとシュウが開けた引き戸を潜り、店の前に出る。
それについてくるようにシュウが扉から出ると鍵を掛けてシャッターを下ろした。
シュウの安堵に満ちた溜息はガラガラという音で掻き消えた。
右手に引いたカートの車輪をゴロゴロと響かせながらシュウは自宅への道を急ぐ。もちろん、左手の先にはクリスの右手が繋がれていて、ぴたりとシュウに着いて歩いている。
そして、シュウはコンビニの前で突然立ち止まり、店内をじっと見た。
クリスがそんなシュウの様子を見て声を掛ける。
「どうしたの?」
「いや、風呂上がりのアイスとか、ビールを買っておくか悩んでたんだ。でも、たらふく食って飲んだしなぁ……」
「そうね。今日はもうお腹いっぱい……」
確かに今日の二人は食べすぎなほど食べているし、ビールに日本酒、赤ワイン……結構な量の酒を飲んでいる。
だが、クリスはまた聞き慣れない言葉がでてきたので、確認する。
「で、アイスってなに? あとたらふくって?」
「アイスは氷のことなんだけど、氷で作った甘く冷たいものを氷菓、牛乳や他の素材を混ぜて作った冷たい食べ物をアイスクリームって呼ぶんだ。そして、それら全部ひと纏めにしてアイスとオレたちは呼んでいる。風呂上がりに食べたくなりそうだろ?」
「ええ、それはすごく魅力的だわ。でも今の話だといろいろと種類がありそうね?」
クリスはアイスに興味を惹かれたようで、シュウと同じようにコンビニの中を外から並んで眺めている。
「じゃ、入ってみようか。そうそう、たらふくはお腹いっぱいってことだ。充分にという意味で使っていた「足らふ」という動詞に「く」をつけたものらしい」
「なんか難しい話ね……」
その如何にも難しそうな説明にクリスは興味を失ってしまうと、シュウの後について初めてのコンビニに向かって歩き始めた。
コンビニの前に着くと、自動で扉が開く。
これまでもデパートや水族館でも自動ドアがあったのだが、出入りが激しいので実質的に開放状態になっていた。だから、クリスはいま初めて自動ドアが開くところを目にしたことになる。
なお、電車の場合、最初に乗った御堂筋線では最後尾のドアから乗ったので車掌がボタンで操作しているのを見ていたので手動であることを知っていた。
「え、あ……すごいっ!」
音らしい音もせず、ガラスの扉が左右に開いて道を開けるとクリスはつい声に出してしまった。
その声を聞いたシュウはクリスが一体何に驚いたのだろうと思い見渡すが、クリスの視線の先を見ても気が付かない。
「どうした? なんかあったか?」
「近づくだけで扉が開いたわ。こんなの初めて見たかも……」
クリスは酔いが冷めつつあったのだが、つい大きめな声に出してしまったことに気づいて少し頬を赤らめる。
その様子にシュウは頬を緩めると、宥めるように言った。
「たぶん自動ドアも図鑑にあるだろう。今日はたっぷり時間があるから、いろいろと教えるよ。いいかい?」
クリスはこくりと頷くと、シュウの手を握る右手に少し力を籠めた。
初稿:2020年2月29日
いつもお読みいただきありがとうございます。
また、評価頂きました。本当にありがとうございました。
「鱈腹」はあくまでも当て字だそうで、語源的には、「【動詞】足らふ」+「【副詞語尾】く」なんですね。いい勉強になりました。
最初は「鱈の腹みたいになってるから」って書いていたのですが、確認作業って本当に大事ですね。
さて、2020年3月1日の投稿より、タイトルを「朝めし屋―二人の出会いの物語―」に変更させていただきます。
また、コンテスト参加を目指す別作品を書くため投稿頻度を週二回程度とさせていただきます。
次回投稿は 2020年3月1日 12:00 を予定しています。




