第22話:旅する厨房
朝の冷気の中、焼きたてのパンの香りがハルナ平原に静かに広がっていた。レンは屋台のカウンター越しに、温かなスープを啜るヴェイルと、パンを千切って口に運ぶゼナを交互に眺めた。
「……借金を返すにしても、この聖域を維持するにしても、今のままじゃジリ貧なんだ」
レンがポツリと漏らした言葉に、ヴェイルが顔を上げた。
「ジリ貧、か。確かに今のハルナ平原には、君の料理に心酔した者たちしかいない。だが、ここは本来、死の大地だ。外からの流入がなければ、経済も情報も停滞する」
「だから決めたんだ。こっちから出向くことにする。各地を回って、俺の料理を食わせる。そして、この美食の聖域の存在を世界中に宣伝してやるんだ」
レンの宣言に、その場にいた全員が動きを止めた。
「……面白いじゃない。なら、私の知っている場所を教えてあげる」
ゼナが唇についたパン粉を指で拭いながら、不敵に笑う。
「魔界との境界近くにある自由貿易都市・デヴォン。そこは種族の垣根が低く、珍しい食材が集まるけれど、味はどれも最悪。あなたの料理を持ち込めば、一晩で街のパワーバランスが変わるわ」
「待ってくれ。それなら王国北方のアイアンフィスト炭鉱街の方が優先度は高い」
ヴェイルが割り込むように身を乗り出した。
「あそこは王国の重税と飢餓で民が疲弊している。だが、彼らは頑固で腕のいい鍛冶師の集まりだ。君が彼らの胃袋を掴めば、ハルナ平原を維持するための最高の設備や道具を、彼らは喜んで作ってくれるだろう」
魔将は魔界に近い交易都市を、工作員は王国の辺境の技術者の街を推す。それぞれの思惑が絡み合う中、レンは腕を組み、背後で控えていたミナと琥珀に視線を送った。
「ミナ、琥珀。二人はどう思う? どっちから行くべきか、判断を任せたい」
信頼を寄せられた二人は、顔を見合わせて深く頷いた。ミナは灰猫族としての鋭い感覚と地理的な知識を、琥珀は数百年この世界を見続けてきた天龍としての俯瞰的な視点を持っている。
「……分かりました、レン様。私と琥珀さんで順番を決めます」
ミナは地図を広げ、琥珀と共に真剣な表情で話し合いを始めた。
「デヴォンは食材の宝庫だが、今のレン様のポイント残高では、いきなり高い元値を払うのはリスクがある……」
琥珀が低い声で分析する。
「一方で、アイアンフィストの炭鉱夫たちは、今は貧しいけれど、彼らが一度美食の虜になれば、その口コミは王国全土に火のように広がるわ。それに、彼らの作る頑丈な鍋や調理台は、これからの移動販売には不可欠よ」
ミナが指先でルートをなぞる。
「……決まりました、レン様。まずはヴェイルさんの提案した、アイアンフィスト炭鉱街を目指しましょう」
ミナが真っ直ぐな瞳でレンを見つめる。
「そこで彼らを最高に元気にして、移動式の大型キッチンを特注しましょう。その後に、デヴォンへ乗り込んで、世界中の珍しい食材を買い叩く……いえ、買い集めるんです」
「なるほどな。道具を揃えてから、仕入れに向かう。合理的だ」
レンは二人の判断に満足して頷いた。
「よし、アイアンフィスト炭鉱街が最初の目的地だ。移動手段は……」
レンが視線を向けると、琥珀が誇らしげに翼を広げた。
「我が主に二度手間は取らせん。屋台も、バギーも、主も、まとめて我が背に乗せて運んでみせよう」
「琥珀、頼もしいな。……ヴェイル、ゼナ。あんたたちも、自分の国に帰るついでに道案内くらいはしてもらうぞ」
レンは不敵に微笑み、スマートフォンの画面を操作した。まだマイナスは消えていないが、次なる目的地が決まったことで、システムには「新たな商圏の開拓」という項目が輝き始めていた。
「美食の王国、第一回・世界出張販売。……出発だ!」
ハルナ平原に、琥珀の天龍の力強い咆哮が響き渡る。
伝説の龍がその巨大な爪でバギーと屋台を抱え上げ、朝日の中へと力強く羽ばたいた。
目指すは、鋼と飢餓の街。
レンの料理が、次にどの絶望を救うのか。旅する厨房の第一歩が、今ここに刻まれた。




