第75話:『小さな依頼人』
すっかり日が落ちた工房の中には、ランタンの柔らかい橙色の灯りが満ちていた。
作業台の前に腰掛けたルチアは、出された温かいハーブティーの湯気をじっと見つめ、小さく肩をすくめていた。
膝の上に置かれた義手は、油と埃にまみれ、金属の表面には無数の細かい傷が刻まれている。
「ごめんなさい……汚くて。街の大きな技師さんたちには……『こんな古くて汚いもの、とっとと捨てちまえ』って笑われちゃって……」
消え入りそうなルチアの声に、静かにお茶を淹れ終えたエレノアが優しく微笑みかけた。
「大切に使われてきた物って、ちゃんと分かりますよ。」
その穏やかな一言に、ルチアは驚いたようにパチパチと目を瞬かせた。
アレンは無言のまま、包帯の巻かれた左手にずっしりと重い工具を握り直すと、ルチアの正面に腰を下ろした。
「腕を伸ばせ」
低く短い指示。ルチアはおずおずと左腕を差し出す。
アレンの傷だらけの指先が、ガタの来た継ぎ目に触れ、一本一本の螺子を慎重に緩めていった。
装甲板が外れ、複雑に噛み合った内部の構造が露わになる。
右手が使えないアレンは、工具の柄を左手の掌で包み込むように持ち、ミリ単位の角度を調整しながら慎重に内部ピンを押し込もうとした。
だが、反対側からパーツを固定する手が足りず、微細なギアがカチリと逃げてしまう。
──すっ。
アレンが息を呑む前に、真横から細いピンセットが差し出され、逃げかけたギアの軸をぴったりと押さえた。
エレノアだった。
「……助かる」
「いいえ」
言葉はそれだけだった。長年、工房で背中を合わせ続けてきた二人ならではの、息の合ったあうんの呼吸。
アレンの手元に影が落とし込まれないよう、エレノアは空いた片手でランタンの位置をさりげなくずらし、最も手元が明るくなる角度へと調整する。
完璧なサポートを受けながら、アレンの指先はさらに内部深くへと分け入っていく。
「……妙だな」
アレンの手が止まった。
関節の稼働軸に取り付けられた固定ボルト。その穴の縁が、荒々しく不自然に削り広げられている。
さらに奥の装甲裏へ視線を滑らせ、そっと指先で触れると──使い古された薄い革と、幾重にも重ねられた柔らかい綿布が、不格好に縫い付けられていた。
アレンの指先に、何度も洗われた布特有の柔らかさが伝わる。
「……この布と革は?」
アレンの問いかけに、ルチアは少し気まずそうに視線を落とした。
「あ……それ、お父さんの古い上着なんです。私が『金属が当たって痛い』って泣いたら、お父さん、自分の服をハサミで切り刻んで……夜遅くまでランプの下で、慣れない針と糸で縫い付けてくれて……」
「……」
「ボルトの穴も……私が大きくなるたびに、手首がキツくなったって言ったら、お父さんがヤスリでカンカン削ってくれて。だから、どんどん傷だらけになって……不格好になっちゃったんです」
アレンは無言のまま、削られたボルト穴の角度をじっと見つめた。
削り跡の角度が、一段階ごとに微妙に異なっている。一度に削ったものではない。一か月、半年、一年──少女の手首の成長に合わせ、何度も、何度も削り直された証拠だった。
アレンは無言のまま、削られたボルト穴、重ねられた布、そして目の前のルチアの細い手首へと、順に視線を往復させた。
……数秒の静寂。
「……そうか」
アレンの胸の中で、バラバラだったパズルのピースが一つに繋がった。
「……この義手を作ったやつは、素人だがバカじゃねぇ。お前の手を……毎日、ずっと見てなきゃ、こんな工夫はできねぇよ」
「え……? で、でも……違います……そんな立派なものじゃ……っ。お父さん、すごく不器用だったから……」
突然の言葉に戸惑い、ルチアが首を振る。
アレンはルチアの言葉を静かに遮った。
「だからだ」
低く、揺るぎない声だった。
「器用なら、最初から綺麗に作る。」
「不器用だから、毎日直した。」
「……それが、お前の親父だ」
「お父さん……っ」
ルチアの目から、溢れ出た大粒の涙がポロポロと作業台の上にこぼれ落ちた。
周りからどれだけ「ゴミだ」「捨てろ」と言われても、手放せなかった理由。亡き父親の愛が、確かにそこに残っていたのだ。
エレノアがそっと歩み寄り、泣きじゃくるルチアの肩に優しく手を添え、柔らかいハンカチを差し出した。
アレンは包帯の巻かれた左手で、作業台を強く押し叩くようにして立ち上がった。
涙を拭う少女を、傷だらけの職人は真っ直ぐに見つめた。
「安心しろ。お前の親父が繋いできた手は──俺が繋ぎ直してやる」
少女は何かを言おうとして、声にならなかった。
ただ何度も何度も頷き、差し出されたハンカチで必死に涙を拭った。
ようやく安堵の息を漏らすと、エレノアに促されて奥のソファで静かに横になった。
アレンは作業台へ戻ると、ランタンの灯りの下で義手の最深部──動力を伝達する密閉ギアの解体にかかっていた。
──チリ、と小さな金属音が響く。
取り外された最奥の螺子を指先で拾い上げた瞬間、アレンの眼光が冷たく鋭く光った。
黒ずんだ真鍮の中で、その螺子ひとつだけが、異質な精緻さを放っていた。
歪みひとつない完璧な螺旋。素人の父親が、街の廃材を集めて作れるような代物では到底ない。
(……これは……?)
アレンの脳裏に、今朝工房に現れた「黒いフードの男」が持ち込んできた、あの不穏な精密機構の影がふっと重なる。
静まり返った工房の中で、アレンの視線だけが、その一本の螺子から離れなかった。
(第75話:『小さな依頼人』 ・ 完)
(次回「第76話:『受け継ぐ手』」へ続く)




