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神に告ぐ、幕は下りた  作者: 岸上ゲソ
13/19

正義

『ねー、りっちゃん。りっちゃんのさぁ、使ってるその武器ってさぁ』

『ん?』

 曇っていた刀身を律が無造作に拭っていると、一心不乱に刺繍の針を動かしていた[佳代子]がふと顔をあげて言った。

『それってめっちゃくちゃ重いよね』

『…重いって、これが?この刀よね?』

『うん。だってあたし持ち上げることもできないんだよそれ。ぜーんぜん、一ミリも』

 不満を目一杯顔に出し、ぷうと頬を膨らました[佳代子]に律は眉をひそめ、己の片手に軽く収まる刀を見やる。白く光を返す刀身はすらりと涼しげで、重さとは無縁なものに思えた。

 事実、律は今全く重いと思っていない。

『いっつもりっちゃんさ、それかるーく振り回してすっごいキレイじゃない。だからあたしも一回くらい振ってみたかったのにさー……』

『…本当に持てないの?何で?』

『知らないわよぅ!…あ、でもグレルのじーちゃんがそれはりっちゃんしかダメだって言ってたな』

 ぷりぷりと怒っていた[佳代子]が、ふと思い出したようにそう言った。そののんびりした物言いに律はふーんと流しかけて、しかし語られた内容の重要さに気付きぎょっとする。

『―――って、ナニソレ!?芽吹きの爺さんそんなこと言ってたの!?…うーわ、そうかこの刀の事何か知ってたのか…ちっくしょー聞き損ねた…』

 召喚時に神から渡されたこの刀は、使いやすいが謎が多い。折角得た知る機会だったのに、もはやそれは失われてしまった。

 やられた、と項垂れる律に、[佳代子]があらまぁと楽しそうに笑った。

『りっちゃん芽吹きの事色々教わってたわりにそういうことは何も教えて貰えなかったんだね。…あ、そう言えばじーちゃん、名前はさすがに無理かーとか愚痴ってたよ。なんの事?』

『え?あー、養子の件じゃないかな』

 きょとんと団栗のような両目が瞬いた。

『養子?養子になれって話だったの?グレルのじーちゃんも捧名持ってないから、それ関係かと思った』

『リーフォン・グレルロワナ…あ、そういえば無いな。でもそれとは違うよ、養子だと思う。だって家名変えるってそう言う事じゃない?』

『んー…わかんない』

 うーん、と眉間に皺を寄せて唸る[佳代子]の頭に、律は傍らへ刀を置き苦笑して手を伸ばした。捧名(ささげな)とは、この世界の人間が必ずもつ別名だった。名前・家名・捧名となっていて、名を捧げる事で神へ敬服を示しているのだとか、そんな話を聞いたことがある。

 焦げ茶に近い柔らかな癖毛を撫で、気持ち良さそうに目を閉じた[佳代子]に律は微笑んで一房掬った。艶やかな髪は律の指を抵抗なくすっと通し光を弾いて腰まで流れていく。[佳代子]の髪の毛は、本当に美しかった。少年王などと持て囃されているあの若造が一番気に入っているのもこの髪だ。

『ねぇりっちゃん』

『ん?』

『グレルのじーちゃんに種貰ったんでしょ?植えようよ』

『うん』

『…りっちゃん』

『ん?』

『私、りっちゃんが嫌い』

『…うん』

『でも同じくらい大好き』

『……』

『りっちゃん』

 するりと律の指からこぼれ落ちた髪の一房が、優しげに煌めいて佳代子の白い頬を滑った。


『私の事、忘れないでね』


『…うん』


 窓辺から注ぐ午後の日射しは暖かくしなやかで、聖女と呼ばれ崇められる十五の少女をふわりと包む。手元の刺繍は芽吹きの民が愛したというパンジーに似た花で、色鮮やかなそれは彼らが生涯を終えると必ず手向けられた花だったそうだ。

