宣言
ヴォルフガング・アルベリィ・パウリルハラが中隊長エヴァンジェリスタの所有する訓練施設で鍛練を終え使用人共同浴場へ行くと、乳白色の湯船には既に先客がいた。
座っていても解る長身と、耳に少しかかる程度に切られた黒髪。そして性格の気安さを考えればおよそ正反対の迫力を備えた強面の顔。――ヴェルナー・リンゼンベルク・パスクル。顔立ちとしては精悍で結構な男前であるのに、右側こめかみから頬に大きな傷痕が走り、強面が余計迫力を増し他人に敬遠されがちだ。生き残った中隊の中では騎士歴が一番長い古株だが、ヴォルフガングは新人の頃から隊の中で一番話しやすい相手がヴェルナーだった。ヴェルナーは家が武家である為武術に関しては騎士団の中でも突出して優れているが、顔の怖さと体裁の一切を気にしない雑さが災いし、出世に全く縁が無い。
「おはようございますヴェルナーさん!今日は随分早いですね!」
「んあ?…あー、ヴォルフガング。おはよーさん」
「…何か、疲れてません?」
のんびりと言うよりげんなりした様相で返事をしたヴェルナーに、思わず目を瞬いて首をかしげる。手桶で湯を浴びヴェルナーの隣に並べば、ヴェルナーの口からそれはそれは深い溜め息がこぼれ落ちた。
「ど、どうしたんですか一体?そんなに疲れてるヴェルナーさん久しぶりに見ましたよ、自分」
「…あー、ついさっきまで中隊長の説教を受けててよ。いやー…何度見ても慣れねぇわアレ」
「うわっ…」
思わず漏らした声に一度口をつぐみ、身を縮めて小さく苦笑を浮かべる。
「…それはそれは…、あぁ帰ってきたんですね中隊長」
「ああ。何の用だったかは濁して教えてくれなかったけどな」
顔をひきつらせたヴォルフガングの脳裏をよぎったのは、エヴァンジェリスタの凄みのある色気を全開にして笑う姿だった。中隊長たる彼は滅多なことでは怒りを露にしないが、その分本気で怒ると信じられないくらい恐ろしい。しかもその怒り方と言うのが、怒鳴り付けたりせずただ淡々と正論を並べ、その間目だけが笑っていない笑顔で妖艶に見詰めてくるという、精神的にかなりキツい怒り方をするのだ。軽くトラウマになる程度には後をひく。
思い出した上官の姿にヴォルフガングがぶるりと身震いすると、ヴェルナーが苦笑して肩をすくめた。
「まぁ今回のは俺がメインで説教受けた訳じゃねぇからそれほどでもないけどよ。リツさんスゲェ顔色で顔ひきつらせてたぜ」
「リツさん?うわっリツさんが説教受けてたんですか!あーとうとう…」
「あの人基本ポーカーフェイスだろ?それが歪む位だから中隊長のアレ相当だよな」
くく、と苦笑気味に笑みをこぼすヴェルナーに、ですよねぇと頷き、ヴォルフガングは持っていた手拭いを首にかけた。後ろで使用人が来たのか、ざぶりと人の入る気配がし、広い風呂とは言え邪魔にならないよう位置を変える。
「しかしそんな怒られるような何をしたんですか?ヴェルナーさんが含まれるってことは大聖堂の件とは別件ですよね」
「あぁ、…俺も詳細は深く聞けて無いんだが…早朝に不審者がいてな、そいつらをリツさんがのしたんだわ。五人中四人はリツさんが片付けてたから俺はそう役に立ってねぇけど、ギリギリ現場には間に合ったもんで当事者になるから―――まぁそれでリツさん腕折られちまってて、部屋戻ったら帰ってた中隊長と鉢合わせてな」
「ふ、不審者?あの状態で不審者のしたんですかリツさん?」
ああ、と頷いたヴェルナーにヴォルフガングは束の間茫然とした。リツが目覚めたとバートランドの連絡を受け、ヴォルフガングが駆け付けたのはまだ昨日の昼の話だ。駆け付けた先で見たリツは、動くのもだるそうにして時折眉間に皺を寄せながら食事を取っていた。その、絶不調な状態で刀を持ち、あまつ五人同時に相手をして四人倒したというのか。
ふとヴォルフガングの脳裏に、ニールスの森で垣間見たリツの獰猛な笑みが過った。
―――顔の肌を覆う蔦模様。狂喜とも呼べる闘いへの姿勢。
「お前さ、王が非公式な部隊持ってるとか聞いたことあるか?」
「―――何ですか、それ?」
ヴェルナーの言葉に思い出しかけた何かが霧散した。気を取り直すように首をふってヴェルナーを見れば、黒い瞳はしばし何かを考えるように空を漂い、いや、と溜め息混じりに首を振った。
「知らねぇならいい。それより中隊長は王宮で何やってたんだろうな。二日間も帰ってこなかったのがどうにも気にかかる。…大聖堂踏み込んだ後ってのを思えばどう考えてもリツさん絡みだろ。匿っていたのが露見した、とか?」
