第一話 軟弱領主、目覚める
「エレノラ、出かけるのかい」
妖艶に着飾った姿で足早に階段を下りていく妻エレノラを追いかける。
初めて見る深紅のドレスは、最近仕立てたもののうちの一着だろう。
美しい妻。──美しいだけの妻。
彼女はヴァルデン家にも夫にも、そして息子にも心を砕かない。もちろん使用人や領民など、目にも入らない。
連日の深酒が祟ったのか、ハイヒールの彼女になかなか追いつけない体を何とか奮い立たせ、階段を下りたところで妻を捕まえた。
「き、今日の帰りは何時ごろに……」
「痛いわ、放してちょうだい」
「わっ」
振り払われて彼女の腕を掴んだはずの手が外れ、よろめいた体が後ろに倒れ込む。
ガツンと鈍い衝撃が後頭部に走った。
「旦那様……!」
使用人たちが駆け寄ってくるのが、薄れゆく意識の端に見える。彼らの肩越しに見えるエレノラは、一顧だにせず扉を出ていった。
◇◇◇
早朝五時起床。
起床後、点呼までは一時間の余裕がある。
この間に瞑想し、ストレッチをし、掃除し、新聞を読む。
高橋昌和四十二歳のいつものルーティンだ。
五時起きを始めた当初はなかなかに眠気と格闘したが、二十年も繰り返した営内生活。慣れたものだ。
仰向けのまま腕や脚をぐぐっと伸ばす。ゆっくりと目を開けて時計を確認しようと顔を巡らせると、だけどそこは知らない場所だった。
「……ん?」
見慣れない天井、いつもよりふかふかの柔らかいベッド、早朝どころかどう見ても昼に近いくらいに明るい日差し。
そして見覚えのないスーツ姿の中年男と壮年の男。
「お目覚めですか、旦那様!」
中年の男が少し慌てたような声で近寄ってくる。
「誰だ? どこから入った?!」
自衛隊の隊舎に潜り込めるなど、常人ではない。
高橋はふかふかのベッドの上で飛び起き、白髪交じりのオールバック眼鏡を睨みつける。
「だ、旦那様?」
じいっとその困惑顔を見ていると、知らない男のはずなのに、なぜか名前や過去の記憶が脳裏をよぎる。
「……マティアス……」
だんだん記憶が蘇ってくるが、同時に混乱もしてくる。
(どういうことだ……?)
「旦那様、医者を呼びましょうか」
今度は壮年の男が話しかけてきた。心配そうに眉を寄せた顔で、ベッドの上の高橋を覗き込んでいる。
「さっきから、旦那様って俺のことか」
「レオンハルト・ヴァルデン様以外、ここにおられましょうか」
困惑した声で、高橋にマティアスと呼ばれた中年男が答えた。
そんなわずかなやりとりの間にも、次々と記憶が映像とともに流れ込んでくる。
(そうだ、俺は……)
レオンハルト・ヴァルデン。妻と三歳の息子がいる、三十四歳の子爵だ。
妻が家も子どもも放り出して若い男と親密になっている。昨日もその男と会うために出かけようとするところを止められず、縋りついて掴んだ腕を振り払われた拍子によろめいて、階段の手すりで背中と頭をぶつけたのだった。
視界が明滅している間に、妻は心配するどころか振り返ることなく馬車に乗っていった。
「う、ぐぅ……っ」
後頭部に痛みを感じ、顔を顰める。
「お水を」
壮年の男が機敏な動きで水差しとグラスを持ってきた。一気に飲み干すと、間髪入れずにグラスを受け取ってくれる。
「マティアス様、旦那様はゆうべ頭を強く打たれましたよね」
「旦那様は固辞されたが、やはり医者を呼ぼう、クラウス」
うなずき合う二人を残してベッドから下りる。
壁に掛けられた鏡に姿を映せば、まるで自分ではない男の顔がそこにあった。
見慣れた黒髪短髪ではなく、赤みのある茶髪は緩く波打っていて、左右に分けた前髪は目の下まであるし、後ろに至っては結えるほどに長い。驚くほど青白く細面で、訓練続きで日に焼けた面影は微塵もない。
ぺたぺたと顔を触るも、その手もほっそりとして骨が目立つ。
鍛えあげた胸筋も腹筋もきれいに消え去って、ペラペラの薄い体で背も丸い。
「なんじゃこりゃ」
高橋昌和、四十二歳の自衛官、筋肉自慢の一等陸曹だった面影はゼロだ。
幸いと言っていいのか、背は今のほうが少しばかり高い気がする。
「今は何年の何月だ」
「本日は王歴三一七年、芽月の十八日です」
「めづき……」
聞いてみたものの、知らない暦だった。
どうやら春の始まり、日本でいうところの三月くらいらしい。