 ふと柔らかく吹いた風を受け、止まっていた針を[佳代子]が再び動かし始めた。律はそれをぼんやりと見ながら、一つ吐息を落として目を閉じた。



 それが律と佳代子がメイヴィーフォールに来て九年目、最後の芽吹きの民・リーフォン・グレルロワナが息を引き取った日の出来事だ。



 * * *



 ユズリンデ・オーフェン・アウラは、スープが入った器を持つ己の両手が震えているのを見て、内心今が夢であればよかったのに!と思った。それもこれも、今ユズリンデが言いつけられている仕事が、寄りによって聖女を殺した殺人犯に食事を届けることだからだ。何で私がこんな役、と心でさめざめ泣きながら、ユズリンデは目の前にそびえる大きく重厚な扉を見上げた。物言わぬそれは中の人間の狂暴さを表しているようで、先程までの大混乱を思い大きなため息をついた。


 大聖堂の転移門が唐突に開いたのは、昼間の事だ。

 転移門は神官にしか使用できない移動用の陣で、神殿がある場所にならどこにも設置されている。けれど中央の転移門が使われることは滅多になく、それ故に埃や塵が積もらぬようユズリンデのような神官見習いが朝晩掃き掃除を行っていた。そして今日の掃除当番だったユズリンデは、たまたま手が開いていたので晩の掃き掃除をその時やることに決めた。本当はきちんと晩にしたほうがいいのだが、時間は有効利用しなければねと鼻歌交じりに掃除道具片手に転移門がある部屋へ入り、それがユズリンデの運の尽きとなった。

 ユズリンデが扉を開けたときには既に陣が作動していて、床一面に描かれた複雑な魔術文字は輝きながら震えていた。神官見習いとなってまだ日の浅いユズリンデは陣が作動するのを見たことがなく、まず慌てふためいて掃除道具を取り落とし、お尻が汚れるのも構わずしゃがみこんだ。正直、座らないとちびりそうだったのだ。

 陣が輝きを増し、果たして現れたのは二日前に『神託が下った!』と大騒ぎしてどこぞかに行っていた姫様と神官の皆さま方であった。聖女が殺されてからというもの、何故だか大聖堂は民衆の来訪が少しずつ減ってきている。信仰心が消えたわけではないが、あまり熱心でもなくなったという感じだった。けれどそれはユズリンデにはいっそ自然な事のような気がして、上層の者達が異常事態だとやたらと騒いでいるのが不思議だと思っていた。異常だというのなら、むしろ今までの絶える事無い一途過ぎる民衆の信仰心の方が異常だ。それはユズリンデ自身が民衆と同じように、一途過ぎる信仰から穏やかな信仰へと変わって行っているのが解ったからこその納得だったが、上層のものにはそれがわからないようだった。だからというか、ユズリンデも民衆も姫様の御神託に懐疑的で、今回のこの行動の早さはどちらかというとそんな人々に向けての「本当ですよ」というアピールだろうと先輩の見習い神官が言っていた。大聖堂は発案から行動まで、時間がかかるというのがいつもの事だったからだ。

(あぁ、私はどうして昼に掃除なんかしちゃったのかしら)

 ユズリンデは食事の盆を手にしたまま嘆く。彼らが帰ったところにしゃがみ込む神官見習いがいて、なぜだか蒼い顔色をしている彼らと姫様に「そこのおまえ、この殺人犯の世話は任せました。拘束室に放り込んでおくからあなたが相手を頼みます」と黒い覆面をかぶらされてぐるぐる巻きにされている塊を指差しそう言い渡されてしまったのは、ユズリンデが下っ端である以上当然な事だった。溜め息を落とし、ユズリンデはこうしていても仕方がないと意を決して扉をノックする。こんこん、という若干おびえたような音に帰ってきた声は、けれどとても普通の、女性の声だった。

「はいー」

 そんな緊張感の欠片も無い声に、ユズリンデは目を瞬く。意外すぎるというか、ユズリンデは指名手配犯は男だと聞いていた。聞き間違いかと思い、扉の向こうへ声をかけてみる。

「あ、あの、…リツ・ムラカミさん、です、か?」

「そうですよ。指名手配されていたリツ・ムラカミです。もう話し合いは済んだのかしら」

 実にのほほんとした男とするには優しすぎるトーンに、ユズリンデは肩から力が抜けた。やはり、女性だったのだ。情報のほうが誤っていたわけで、そして声から察するに凶暴でどうしようもない暴漢だという噂も嘘なのかもしれない。断定はできないが、ユズリンデは一つ頷くと扉を開けた。