「露見はどうでしょう、騎士が命令に背いたと知れれば処分の対象になるでしょうし、何の沙汰も無い現状からしてそれはないとは思うんですけど―――ああ、そういえばヴェルナーさん今朝部屋に居なかったから連絡受けてないですよね。リツさんの指名手配、取り消されましたよ」
「―――何?」
目を眇めた男にヴォルフガングは本当だと頷き、顔を引き締めると一番重要な追加情報を口にした。
「王自らリツさんの無実を認め、宣言したんです。―――曰く、『我々は大きな過ちをしていた。かの者こそ神に近しい人物である、丁重に王宮へ迎えたい』」
「………つまり形を変えた指名手配にした訳か」
「そう言うことです。中隊長の用はそれ関係じゃないでしょうか。濁した、というのは……リツさんに聞かせたくない内容だったのでは」
「あり得るな」
ふん、鼻を鳴らせて浴槽の縁にもたれたヴェルナーが、湯船の湯気を追いかけるように天井を見上げた。ぼそりと呟く。
「でも隠し通せるとは思えねぇなぁ。あの人聞かなくても状況考えただけで答えに辿り着くと思うぜ、そういう勘にやたら長けてっから」
「あー、それは…」
浮かんだリツの飄々とした顔を思い、ヴォルフガングは一度頼んだ手合わせの様子を思い出した。どこからどう見ても隙だらけなのに、実際武器を向けてみるとどこへ踏み込んでいいのか全く解らない――そんなリツに真正面から笑み混じりに見据えられて、ヴォルフガングは戦慄しながらも理解したのだ。リツは人が呼吸をするという当たり前の動作と同じくして刀を振るっているのだと。 隙だらけなのではなく、自然体であるだけだ。
「確かに。リツさんですからねぇ…。……ヴェルナーさん、中隊長は部屋ですか?」
「ん?あぁ、多分な」
「解りました。自分、ちょっと中隊長に挨拶に行くのでこれで失礼しますね」
おお、と片手を挙げたヴェルナーに頭を下げ、ヴォルフガングは湯船から立ち上がった。充満する湯気を払いながら脱衣所へ向かい、エヴァンジェリスタにどう意見しようかと視線を落とす。そこにカタナと呼ばれる武器が一振り立て掛けられているのを見つけ、ヴォルフガングはうん?と首をかしげた。
―――この黒いカタナ、どこかでよく見たような。
ヴェルナーの叫び声が聞こえたのは、ヴォルフガングがその持ち主に思い至ったと同時だった。
* * *
「なぁリツ、一つ聞くが何故部屋の浴室でなく共同風呂に入っているんだ?」
「私の故郷ではですね、裸の付き合いというものがあるんですよ。互いに無防備な素っ裸を晒し同じ風呂に入ることで親睦を深めようという意図がある訳ですが、エヴィも騎士団でやったことはありませんか?」
「そうだな、でもなリツ。お前の故郷ではどうか知らんが、ここではそういったものは性別の垣根を越えて行うものではないんだ。どうもまた忘れているようだから言うが、お前は女性なわけだから共同浴場を使用するのは多少問題だと思うんだ。というか問題なんだ」
ヴェルナーとヴォルフガングが慌しく去り、律がそのまま湯船にのんびり浸かっていると腰にタオル一枚のエヴィが現れ、律を見るなり冒頭の会話となった。湯気をかき分け現れた美丈夫に軽く手を挙げ挨拶した返事がこれで、律としてはまた説教なら勘弁して欲しいなと言うのが正直な感想だ。
「はぁ、では今後は気をつけます。まぁ今はとりあえず入ったらどうですか?風呂入りに来たんでしょう」
「……あぁ」
律が顎で隣をしゃくって言えば、エヴィは頭痛を堪えるような顔をして溜め息混じりに頷いた。呆れているのは解るが触れると面倒そうなのでそこには触れず、湯船に身を沈めるエヴィを横目で見て吐息を零す。ゆるゆると踊るように大気を舞う白い湯気に、微かに右腕がずきりとした痛みを放った。エヴィに説教を受けた後、律はエヴィが呼んだ治療師に骨の接着をしてもらった。確かに百年前は無かったはずの技術に律は驚いたが、さすがに完治させるまではできないらしく軽い痛みは残っている。それでも、治療は心底助かった。右腕は律の利き腕だ。刀を使う以上右腕の骨折は命取りになる。
律は溜め息をつくとなにやら難しい顔で虚空を睨んでいるエヴィに視線をやり、徐にその頭を下げた。
「すいませんでした」
「―――は?」
暫しの沈黙が落ち、それでも顔を上げずにいるとエヴィの溜め息がこぼれる。
「…顔を上げろリツ。謝罪は受け取った。―――が、襲撃の件は仕方ないとしても、大聖堂の件は別だ。約束を違え単独で動いた、その言い訳を聞かせてもらおう」