言葉は通じるが、自分も他の人間も見た目は外国人のようだ。
記憶が流れ込んできた通り、今の自分はレオンハルト・ヴァルデンということなのだろう。
ここは主人の寝室で、ヴァルデン子爵家の城館で、外は知らない国で、未知の世界だ。
知らないことと知っていることが幾重にも重なり、前世といえばいいのか、高橋昌和の記憶と、今のレオンハルト・ヴァルデンの記憶が混ざりあっていく。
「ん、ちょっと待てよ、これって……」
そういえば昔、相部屋だった同僚がハマっていると勧めてきた漫画にこんな展開のようなものがあった気がする。
たしか「異世界転生」とかいうんだったか。
必死に思い出そうとするも十年以上前の話で、その一作の、しかも途中までしか読まなかったのでうろ覚えも甚だしく、現状を把握するには正しい材料とは言えない。
とはいえ、今のこの状況が現代日本でないことだけは確かだった。
そして異世界にきたということは、高橋だった自分は何らかの理由で一生を終えたということだろう。
銃火器の暴発、はたまた訓練中の心臓発作か、それとも寝ている間の突然死か。レオンハルトとして目覚めてしまった以上、考えても詮無いことかもしれないが。
この体の持ち主であるレオンハルトは、階段で後頭部を強打したことにより命を落としたのだろうと、うすぼんやりとした記憶が蘇る。
いったん息を吐き、マティアスに向き直る。
「妻は……エレノラは帰ってきてるのか」
「いえ、奥様はまだ……」
「アルノーはどうしてる」
舌打ちを堪えて問いかける。
「この時間、坊ちゃまは昼食を取られています」
マティアスにそうか、と答えて、薄っぺらい体を覆うシャツを脱ぐ。力任せにしてはボタンが引きちぎれそうなほど繊細な生地だ。綿のTシャツなどないのだろうか。
「旦那様、私が」
壮年の男──クラウス──がレオンハルトの侍従だということも、理解した。貴族として生きてきたレオンハルトの記憶のおかげらしい。
「この国は離婚はできるのか」
レオンハルトの一言に、マティアスとクラウスの動きが止まった。
二人そろって主人を凝視している。
「何だ、できないのか」
「いえ。ですがあれほど離婚だけは拒んでおられたのに、と……つい」
マティアスが遠慮がちにそう答えた。
「だが、彼女は望んでいただろう」
「いかにもさようでございます」
主人が目覚めてから困惑し通しの使用人たちに、別人の記憶が混ざっているなどと伝える必要はないだろう。医者に診せてもどうしようもないことだ。
「頭を打ったおかげで目が覚めたんだ。しがみつく理由はなくなったとな」
適当な言い訳をしつつ、過去の記憶を探る。
レオンハルトは決断力がない上におどおどしてばかりで頼りなく、妻の不倫を咎めることも、浪費を諫めることもできない夫だった。
まして彼女を楽しませるとか、喜びそうなところに連れていくということも、していなかったようだ。そんな男より、若い男を選ぶのは無理のないことなのかもしれない。
だが、逢瀬に忙しくヴァルデン家のことはほぼ家令であるマティアスに投げっぱなしで、だけど金遣いは荒いなど女主人としての適性がないし、夫が怪我をしたかもしれない状況で愛人に走る妻など不要だろう。
そして何より、子どもより男を取るというなら熨斗を付けてくれてやる。
少なくとも高橋の価値観で考えればそう結論が出る。
レオンハルトが彼女の横暴を止めなかったのは妻に心底惚れぬいていたからなのか、妻やその実家が怖かったのか、それはもう分からない。酒に逃げたことだけは、はっきりとしている。
クラウスは黙したまま主人の着替えをてきぱきと進めている。
「離婚するのにいくつか条件をつけたいんだ」
マティアスは息を呑みながら胸元から小さな手帳らしきものを取り出した。
「アルノーは渡さん。まずこれが第一だ。そこを渋るようなら離婚はしないし男とも切れてもらう。面会の希望は聞くがアルノーが会いたいと望めば、だ。万が一無断で連れ出すようならしかるべき処置をとる。それから彼女の私有財産や持参金については返還する代わりに、今後一切の金銭の要求には応じない。彼女の実家についてもこの領地についての不干渉を約束してもらいたい」
「必要な書類を揃え、奥様のご実家にも使いを出します」
「ああ。なるべく早く彼女を解放してやろう」
