第19話:満腹の静寂
ハルナ平原の広場を埋め尽くしていた殺気は、メープルシロップの甘い香りに溶かされ、跡形もなく消え去っていた。
あれほど荒れ狂っていた勇者タカシは、空になった皿を抱え、子供のように鼻をすすりながら地面に座り込んでいる。魔王軍の魔将、ゼナもまた、漆黒の四本腕をすっかり収納し、最後の一口のプリンを惜しむように咀嚼していた。
「……信じられない。ただの砂糖と卵の塊が、これほどまでに魔力の波形を穏やかにするなんて。魔界の理にはない事象だわ」
ゼナが呆然と呟く。彼女の紫色の瞳からは、先ほどまでの冷徹な光が消え、一人の少女としての困惑が覗いていた。
「これだよ、これなんだよ……。聖剣なんてどうでもいい。俺が欲しかったのは、この本物の味だったんだ……」
タカシの独り言に、レンは苦笑しながら屋台の布巾で手を拭いた。だが、そんな穏やかな空気を切り裂くように、レンのポケットでスマートフォンが激しく震えた。
緊急通知:システム制限警告
累積債務:マイナス15,000ポイント
貸付限度額に到達しました。
万象市場の全ての機能を一時凍結します。
新たなポイントを獲得し、債務を減少させるまで、商品の注文や召喚は一切行えません。
ペナルティー:
これより1時間ごとに100ポイントの滞納利息が発生します。
「……げっ、マジか」
レンは顔を引きつらせた。皆を黙らせるために最高級の食材を注ぎ込んだ結果、ついにカードが止まったような状態になってしまったのだ。これでは、次に誰かが襲ってきても土嚢袋一つ召喚できない。
「レン様? 顔色が悪いですが……」
ミナが心配そうに覗き込んでくる。レンは、いや、ちょっと使いすぎたと誤魔化し、依然としてプリンの余韻に浸っているヴェイルに向き直った。
「さて、ヴェイルさん。お菓子パーティーは楽しんでもらえたかな?」
ヴェイルはハッと我に返り、口元に残った生クリームを慌てて拭った。
「……コホン。ああ、確かに素晴らしい味だった。相良レン、君の持つ二つの権能の真価、この身を以て理解したよ。だが、それゆえに君を野放しにはできない。ベルナルド様は、君を王国の、ひいては世界の秩序を守るための中枢として求めている」
「保護、って言いながら閉じ込めるつもりだろ?」
レンが冷たく返すと、ヴェイルは言い淀んだ。彼自身、レンの作るこの自由な食卓を壊したくないという思いが、喉元まで出かかっていたからだ。
「……私の国に来れば、もっといい食材をあげる」
ゼナが突然、レンの服の裾を掴んだ。
「魔界には人界にない魔力野菜も、希少な魔獣の肉もある。あなたをウチの筆頭料理長として迎えるわ。そうすれば、こんな砂漠で誰かに怯える必要なんてない」
「おい、待てよ! レンは俺たち勇者の仲間だろ! 王宮に戻って、俺に毎日ハンバーガーを作らせるんだ!」
タカシが割って入るが、琥珀がその前に立ちはだかり、低い唸り声を上げた。
「……どいつもこいつも、やはり何も分かっておらぬな」
琥珀の黄金の瞳が、一同を射抜く。
「主が求めているのは、誰かの家来になることでも、誰かの道具になることでもない。主の料理は、飢えた者に等しく手を差し伸べるためにある。それを理解できぬ者に、主を語る資格はない」
広場に再び緊張が走る。ポイントが凍結され、物理的な防衛手段を失ったレン。だが、彼の手には、たった今みんなで食べた甘い記憶が残っている。
「……なあ。提案があるんだ」
レンは、空になった大皿を掲げて全員を見渡した。
「ベルナルドさんにも、魔王様にも、王様にも伝えてくれ。俺はどこにも行かない。このハルナ平原で、誰でも飯が食える店を開く」
「店……だと?」
ヴェイルが驚きに目を見開く。
「そうだ。王国の精鋭だろうが、魔王軍の将軍だろうが、腹が減ったらここに来ればいい。金じゃなく、月華菜や希少な食材、あるいは、この平原を守るための労働を対価にしてな。それが俺の出す、唯一の和平条件だ」
レンの言葉は、この世界の常識ではあり得ないものだった。敵対する勢力が同じ場所で飯を食う。そんなことが実現すれば、それはもはや国や種族の枠を超えた、新しい勢力の誕生を意味する。
「……ククッ、面白いわね。魔族と人間が同じテーブルに着くなんて。でも、あなたの料理のためなら、魔王様を説得する価値はあるかもしれない」
ゼナが不敵に笑い、レンの手を離した。
「……私も、ベルナルド様に報告しよう。君を保護するのではなく、この地を永世中立の美食特区として認めるべきだとね」
ヴェイルもまた、記録石を手に取り、覚悟を決めたような表情を見せた。だが、レンの内心は冷や汗でいっぱいだった。
(……カッコいいこと言っちゃったけど、今、俺のポイントはマイナス15,000なんだよな。滞納利息がつく前に、なんとかしてポイントを稼がないと……!)




