10
記憶喪失についての記述がありますが、作者は医療知識全くありません。
他の小説やドラマなどに出てくるイメージそのままで書いているので、細かい点などはご容赦くださいませ。
「記憶喪失……?」
事情聴取の最後に放った莉緒の言葉は、大人たちを凍りつかせた。
隼人に関する記憶だけが抜け落ちていたのだ。
すぐさま聴取は打ち切られ、山本医師により診察が行われた。
月曜日に行った精密検査結果を見る限り外傷による脳の損傷が皆無であったことを考えると、暴行をきっかけに発症した心因性の記憶喪失と思われると診断された。
そして、山本医師は静かに言った。
「莉緒ちゃんの場合、前回も今回も許婚の隼人くんに横恋慕した女性の逆恨み的動機が発端となっています。莉緒ちゃんには全く非がないことですが、お互いしか見てないのに第三者に翻弄され、傷つく心を守るための自己防衛で記憶に蓋をしてしまうのは無理からぬことだと思います」
その晩、莉緒の付添いを奏子に託した克之は、俊輔と大久保とともに内藤翁宅を訪問した。
克之らは居間に通されると、これまでの経過について内藤翁に報告した。
莉緒の容態と今後の治療予定、担当医から転地療養を薦められていること、本日行われた警察の事情聴取、そして――。
「莉緒は、隼人に関する記憶だけがすっぽり抜け落ちています」
今日新たに判明した莉緒の症状を報告すると、翁は瞠目した。
「……それは、記憶喪失というやつか?」
「はい。外傷によるものではなく、心因性の記憶喪失というのが担当医の所見でした」
「そうか……」
翁の表情は険しかった。
俊輔は項垂れ、大久保は様子を見守っていた。
「莉緒のことを可愛がっていただきながら心苦しいことを申し上げますが、こうなった以上、一刻も早く東京を離れようと思っております」
克之は、「お世話になりながら、勝手を言って申し訳ありません」と頭を下げた。
翁は、複雑な表情を浮かべていた。
克之の決断を止めたくても止める術はなく、声を掛けたくてもうまい言葉が見つからず発せられないもどかしさ。
二人の間に沈黙が流れた。
どれぐらい時間が経過しただろうか。
ずっと続くと思われた沈黙を破ったのは、大久保だった。
「その件ですがお義父さん、私から今後についてご説明します」
大久保は、事件翌日から転地療養について相談を受けていたこと、可能な限り早いタイミングで異動の辞令が出るよう会津商事トップに働きかける約束をしたこと、隼人には何も告げず行かせるつもりでいることを説明した。
「既に松平の父から了承を得ており、明日には弟が人事異動通達を出す手はずになっています。異動先は名古屋、通勤と莉緒ちゃんの付添いの利便性を考慮したエリアに3LDKの物件を確保しました」
「ちょ、ちょっと、大久保さん。付添いやすいエリアって一体……」
可及的速やかに異動辞令が出るようお願いしていたが、本人の知らぬ間に新居が用意されていることに克之は慌てた。
「あぁ、実は事情聴取が始まる前に『急遽名古屋異動が決まったので、転院先を紹介していただければ最寄りのエリアに住居を確保できるのですが……』と山本医師に話したら、即座に名市大病院の病床を確保してくださったんだ」
「大久保さん、仕事が早すぎですよ……」
克之の嘆息を尻目に、大久保は続けた。
「今最優先すべきは、莉緒ちゃんの回復だ。文句を言われる筋合いはないよ。それに、隼人が莉緒ちゃんに接触しようと試みる前に対処すべきなのは当然だ。そして、今後についてだが――」
最短でも篠宮の事件が終息するまでは莉緒に隼人を接触させないこと、木下家との接触はすべて内藤家顧問弁護士を通じて行うこと、警察には一にも早い犯人確保を要請する等、軸となる部分を確認した後、それに付随する詳細について打合せた。
打合せは深夜に及び、克之らが内藤翁宅を退出したのは午前3時をまわっていた。
その頃、莉緒の事情聴取を終えた警視庁は篠宮玲子と保坂の足取りを追っていた。
捜査員たちは、京浜島の倉庫爆発で現場に居合わせた大久保と俊輔の聴取内容を基に、篠宮玲子と思われる不審な女性を拾って逃走した車両の絞り込みを行った。工場や倉庫が立ち並ぶ現場周辺での高級車はひどく目立つことから多数の目撃証言が寄せられた。その結果、大久保らが証言した聴取内容と目撃証言が一致したことで車両ナンバーを特定することができた。しかし、Nシステムの追跡で保坂と思われる運転手と助手席に座る玲子の画像を入手できたものの、行方については未だ不明のままであった。また、車両については事件の2日前に盗難の被害届が出されており、所有者と事件の関連はないと判断された。
一方、野村を含む別の捜査グループは、保坂が大和の事件当日のスケジュールを把握していたことから、大和が通う大学関係者の中に紛れている可能性を探っていた。大和と同じ経営学部の学生が受講するカリキュラムにあわせて学生が多く出入りする時間を中心に、写真の人物を知る者がいないか精力的に聞き込みを行っていた。
あからさまに捜査中とわかるのもまずいという宮部の判断で、聞き込み中は学生のようなラフな姿で行っていた。
長時間同じ場所で聞き込みをしていれば何度か同じ顔に遭遇することもあるわけで、私服姿になれば学生といっても通用する容姿と親しみやすい空気を纏った野村は、一部の学生たちと親しく話をするまでになっていた。
「綾乃ちゃん、今日もお仕事? 次の講義まで私たち30分程お茶しに行くところなの。綾乃ちゃんも良かったら一緒に行かない?」
「ちょうど今から休憩入るところだったの。是非ご一緒させてもらうわ」
そう言って女子学生ら数人と連だって向かったのは、大学にほど近い落ち着いた雰囲気のお洒落なカフェだった。
流行のカフェメニューが有名カフェのそれに劣らぬ味と盛付に加え、懐寒い学生に優しい料金設定ということもあって行列必至の店だという。毎週この曜日のこの時間が穴場だから狙ってお茶しにくるの、と彼女らは教えてくれた。
注文した飲物が出揃い、ひと口飲み終えたところで女子学生の一人が口を開いた。
「綾乃ちゃん。探している男の人の写真、今持ってる?」
「写真? えぇ、持っているわよ」
「もう一度見せてもらえるかしら」
先程まで聞き込みで使用していた保坂の写真を見せると、女子学生は食い入るように見つめた。
「ねぇ、やっぱり似てる気がするんだけど」
「髪をあげているから雰囲気違うけど、髪を下ろして眼鏡つけてみたら……」
「ちょっと待って。いらないクリアポケットがあるから、一旦その中に入れて、上からマジックで前髪と眼鏡……」
「ほら……!」
彼女らは頷きあうと、それを野村に見せた。
「綾乃ちゃん。私たち、この人知っているわ」




