第74話:『動き出す影』
朝の柔らかな日差しが差し込む工房の静寂を切り裂くように、一人の男が足早に入ってきた。
男は頭から深く黒いフードをかぶり、左右と背後を三度、執拗に確認してから内鍵を下ろした。
奥でパーツの整理をしていたエレノアが、咄嗟に作業台の陰で息をのむ。男の立ち振る舞いには、あからさまな凶暴さと潜伏者の殺気が漂っていた。
「……アレン、か」
低く掠れた声とともに、男は抱えていた汚れた布をテーブルの上に置いた。布がはだけ、中から姿を現したのは──黒ずんだ真鍮と、複雑に噛み合った見たこともない密閉式の精密機構だった。
外装に刻まれた不可解な刻印。
油とも火薬ともつかない異質な匂い。
アレンが積み重ねてきた経験が、冷たい警鐘を鳴らしていた。
「……直せるか?」
男が身を乗り出し、ギラついた眼光で迫る。
アレンは包帯の巻かれた左手をかばい、低く返した。
「素性が分からねぇモノは触らねぇ主義だ」
「金なら支払う。街の噂を聞いて来た……『左手の職人』なら、これを直せるはずだとな」
男はズシリと重い革袋を作業台に投げ出すと、去り際に一瞬だけアレンの傷ついた左手に視線を落とした。
「……なるほど。噂通りの手だ」
それだけを残すと、男はアレンの返事を待つこともなく風のように工房を去っていった。
「アレン……追いかける?」
「いや……関わるな。……仕事の匂いじゃねぇ。」
作業台に残された不穏な装置を凝視しながら、アレンは深く眉をひそめた。
アレンの再起は、静かな街の底に潜んでいた「不穏な影」をも、確実に引き寄せ始めていた。
同じ頃──街を見下ろす北側の丘の上。
夕涼みの風が吹き抜ける木陰に、一人の女が静かに佇んでいた。
ぴったりとした黒革の旅衣装に身を包み、高精度な双眼鏡でアレンの工房を覗き込んでいる。
彼女の名は、シェリー。帝国情報局に所属する密偵だった。
『──観察だ』
脳裏に響く主・ハインリヒの声を背に、シェリーは左手一本でヤスリを走らせるアレンの姿をじっと捉えていた。全盛期のキレはない。だが、一度途切れたはずの職人の執念が、指先には恐ろしいほどの精度で宿っていた。
シェリーは静かに双眼鏡を下ろすと、腰の革ケースから小さな手帳と鉛筆を取り出した。
『・左手のみで作業継続』
『・精度低下軽微』
『・危険性:技術ではなく、人を惹きつける存在感』
淡々と記帳を終えると、シェリーは闇に溶け込むように姿を消した。
ただじっと危険度を測る「帝国の影」が、工房の周りを静かに漂い始めていた。
日が落ち、街が深い茜色から濃紺へと染まり始めた頃。
工房の扉の前で、小さな影がひとつ、長いためらいとともに立ち尽くしていた。
十四、五歳ほどの少女──ルチアだった。
つぎはぎだらけの薄い衣服を纏い、右手で抱えるようにして庇っている「左腕」には、あまりにも不恰好で古びた機構義手が装着されていた。
引き返そうと踵を返しかけた瞬間、昼間に港の裏手で出会った荷揚げ作業員・マルコの言葉が蘇る。
『あそこのアレンさんなら……どんなに不格好な手でも、絶対に見捨てねぇ』
ルチアは溢れそうになる涙を堪え、勇気を振り絞って固い木枠を叩いた。
──コン、コン。
ギギ……と重い木枠の扉がゆっくりと開く。
そこに立っていたのは、左手に包帯を巻き、油と金属の匂いを漂わせた男──アレンだった。
「……ここが、アレンさんの工房ですか……?」
震える声で差し出された、少女の左腕。
アレンの視線が止まった瞬間、包帯の巻かれた左手がわずかに動いて義手の装甲に触れた。
──ギガッ、ガチリ。
不快な金属音が響き、義手の指先が不自然に固まって止まる。
「ひっ……! ご、ごめんなさい! 触ると……触ると、すぐ止まっちゃうんです……っ」
ルチアは慌てて左腕を引っ込め、泣きそうな顔で肩をすくめた。
「みんなに……『こんな古いもの捨てろ』って言われました。買い替えろって……。でも……でも、これ……お父さんの形見だから……っ。新しくなんて、したくないんです……!」
ボロボロと溢れ出す涙を必死に拭いながら、ルチアは諦めたようにうつむき、ぽつりと呟いた。
「……やっぱり、無理ですよね。」
ルチアが力なく背を向けかけた──その時だった。
無言のまま歩み寄ったアレンが、ルチアの不格好な義手を、包帯の巻かれた左手で優しく、だが力強く受け止めた。
アレンは傷だらけの指先で、錆びついた関節のギアをひとつひとつ、確かめるように回した。
カチリ、カチリと無機質な感触が指先へ伝わった。
その義手は壊れていた。
何度も修理を繰り返し、何度も壊れ、それでもなお使われ続けてきた跡が残っている。
──壊れたままじゃ、終われねぇ。
アレンの指先に、静かな熱が伝わる。
数秒の沈黙の後、アレンは義手から手を離すと、深く低く言った。
「……中へ入れ。」
ルチアが目を見開いて顔を上げる。
アレンは答えも待たずに背を向け、工房の奥へと歩き出していた。
エレノアは少女に小さく微笑むと、温かいお茶の準備のために椅子を引いた。
ルチアは一歩だけためらい、それでも小さく頷くと、温かな灯りの中へ足を踏み入れた。
遠く丘の上では、その小さな灯りを見つめる双眼鏡が静かに閉じられていた。
(第74話:『動き出す影』 ・ 完)
(次回「第75話:『小さな依頼人』」へ続く)




