第31話:紅蓮の吐息
厨房に漂う、鼻を突くような花椒と唐辛子の香気。美食ギルドの面々がその衝撃に打ち震える中、一人、別の意味で悶絶している者がいた。
「ひゃうっ!? ……あ、あつ、ひゃあぁあぁ! 舌が、舌が燃えてるわよレン!」
魔将ゼナだった。彼女は四本の魔腕をデタラメに振り回し、顔を真っ赤に染めて涙目で悶えている。魔王軍の幹部として数多の戦場を潜り抜けてきた彼女だが、四川風麻婆豆腐の容赦ない「麻」と「辣」の洗礼には、防御魔法も全く意味を成さなかったようだ。
「……おい、大丈夫か? ゼナ、そんなに辛いの苦手だったのかよ」
レンが呆れ半分に声をかけると、ゼナは「ひー、ひー」と荒い息をつきながらも、スプーンを止めることはなかった。
「……辛い、信じられないくらい痛いのに……止まらないのよ! この挽肉の旨味と、痺れるような感覚が……悔しいけど、最高に美味しいわ!」
彼女は最後の一口を白飯と共に掻き込み、ふぅ、と長い溜息をついた。その瞳には、熱気による潤みと、どこか満足げな色が混じっている。料理バフによって彼女の魔力はさらに研ぎ澄まされ、周囲の空気が微かに震えるほどのプレッシャーを放っていた。
だが、ゼナはふと真剣な表情に戻り、エプロンの端で口元を拭った。
「……さて。いつまでも、ここで油を売っているわけにはいかないわね」
「え?」
レンが手を止めると、ゼナは窓の外、魔界へと続く遠い空を見据えた。
「私は魔王軍の魔将。偵察のつもりで紛れ込んだけど、流石にこれ以上長く空けると、あの方が黙っていないわ。……仕事に戻らなきゃいけないから、お別れね、レン」
ゼナはそう言うと、背中から漆黒の巨大な羽を広げた。その禍々しい魔力は、先ほどまでの「食いしん坊な居候」の面影をかき消し、冷徹な軍の幹部としての風格を取り戻させていた。
「ゼナ……。そうか、寂しくなるな」
「勘違いしないでよ。次に会う時は、魔王軍があなたの店を接収しに来る時かもしれないんだから。……まあ、あの方に報告する時に、少しは色をつけておいてあげるけど」
ゼナは不敵に微笑み、レンの肩を軽く叩いた。
「ごちそうさま。あなたの料理、一生忘れないわ。……特に今の、地獄みたいに辛いやつはね」
漆黒の羽が力強く羽ばたき、ゼナの体は一瞬で夜空へと消えていった。
琥珀が静かに空を見上げ、低く唸った。
「……主よ。あの魔族、最後まで本性を隠し通したな。だが、その魂には主の料理の刻印が深く刻まれている。案外、敵にはならぬかもしれんぞ」
魔王城・玉座の間
深い闇に包まれた魔王城の最奥。
玉座に鎮座する巨大な影の前に、膝をつく一人の少女がいた。
「報告を。ゼナよ。人界で何をしていた。勇者召喚の動向はどうなった」
重々しく、空間そのものを震わせるような魔王の声。ゼナは頭を下げたまま、澱みなく言葉を紡いだ。
「はっ。召喚された勇者は三人……いずれも傲慢な小僧共で、脅威にはなり得ません。……しかし、報告すべきはそれではありません。勇者の数から外された『四人目』。相良レンという男が、世界の理を書き換えようとしています」
ゼナは、ハルナ平原での出来事、天龍の進化、そしてデヴォンで起きている「美食による序列の崩壊」を克明に伝えた。
「……彼は食糧を無から生み出し、それを食べた者に絶大な力を与えます。既に王国の精鋭や、我が軍の末端までもが彼の胃袋に調略されました。……あの方は、魔族でも人間でもない、第三の勢力『美食の王国』を築こうとしています」
魔王の影が、微かに揺れた。
「……面白い。我が魔力をもってしても、空腹を満たすことはできぬ。その男、我が城の料理長として招く価値があるか?」
「……今の彼を力で屈服させるのは難しいかと。彼は、相手が魔王であろうと『礼儀のねえ客には飯は出さねえ』と言い切る男ですから」
ゼナの脳裏に、麻婆豆腐の痺れるような味が蘇る。
魔王は低く笑った。
「よかろう。泳がせておけ。……だがゼナよ。お前の魔力が、以前より洗練されているのは……その男の『毒』によるものか?」
「……毒、ではありません。それは、最高に不快で……最高に温かな、『馳走』という名の魔法でした」