身支度を終えたレオンハルトは、アルノーがいる食堂へと足を向けた。
その背を見送りながら、マティアスとクラウスは同じことを考えていた。
「旦那様……以前とはまるで別人のようだ」
「はい。雰囲気もですが、話し方まで変わっておられます」
◇◇◇
レオンハルトとして目覚めた日から一週間も経たないうちに、無事にエレノラと離婚が成立した。
若い燕との逢瀬は社交界でも十分に知れ渡っていたらしい。彼女の実家である伯爵家も把握していたところで、幸いなことにエレノラと同席した代理人の説得もあって、こちらの条件をすべて飲ませることに成功した。
多少は譲歩案が出されるかと身構えていたが、杞憂に終わった。
エレノラが子爵家の資産を食いつぶさんばかりにドレスや宝石を購入していたため、それらを私有財産として渡すうえに慰謝料は取らないとしたのが功を奏したらしい。
彼女はアルノーのことなど気にする素振りもなく、面会について一言も口にしなかったのには、怒りを通り越して呆れ果てた。
今後は父親として息子を守っていくのだという気持ちをよりいっそう強くした。
レオンハルトは今日も朝五時に起床し、瞑想し、ストレッチをし、部屋の掃除は使用人三人がかりで止められたので大人しく新聞を読んだ。
ヒョロヒョロの体が見ていられず、すでに筋トレも取り入れている。
これまでのレオンハルトは太陽が昇りきってからだらだらと起き出していたせいか、クラウスに少し驚かれたが、余計な口は挟まず、淡々と役目を果たしてくれるようでありがたい。
「八歳は若返ったはずなのに、くそ、何だこの体は」
朝は日課の筋トレをこなし、体力づくりのために走り込む。
ランニングするのはシルヴァ川沿いの遊歩道だ。三キロ程度でもすぐに息が切れるが、早朝は人がいないため誰に見られる心配もない。
春先は気温もちょうどいいし、慣れてくれば走行距離を延ばすつもりだ。
この体のスペックだとまだ少し先になりそうだが。
自分に課したノルマの距離を走り終え、汗を流しさっぱりとしたところで朝食だ。
料理長に献立の希望を伝え、体重を増やすために食べる量も増やした。
今までは昼前に起きてろくに食事も取らない生活だったせいか、ずいぶんと驚かれたが、泣くほど喜ばれもした。
規則正しい生活には慣れている。むしろそうしないと気持ちが悪い。この辺りはレオンハルトの体質や習慣が優先されずに済んでよかった。
前世の記憶がある、というよりは、どちらかというと人格は高橋のままのようだ。ただそこにレオンハルトの記憶が混じっているという感覚に近い。
貴族といったものに無縁すぎたが、幸いテーブルマナーやら所作は体が覚えているらしく、その辺りは何とかなった。
だが家のことは誰か──主にマティアス──に頼りきりで、当主とか旦那様とか言われても、という気分だ。
使用人たちも最低限の仕事はするが、それだけだ。とはいえ、無能で妻のいいなり領主と思われていた割に、使用人の態度がそこまでひどくないのは不思議だが、ありがたい。
ただ、転生する前から無能な領主と見られていたのに、レオンハルトは何も改善してこなかった。それが高橋としては許しがたい。
自分で解決できないなら誰かに相談したり、教えを乞うべきだ。
少なくとも高橋として生きていたころは、自分でどうにもならいことはそうやって対応してきた。
できる限りの努力はした上で、だが。
「マティアスには負担をかけるが、もう一度叩き込んでもらわないとな」
誰にともなく呟くと、レオンハルトは斜め前にいる息子アルノーに視線を移した。
乳母のマルタに世話を任せながらではあるが、アルノーとは一緒に食事を取っている。
最初にその提案をしたときは驚かれたが、明るいうちはできる限り息子との時間を作ることにした。
親子で食事を取ることの、何がおかしいのか。
親子で一緒に過ごすことに、理由などいらないだろう。
アルノーと過ごそうとするレオンハルトに訝し気な顔を見せたマティアスにそう言うと、マルタが感激した様子でアルノーとの仲を取り持ってくれたのだ。
だが世話の全部をレオンハルトがやろうとしても、乳母の仕事を奪わないでほしいと願われたので、変わらず手を借りている。
母親のエレノラは夫と子どもを捨てて若い男に走り、その結果離婚した。
