105 トラブル発生
乗馬クラブに到着し、アイザックをトムがいる厩舎の中へと案内する。
「こちらが私のトムです!」
愛馬を紹介すると、アイザックの眉がヒクリと引き攣った。
「うん。
間違ってはいないけど、なんとなく面白くない表現だよね」
「どういう意味です?」
「分からないなら良いや。
オフィーリアは相変わらずだな」
アイザックの言葉の意味は不明だけど、なんとなく貶されている様な気がして、私はちょっと唇を尖らせた。
「こんにちは、トム。
僕はオフィーリアの婚約者だよ」
自己紹介しながらアイザックがソッとトムに近付くが、プイッと顔を逸らされてしまった。
「あら? いつもは人懐っこいのですが、今日はご機嫌斜めみたいですね。
初対面だから、ちょっと警戒しているのかしら?」
「まあ、その内慣れるんじゃないか?」
「そうですね」
取り敢えず、厩舎から出して馬場の方に連れて行ったのだが、どうにも落ち着きが無い。
「なんか、済みません。
騎乗して街に出ようかと思っていたのですが、どうやら無理そうですね」
「今日は顔合わせに来たと思えば良いさ。
馬だって生き物だから、機嫌が悪い時くらいあるだろう。
もしかしたら体調がおかしいのかもしれないから、後で獣医に診せた方が……」
アイザックの言葉を遮る様に、突然トムが大きく嘶き、暴れ出した。
「キャッ……」
予期せぬ動きに対応しきれず、私は地面に引き倒される。
頭上にトムが跳ね上げた前脚の影が出来て───。
(あ。コレ、死ぬかもな)
頭では冷静にそう判断出来ているのに、体は全く動かせない。
振り下ろされるトムの前脚が、スローモーションみたいにゆっくりとした動きに見えた。
「オフィーリア!!」
アイザックの悲痛な叫び声と共に、私の腰に腕が回され、強い力で引き寄せられる。
どうやらギリギリの所で頭をかち割られずに済んだらしい。
騒ぎを聞いて駆け付けたクラブの職員達が数人がかりでトムを取り押さえ、常駐の獣医が鎮静剤を注射する。
私は地面に蹲りアイザックに抱きかかえられたままの状態で、呆然とその様子を眺めていた。
「……アイザック?」
私も震えが止まらないが、アイザックの方が大きくガタガタと震えている。
心配になって見上げた彼の顔は、完全に血の気が失せていた。
「き、君を……、失う、かと………」
頼りなく掠れた声が、震える唇から紡ぎ出される。
私はソッと両手を伸ばし、彼の青褪めた頬を温める様に包み込んだ。
「大丈夫。生きていますよ。
アイザックが助けてくれたお陰です」
「……良かった……。本当に、良かった……」
その瞬間、大粒の涙がアイザックの水色の瞳から零れ落ちた。
「……っ」
アイザックは慌てて顔を逸らそうとしたが、私は頬に添えた手に力を込めて、それを許さなかった。
体を少し起こして、彼の頬を伝う涙を唇で拭う。
すると、アイザックは大きく目を見開いて固まってしまった。
そして、次の瞬間、血の気を失っていた彼の頬に急激に赤みが戻って来る。
「……え? ……は?」
気の抜けた様な声を漏らしたアイザックが可笑しくてフフッと笑ったら、思い切り強く抱き締められた。
まだ少し震えている背中を、彼が落ち着くまで何度も撫でた。
転倒した時に足を捻ってしまった私は、アイザックに抱き上げられてヘーゼルダイン公爵邸へと運ばれ、妙に豪華で広い部屋のベッドの上に降ろされた。
「えーっと……、このお部屋って客室……ではないですよね?」
「うん、僕の妻の部屋だね」
だよね。
だって、部屋の中に謎の扉(多分、夫婦の寝室に繋がってるヤツ!!)があるもの。
「婚姻前にこの部屋を使うのは……」
「大丈夫。共用の寝室は、まだ封鎖されてるから」
「……」
いや、何も大丈夫じゃないと思うのだけど。
ってゆーか、客室で充分じゃない?
しかし、部屋を移りたいなんて言ったら、一瞬しか使わなかったこの部屋のリネン類をメイドさん達が交換したり、新たに客室の用意をする必要がある。
私が我儘を言えば、二度手間になってしまう。
ベッドに降ろされてしまった時点で手遅れだったのだ。
多分、私が使用人の仕事を増やすのを良しとしない事まで、全て計算づくである。
移動を諦めた私はニッコリ笑うアイザックに胡乱な視線を向け、小さく溜息を零した。