「し、失礼致します!お食事をお届けに参りました!…わ、私、神官見習いのユズリンデ・オーフェン・アウラです」

「―――ゆ、?」

 盆を持ったままぺこりとまずお辞儀したユズリンデに、声がとても意外そうに呟いた。顔を上げると、やはり予想した通りとても優しげな面立ちの、小柄な女性が手を縛られて座っている。耳が隠れるほどしかない短い黒髪に黒い瞳、腰に下がる黒い刀、それは手配書と一致するが、殺人だの凶暴なんて言葉からは程遠い。確かにぱっと見は小柄な男性に見えなくもないかもしれないが、やはり女性だ。ユズリンデは、こちらを驚いたように、いやむしろ何か衝撃的なことを聞いたと言わんばかりの顔で見ている相手にこれは何かの間違いじゃないかと思った。この人が本当にあの指名手配犯なのだろうか。一瞬どうしていいか解らず立ち尽くすユズリンデに、女性がふと笑って首をかしげた。

「…あぁ、すみません。丁寧にありがとう、ご存知の通り私はリツ・ムラカミ。リツと呼んでくださいね。…ユズ、リンデさん?」

「え、」

「あれ、違いました?」

 あまりもあっさりそう告げられ、目を丸くしたユズリンデに女性――リツが目を瞬く。その様子にユズリンデは慌てて首を振り、全然大丈夫ですと言った。

「違いません!ユズリンデです!」

「そうでしたか、そりゃ良かった」

 笑うリツがとても普通で、ユズリンデは完全に恐怖心を消し去った。この人は違う、と本能的な部分で思ったのだ。怖い人間ではないし、きっとこんな風になったのは理由があるはずだと。

 ―――いや、でも。

 心の奥で、警戒の声が囁く。そうやってすぐに何でも良い方に考えようとするから騙されるのだ。そもそもいくら優しそうに見えても殺人犯は殺人犯。先輩たちにももっとしっかりしろと何度も言われているじゃないか。

 ユズリンデは手に持っていた盆を見せ、相手に侮られないよう若干厳しい顔を浮かべて食事を渡すため近づいた。けれど、じりじりといかにもな警戒の仕方で近寄るユズリンデに、リツはただそれをにこにこと見ているだけだった。

「少なくて申し訳ないですが、栄養満点なスープです」

「はい、ありがとう。あ、スプーンはいりませんよ。手がこれですから皿から直接頂きます」

 縛られた手を見せてそんな事を言うリツに、ユズリンデはぎょっとして大慌てで首を振った。

「とんでもありません!そんな食べ方!…手、解きます。ご飯食べている間だけなら大丈夫だと思うし」

「え、そりゃ怒られますよ」

「食べてる間だけだから大丈夫です!」

 簡素なテーブルに盆を置き、むん、と胸を張るユズリンデに今度はリツが目を点にした。そしてしばらく妙な沈黙がその場に落ち、けれど何故だか急にまぶしいものを見るようにリツの目が細められた。たとえるならほほえましそうに、けれど寂しそうな―――それこそ、胸を突くほどの濃い寂しさを纏わせながら、少しだけ笑った。

「あ、あの?」

「…いえ、何も。約束しますよ、絶対に逃げたりしませんからね」

「は、はい!当たり前です!」

 ぶんぶんと首を縦に振って言えば、そうですねと苦笑気味に返された。ユズリンデはそこで漸く自分が拘束されている人間にとんでもない事を提案していたのだと気付き、顔色を変える。リツが目を点にしたのも当然だ。牢屋に入っている人に鍵明けるけど逃げないでと言ったようなものなのだから。

 けれど自分の発言の不味さに気付いて顔色の変わったユズリンデに、リツは笑うと戒められた手を差し出す事をせず、さっさとテーブルに置かれた皿に顔を近づけた。ユズリンデははっと目を見開いてそれまでの警戒も忘れ、自分でも驚く速さでリツの手に飛びついた。そして驚いているリツをよそに、急いできつく固結びされた縄を懸命にいじった。懸命にならなければ、涙が滲みそうだった。

(―――この人、)

 ユズリンデは、さっき見たあんまりなリツの姿は、自分がさせてしまった格好だと思った。ユズリンデが失言に気付いたのを知り、拘束を解かなくて良いと行動で示してくれたのだ。自分は囚人だから、気に病む必要もないのだと、何も言わない事でそれを伝えた。

(この人、悪い事なんかしてない!)

