第34話:泥を啜る亡命者
自由貿易都市デヴォンの夜は、欲望と活気に満ちている。だが、大広場を見下ろす高台に建つレストラン「天龍の食卓」の裏門には、それらとは無縁の、死の匂いを纏った影が一つ、崩れ落ちるように現れた。
「……はぁ、はぁ……。ここまで、来れば……」
男の衣服は裂け、血と泥に塗れている。かつて王国の影として冷徹に任務をこなしていたヴェイルの面影は、そこにはなかった。彼は震える手で、勝手口の扉を叩いた。
「誰だ、こんな時間に」
扉を開けたのは、閉店後の片付けをしていたレンだった。背後には、異変を察知して毛を逆立てたミナが控えている。
「レン、殿……。ベルナルド様が、陛下に……」
ヴェイルはそれだけ言うと、糸が切れた人形のように石畳の上へ倒れ込んだ。
「……ひどい。全身、魔法の火傷と斬り傷だらけだわ」
ミナが手際よく応急処置を施す中、レンはヴェイルを客席の椅子に寝かせた。琥珀が静かに傍らに立ち、その黄金の瞳でヴェイルの消耗しきった魔力を観察している。
「主よ。この男、心神を喪失しかけている。肉体の傷よりも、忠誠を誓った主を奪われた絶望が深い」
数刻後、気付け薬代わりの香草茶でようやく意識を取り戻したヴェイルは、絞り出すような声で王宮の惨状を語った。ベルナルドの投獄、内務大臣の専横、そして自分を逃がすためにベルナルドが囮になったこと。
「……私は、泥を啜ってでも生き延びろと言われた。だが、あの方がいない王国に、守るべき価値など……」
自嘲気味に笑うヴェイルの瞳は、完全に光を失っていた。精神的なショックで消化器官も弱り、魔力も底を突いている。
「……ミナ、厨房の火を入れろ。ヴェイル、お前にはまだ死ぬ資格も絶望する資格もねえよ」
レンは厳しい口調でそう言うと、厨房へ向かった。今のヴェイルに必要なのは、同情の言葉ではない。折れかけた心を無理やり叩き起こす、暴力的なまでの「活力」だ。
調理:特製スタミナ生姜焼き定食
レンは万象市場の画面を激しく弾き、最高級の食材を召喚した。
霧島産・極上豚肩ロース:ビタミンB1が豊富で、疲労回復に特化した最高級の赤身。
高知県産・黄金生姜:血行を促進し、胃腸の働きを強制的に活性化させる。
青森県産・熟成ニンニク:滋養強壮の極致。
まず、厚切りの豚肉を叩き、筋を切る。鉄板の上でラードを熱し、肉を一気に焼き上げる。表面がカリッと香ばしくなれば、すり下ろしたばかりの黄金生姜とニンニク、そして秘伝の再仕込み醤油を合わせたタレを豪快にぶち込んだ。
ジュワァァァッ!!
厨房から溢れ出したのは、甘辛い醤油の焦げる香りと、生姜の爽やかな刺激。その匂いが、意識を朦朧とさせていたヴェイルの鼻腔を真っ向から貫いた。
「……くっ、この、匂い……」
ヴェイルの胃が、本能的に悲鳴を上げた。レンは炊きたての白飯と、たっぷりの千切りキャベツを添えた皿を、ヴェイルの前に叩きつけた。
「食え。味覚が死んでても関係ねえ、胃に流し込め」
ヴェイルは震える手で箸を握り、肉を一切れ口に運んだ。
生姜の熱い刺激が舌を叩き、その直後、豚肉の濃厚な旨味とタレのコクが波のように押し寄せる。
「ッ……!!」
噛みしめるたびに、豚肉に含まれるビタミンと生姜の成分が、ボロボロになったヴェイルの神経系に直接作用し始める。血流が激しく加速し、冷え切っていた指先に熱が戻る。
「……あつい。腹の底から、何かが……」
ヴェイルは夢中で飯を掻き込んだ。泥を啜り、絶望に沈んでいた男が、今はただ、生きるための「味」を求めて肉を貪っている。キャベツの千切りが脂を中和し、さらなる食欲を呼び込む。
完食した頃、ヴェイルの顔には赤みが差し、その瞳には再び鋭い光が宿っていた。
「……レン殿。感謝する。この生姜の熱さ……忘れていた自分を思い出させてくれた」
ヴェイルは力強く立ち上がり、深く頭を下げた。レンは空になった皿を片付け、琥珀とミナを見渡した。
「ヴェイル。ベルナルドさんは、俺の料理を認めてくれた数少ない一人だ。その恩人が不味い監獄飯を食わされてると思うと、シェフとして我慢ならねえ」
レンは厨房のナイフを研ぎ、不敵に笑った。
「ベルナルドさんを救い出すぞ。……ついでに、あの腐った王宮の連中の胃袋も、俺の料理でひっくり返してやる」
美食の王国の建国。その最初の宣戦布告は、静かな深夜の厨房で、生姜焼きの香りと共に決議された。
状況:外交大臣ベルナルド投獄の全容を把握。救出作戦の立案へ。
料理:特製スタミナ生姜焼き定食
保有ポイント:プラス38,000