言いながらちらりと律を見てすぐ視線を戻したエヴィに、律は苦笑して首を振った。
「無い。その件の私の行動について、エヴィに納得してもらえるだけの言い訳を私は持ってません。だから約束破りの私はどんな罰でも可能な限り受けたいと思ってます」
「―――だから、何でお前は」
若干苛立ちを含んだ声にエヴィを見れば、その表情を歪めて悔しげな顔を浮かべていた。浴槽の縁に置いた手を強い力で握りしめている事が、白く色を変え微かに震えている拳から読み取れる。
「エヴィ?」
「…何でだ?何でお前は全てをそうやって、一人で背負おうとする?言ったじゃないか、一人で解決する癖を直せと。だいたい此度の件についてこの俺が、エヴァンジェリスタ・プレディーオール・トリチェリーが、お前を責めるなど出来るはずないじゃないか」
律は口を閉じ、白濁した湯に視線を落とした。微かに震えた声でなんで、とエヴィが言う。
「何で――何で言い訳をしない、してくれないんだ!リツが言い訳をしてくれなければ、俺は領民を守ろうとしてくれたお前に、礼はおろか謝罪することもできないじゃないか!」
「エヴィ。領民守る云々の前に、私が元凶だという事を忘れるな」
律の言葉に顔を上げ、エヴィが右目の若葉を揺らめかせて視線を向けた。プレディーオール侯爵、レイヴァンディエスタと大聖堂との取引をエヴィが知り、罪悪感に苛まれているのだと思うが、律からすればそもそもが違う。指名手配されていると解っていてエディンバへ行ったのだ。エヴィの事を思えば断らねばならなかったのに、好意に付け込みのこのこと着いていった。
「礼や謝罪より、むしろ私には恨みの言葉が正しい。だから私は恨みの言葉以外を聞きも受け取りもしない」
「お前…、」
顔に困惑を浮かべるエヴィにふん、と口の端を上げて、律はもたれていた背の縁に両肘を乗せた。あとは頭に手ぬぐいでも乗せればまるっきり風呂を楽しむおっさんと同じスタイルだが、エヴィはそれに突っ込むことなく慌てて視線を正面へ向け難しい顔で口を引き結んでいた。
「―――で。結局王宮に呼ばれた理由は何だったんです。さっきヴェルナーさんとヴォルフガングさんがここで話してたのを聞きましたが、王様また面白い事言い出したじゃありませんか。指名手配取り消しだって?」
「―――は?ヴォルフガングとヴェルナー?二人が居たのか?ここに?」
ぎょっとして再び顔を向けたエヴィに、律は頷いて肩を竦めた。
「いましたよ。何か目が合うと突然叫んで慌てて出て行きましたけど。ちょうどエヴィと入れ違いで」
そういえばヴォルフガングさんがエヴィに会いに行くと言ってましたよ、と思い出して付け加えると、エヴィは唖然とした顔で律を凝視していた。ん?と見返せばゆるゆると顔を伏せ、物凄く疲労感を湛えた溜め息を落とされる。
「何です、どうしたんだよエヴィ」
「…頼むから、律はもうここは使わないでくれるか」
「え?ああうん、いいけど何で?」
「何ででも!―――それで、王宮の件だが」
気分を改めるように手拭いで顔をふき、エヴィが言いながら顔一杯に渋面を浮かべる。続きを話すべきか話さざるべきか物凄く悩んでいる様子を見やり、律は苦笑した。
「すいません、聞き方が意地悪でしたね。―――私がエヴィの元にいるということを王が知ってるのは解ってます。エヴィが王宮から出られなかったのは目覚めた私が逃走しないよう人質という扱いだったからでしょう。そしてその間に私の処遇に関する議会決定があった。でしょ?で、議会決定はどうなったんです、首輪に鎖でもつけて幽閉ですか」
「…有る意味それに近い」
苦りきった顔で呻くように言い、エヴィが殊更低い声で嫌悪感一杯に吐き棄てた。
「リツの居場所がエディンバにあると『神』からご神託があった際、王は同時にリツの性別が女であることも知ったんだ。大聖堂がリツを捕らえられず逃亡を許した事を王はお怒りでな。――――女なら、リツを神聖なる女だと民に流し、側室に据え孕ませればいいと言い出した。聖女を王妃に迎えられなかったせいで、今の王は民の評価も貴族への抑制も酷い有様だからな」
なるほど、使い捨てする気で飼い殺すと言っている訳か。
「――ほらな、馬鹿は結局馬鹿馬鹿しい方法ばかり選択しやがる」
呟いた律に、エヴィが沈痛な面持ちで俯いた。数日中に招待と名を換えた強制連行が為される事は、エヴィのその顔が物語っていた。