 何故だかユズリンデは、それを確信した。なかなか解けない縄をどうにか緩ませ、ふと至近距離で見たリツの瞳は静かにユズリンデを見ていた。真っ黒で、とても綺麗だった。それがユズリンデの母親のものとだぶり、思わずはっとして手を離す。ぱさりと落ちた縄に、けれど困ったような顔をしたのはリツだった。

「…ユ、」

「スっ、スプーンを!スプーンを使って食べてください!」

 リツが何か言うよりも早く、大急ぎでそう言った。解かれているのに動かそうとしない手にスプーンを押し付け、早く食べろとぐいぐいスープにそれを近づける。はたから見ると何だか無理にスープを食べさせようとしているようで微妙な光景ではあったが、ユズリンデは必死だった。

「落ち着いて。ちゃんとスプーンで食べますから」

 苦笑交じりの声が頭上から落ち、俯いて必死に食べさせようとしていたユズリンデはやっと冷静さを思い出した。神官たるものいつも冷静であれ、そう教えられてきたのに、今の自分と来たら―――。思わず涙ぐみながらリツを見ると、手が冷たいですね、冷え性?と言ってどうしてかちょっと楽しそうに笑っていた。・・・何かを、懐かしんでいるような気もする。

 そっとスプーンを握り、スープを口にし始めたリツを見ながら、ユズリンデは不思議な心地で立ち尽くしていた。どう見てもとても優しい、穏やかそうな女の人。二十代後半くらいだろうが、どうしてかあまり若々しさは感じない。けれど、その目はユズリンデを見る母親とそっくりで、見守られる心強さを思い出してしまう。

(…どうして、そんな目で私を見るんだろう)

「まだ、話し合いは終わらないんですか」

 出された粗末なスープを文句一つ無く口にしながら、リツがふと尋ねてきた。ユズリンデははっと思考に転びかけていた意識を戻し、先程覗いた会議室の様子を思って頷く。

「さ、さっきちらっと見てきたんですけど、何か凄く紛糾してました。神様とリツさんを会わせる場に、誰が同行するかで議論が長引いてるみたいです。みんな神様と話したいから、取り合ってちょっと大変な事になってるんだと思います」

「そうですか」

「変ですよね…あ、」

 思わず漏らした本音に、ユズリンデは慌てて口を覆った。神官見習いの癖に、神様と話す栄誉を欲しがる神官を変だなんて。

 ちょっとばつの悪い思いでちらりとリツを見れば、うん?と続きを促すように微笑んでいた。ユズリンデはそれに勇気を得て、ちょっと左右を見渡すと小さい声で続ける。

「何か、変だなって思うんです。…聖女様が、あの、亡くなって、町の人がちょっと冷静になったというか。でもそれを、上の人たち目の色変えて焦ってるみたいで。凄くぴりぴりしてるし…何でかわかんないけど、変です」

「…あぁ…」

 ぽつりと最後は呟くように言ったユズリンデに、リツが納得するように頷き、静かにスプーンを置いた。元よりあまり入っていなかった皿はカラになり、少し申し訳ない気持ちになる。

「政教分離という言葉を知ってますか」

「せい…?知りません」

「国の宗教的活動や援助を禁じて、宗教の特権や政治上の権力行使を認めないという事です。国の政と宗教は切り離しましょうって考えですね」

 聞いた事もないそれに、ユズリンデは目を丸くした。非常識な話だと思う。だって大聖堂も王宮も、混ざり合って一緒なのが当たり前だ。大神官と王様どちらが偉いかなんて考えた事はないけれど、そういえばどっちが偉いのかなと思った。そんなユズリンデを見ながら、リツが軽く目を伏せて、物語りでも読むような顔で口を開く。