大人であるレオンハルトはともかく、実の息子であるアルノーにそんな仕打ちができるなど、到底理解ができない。
しかも高橋が転生する以前のレオンハルトも、あまり息子と積極的に関わってはこなかった。
アルノーだけがそんな仕打ちを受けているわけではなく、この国の貴族にはそういう傾向が強いというのがマティアスの弁だ。
そういうものだと言われても、そうかと納得できるほど薄情ではないつもりだ。
高橋昌和としての生では、家族に恵まれていたわけではなかった。
幼いころに両親と死別し、頼る身内もなく養護施設で育った。退所までそこで過ごし、その後は自衛隊に入隊した。
仕事も恋愛もそれなりに充実はしていたが、結婚することなく、子どももいないまま人生の幕は下りた。
だが幸いにも転生したレオンハルトにはアルノーという可愛い息子がいるし、レオンハルトに譲位した両親が王都に居を構えている。
息子夫婦の離婚問題には介入せず、自分たちは悠々隠居生活だ。孫に会いたくないのかとも思うが、つかず離れずがお互いにいい関係なのだろう。
朝食を終え、まずは自分がこの地の領主だということを受け入れるために、マティアスに領地を視察をすると告げた。
この先、高橋ではなくレオンハルトとして生きていくためにも必要なことだ。
帳簿は見せられたが、羅列された数字だけではどんな場所で、どんな人々がどんな生活を送っているのかが分からない。現場を見なければという思いに駆られたからだ。
「旦那様はいったいどうされたんだ?」
「今までは外出を億劫がっておられたのに」
使用人たちがヒソヒソと話す声が聞こえる。眉間にしわを寄せつつ無言のままそちらへ視線をやると、慌てて口をつぐんだ。
せめて本人がいないところで言え。
そうは思うが、元のレオンハルトは尊敬される領主ではなかった。
何事も決めるまでに時間を要し、迷えば放置し、先延ばしにする。
誰かの意見を聞けばそれに流され、妻が求めれば断れず多額の資金をそちらへ回し、欲しいものは買い与えた。
周囲から見れば妻のいいなりで頭が上がらない無能な領主だったろう。
「生まれ変わったとでも思っておいてくれ。これまでとはいろいろ変えていくつもりだ」
聞こえよがしに言いながら窓の外に視線を移す。
窓から見えるのは領地を東西に走る主要な通りで、ヴァルデン街道という。
領地の南北を貫く大きなシルヴァ川と交差している。
この川沿いにヴァルデン町がある。
教会や役所といった施設はもちろん、旅人や商人も通るので、商店や工房や倉庫、宿屋や酒場が多く立ち並んでいる。
レオンハルトの記憶によると、週に一度は朝早くから市場が立つようだ。
周辺にある農村から野菜や穀物、卵や肉、羊毛や木材など多様なものが売られて賑わいを見せる。
馬車や人の往来が多く、ヴァルデン領の中心地だ。
まずはこのヴァルデン町から見ていった。
その後も数日をかけて従者を連れて領内のあちこちを見て回り、農業や羊毛が盛んな各町や村、木材の産地である北部の森林にも足を伸ばした。
体力のない体はすぐに音を上げ、何度も休憩を取りながらになるせいで想定よりも時間がかかった。
それでも何とか視察を終え、マティアスや領民の意見から各地と、城館についても問題点を洗い出す。
物資のずさんな管理を是正して無駄を省く。
人員の雇用や配置も見直し、負担を減らす。
街道を整備してルートの効率化や空荷が極力出ないような仕組みを構築する。
レオンハルトの自衛官時代の記憶を頼りに思いつくことはできる限り提案した。ただし、その辺りの手配はほぼマティアス頼みだ。
レオンハルトは仕事以外の時間はできる限りアルノーと過ごし、自分と息子の体力づくりも兼ねて散歩に連れ出した。
庭を歩き、時には街を歩き、晴れた日は川沿いで釣りも楽しんだ。
雨の日の筋トレではアルノーを背に乗せて腕立て伏せをしたり、腹筋のサポートをさせてみたりした。
そのおかげか、最初こそ遠慮がちだったアルノーも、次第に打ち解けて懐いてくれた。
今ではすっかり無邪気な態度で接してくれる。
アルノーは、レオンハルトの息子なのだ。それを思うと胸に熱いものがこみあげてくる。
高橋として生きたころには得られなかった血を分けた存在は、どこか特別に思えた。




