150 泣く権利もない《ハロルド》
薬瓶が砕けた音に、流石のプリシラも逃げ出そうとしていた足を止め、恐る恐る振り返った。
その顔からは、見る見る内に血の気が失せていく。
「……あ、あの、……ちがっ……、違うの。違っ、態とじゃ……態とじゃ、なくて…」
しどろもどろの言い訳を吐くプリシラの大きな瞳には、ジワリと涙が滲み出る。
『違う、違う』と呟きながら、彼女はきっと、誰かが慰めの言葉を掛けてくれるのを期待していたのだろう。
だが、生憎ハロルドは、今にも泣き出しそうな目の前の女に対して、優しい言葉を掛けてやる気にはなれなかった。
それはハロルドに限った話ではなく、この場にいるクリスティアン以外の全員が、プリシラに毛虫でも見るような眼差しを向けていたのだ。
ハロルドが、ハァ……と大きな溜息を吐き出すと、プリシラは大袈裟に肩を震わせた。
そうやって自分を哀れに見せて同情を買おうとする女は、ハロルドが一番苦手とするタイプである。
正直に言えばプリシラの気持ちなんて知ったこっちゃ無いが、百歩譲って、急に治癒魔法が使えなくなってショックを受けたのだけは理解してやっても良い。
しかしながら、自分の犯した失態について謝りもしないその態度は、人としてどうなのか?
「誰も君が故意に薬瓶を破損させたなどとは思っていない。
だが、そんな言い訳よりも先に、言わねばならない言葉があるはずだろう?
謝罪すら出来ないのであれば、幼児教育からやり直せ」
「ご、ごめ、ごめんなさい。
でも……、そんな言い方しなくても……。
私だって悪かったと思って……」
ポロポロと大粒の涙が、プリシラの白い頬を伝って落ちる。
「貴重な薬をダメにしたのだから、悪いと思うなど当たり前の話だろう。
何でも泣けば許されると思ったら、大間違いだ。
君には泣く権利すら無い。
そもそも、王都からここまでの距離は馬車で一週間ほどのはずが、天候も悪くなかったのに、君達がここに着くまでその倍以上の時間がかかった。
道中、さぞや楽しんだのだろうな。観光旅行とでも勘違いしていたのか?
本当に泣きたいのは、君達が楽しく遊んでいた間、高熱に苦しんで意識さえも朦朧としていた村民と、自らも感染する恐怖に耐えながら、睡眠さえも削って彼等を看病していた医療関係者達だ」
怒鳴りつけたいのを我慢して、淡々と温度の無い声で言い聞かせると、プリシラはヒュッと小さく息を呑んだ。
その瞳は濡れたままだが、もう涙は流れていない。
(ほら見ろ。やっぱり止めようと思えば止められるんじゃないか)
ある程度年齢を重ねれば、必要に応じて自分の感情を抑える事を覚えるのが普通だ。
貴族子女であれば、尚更である。
だが、おそらくプリシラは、まるで幼子の様に感情のまま涙を流してしまうのだろう。
嘘泣きとまでは言わないが、何とも安っぽい涙である。
「連れて行け」
背後に控えていた部下達に指示を出すと、その内の一人が「はぁい」と気の抜けた返事をして、プリシラの前に歩み出た。
「プリシラ・ウェブスター嬢。
アンタの現在の保護者である教皇猊下が、故意に感染症ウイルスをばら撒いた罪で逮捕された。
その件に関して、アンタにも話を聞く必要があるんで、ご同行を」
「…………は?
そ、そんな……。何かの間違いでは?」
「間違いだったら良かったのにねぇ。
因みにコレは、お願いじゃなくて命令だから。
拒否するなら無理矢理連れて行く事になるけど、どうする?」
「貴様、無礼であろう!!」
薄ら笑いを浮かべながらそう言ったハロルドの部下に、クリスティアンが食ってかかる。
「何処が? どうして?
そもそもウェブスター嬢って、まだ聖女として認定されてもいない、ただの男爵令嬢ですよねぇ?
だったら、俺の方が身分が上だ。こう見えても一応、伯爵家の三男なんっすよ。
しかも、さっきの様子を見るに、ウェブスター嬢は治癒の魔法が使えなくなったみたいじゃないっすか。
コレが一時的な物じゃなく完全に使えなくなったなら、彼女は聖女候補ですらない」
「プリシラは私の愛する人なのだから、敬意を払うべきであろう!」
「クリスティアン様……」
ハロルドの部下とプリシラの間に立ちはだかるクリスティアンを、プリシラは感動した様な眼差しで見上げた。
「あ、そういう茶番みたいなのは要らないんで、さっさと同行してもらえませんか?」
「茶番とは何だっ!!」
「どう見ても茶番以外の何物でも無いでしょう?
クリスティアン殿下にも話を伺いますので、向こうへ着くまではお二人ご一緒で構いませんよ。
勿論、コレもお願いではありません」
「何故我々が、貴様に従わねばならんのだ!」
「あー、もう面倒臭いなぁ……」
部下はハロルドにチラリと視線を送り、無言で指示を仰いだ。
それに対してハロルドは、小さな頷きを返してやる。
「よっしゃ。
じゃ、失礼しまぁす」
上司からのお許しが出たので、彼はクリスティアンの右手首をガシッと掴んで拘束した。
「何をするっ!!」
「暴れると後悔しますよぉ」
クリスティアンは掴まれた手を振り解こうと、力一杯藻搔いた。
「あーあ、無駄な抵抗を。
一応警告はしましたからねぇ」
部下がのんびりとした口調でそう言った瞬間、ズダンッと大きな音がして、クリスティアンの体は床に倒された。
両足を払われたのだが、あまりにも一瞬の出来事で、おそらく本人は何が起こったのかさえ分からなかっただろう。
「私の部下は見た目に反して気が短いのだよ。
彼だって出来れば女性に乱暴な真似はしたく無いだろうから、そうなる前に、大人しく言う事を聞きなさい」
ハロルドに諭されたプリシラは、青い顔で何度も頷いた。
ウイルスを撒いていた実行犯も捕まり、患者の数も減ったので、外部から来た騎士や医療関係者の大半が任務を終えて既に帰路に着いている。
対策チームが大所帯だった頃はテントを張って寝泊まりしていたが、人数が減った今は近くの街の小さな宿屋を一棟借りて、活動拠点を移していた。
プリシラとクリスティアンが連れて来られたのも、その宿屋である。
二人は別々の部屋に押し込められ、これまでの経緯を厳しく聴取された。
大方の予想通り、二人は犯罪行為には加担していなかった。
しかし、クリスティアンに関しては『あわよくば兄の代わりに王太子になりたい』という思いがあったらしい。
心の中で思うだけならば、どんな分不相応な野心を抱こうが、自由ではある。
だが、今回はその野心を教皇に突かれたのだから、大いに反省してもらわねばならない。
実際、教皇に『私はクリスティアン殿下の方が玉座に相応しいと思います』などと甘い言葉を吐かれ、益々その気になっていた様だ。
そもそも、王族が簡単に悪人に利用されそうになるなんて、大問題である。
事情聴取の際、教皇の犯した罪ついて詳しく聞かされた二人は、遅れ馳せながら事の重大さを理解したらしく、すっかり大人しくなった。
治癒魔法も役に立たなかったので、もう彼等がここに居る意味はない。
事情聴取が済んだら、速やかに王都へと移送される予定だ。
往路と違って、今回は必要最低の休憩のみしか許されない。
そして彼方へ戻ってからの彼等の処遇は、相当厳しいものになるだろう。