「何故こんな考えが出たのかといえば、…まぁとてもぶっちゃけて言えば、人がとても単純だからだと思いますよ。単純であるからこそ、人は単純明快な思想に傾倒する。それはつまり、正義であり使命であり大儀であり理想です。そして神。これら存在は目に見えないけれど、とても耳さわりのいい言葉でしょう。野心を隠し摩り替える物としてはあまりに便利な代物なんです。「神」の名の下に「正義」を掲げれば、それこそ戦争だろうが人殺しだろうが「聖なる行為」として「合法」になるから」

 ユズリンデにそう言いながら微笑むリツに、神に仕える者として反論の言葉を捜した。ここの神様はそんなものじゃないし、国だってとても善政が続いている。―――けれど、リツの目を見ていると、どうしてか何の言葉も出てこず、開きかけた口は閉じる事になった。リツはユズリンデを見ていたけど、見ていないのだ。いや、見ていないというか…。

(誰?誰を、見てるの?)

 リツの目は、ユズリンデを通して別の人物を見ている。とてもとても気になるが、聞いてはいけないような気もした。

 ふと、そのどこか揺らいでいた目が焦点を結んだ。きちんとその視界にユズリンデを捉える。

「上の人はね、権威が揺らぐと思っているんですよ。だから今一度みんなの心を向けたくて必死になってるだけ。―――ほっときなさい」

「…はい」

 頷いたユズリンデに、リツが微笑んだ。ユズリンデは思った。どうして、リツは指名手配犯なんだろうかと。どうしてそんなことになったのか、こんなにも優しくて傷ついている人なのに、どうして、と。

 ―――組織において、正しき者が支持されるとは限らない。

 昨年亡くなったユズリンデの祖父の言葉を、何故だか思い出した。


 ―――偉い人が絶対に正しいと思い込むのはいけない。人であれば間違うことだっておありになる。大聖堂とは平等を掲げる組織だけれど、組織の根幹というのは議論なんだ。お話し合いだ。

 お話し合いというのは平等じゃない。組織のお話し合いで勝つのは論理じゃなく、力だ。少数ではない、多数だ。

 わかるかいユズリンデ、勝つのは正義ではなくて、数という力なんだ。


 ユズリンデは食器を横へやり、また縛られるために手を合わせて待つリツを見つめた。別にこんなたったちょっとの会話で、リツに心を許したわけではない。助けなければ、なんて事も考えたりしない。ただ、何だか変だと思うのだ。とてもとても、釈然としない。

「ほら、早く縛らないと。そろそろ決着もつくでしょうから、上の人がきちゃいますよ」

「…はい」

 彼ら焦っているしねと笑うリツに、ユズリンデは頷いて一つ溜め息を落とした。

 どちらにしろ、下っ端であるユズリンデにリツをどうこうできる力はないしリツ自身もそれを望まないと思う。そんな、母に良く似た目でユズリンデを見るリツはきっと。

「…それじゃ、たぶん神官の誰かが呼びにきますから、それまで待っていてくださいね」

「わかりました」

「で、では失礼します。いろいろ、お話してくださってありがとうございました」

「いえいえ、こちらこそ」

 微笑むリツの手を縛ると食器を持ち、ユズリンデはもやもやする心を振り払って拘束室から出た。―――出ようとしたところで、足を止めた。

「―――ゆず、リンデ」

 振り返った先に、さっきと全く同じ位置と体勢で、リツが無表情に天井を見つめていた。

「幸せになりなさい。幸せに、長生きして…どうか、毎日笑っていて」

「――――っ、」

 扉を閉めた。焦りすぎて、扉はとても大きな音がしたが構っていられなかった。ユズリンデは後ろを振り返らず、一生懸命に走った。解ってしまったのだ、リツがユズリンデに何を重ねていたのかを。今の言葉が、本当は誰に向けてのものなのかを。瞳からとめどなく零れ落ちるものがなんであるのか、決して考えないようにしてただただあの場所からできるだけ遠くへ行かなければと思った。

 そうでなければ、ユズリンデはきっと、自分が神に背いてしまう事を知っていた。




 ユズリンデが先輩にリツが礼拝の場へ連れて行かれたと聞いたのは、そのすぐ後のこと。



 

耳障りでなく耳さわり。

ミス指摘ありがとうございます。日本語としては無いけど耳に触るというこの表現なんか暖かくて好きなので、やはりこのままで

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