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第1話「三十七歳、残業中に消える」

『――俺の魔法で、この世界を変えてみせる!』


 画面の中で黒髪の少年が叫んだ。


 次の瞬間、部屋が消えた。


 テレビも、食べかけの冷凍チャーハンも、脱ぎっぱなしの靴下も、八月の夜のエアコンの音も。何もかもが一度に消えて、豊島しげるは白い場所に立っていた。


 白い、としか言いようがなかった。


 床があるのかも分からない。壁も天井もない。ただ、どこまでも白い。


「……え?」


 声は出た。耳は生きている。


 しげるは自分の手を見た。小さくて、柔らかい手。ワイシャツの袖。会社から帰ってきて、着替えるのも面倒でそのままだった半袖のワイシャツだ。


「え、ちょっと……え?」


 誰もいない。返事もない。


 夢だ、と思った。思おうとした。


 だって、ついさっきまで普通の夜だった。


 どこにでもある、いつも通りの夜だった。


    ◇


 その日、しげるは二十一時過ぎまで会社にいた。


 中堅の食品卸に勤めて十五年。営業事務、受発注管理、役職は主任代理。「主任」ではない。「代理」が付く。十五年勤めて、付いたのはそれだった。


 月末で、請求書の確認が残っていた。


 一度確認した。二度目も確認した。それでも不安で、三度目を見ていた。数字は合っている。合っているのは分かっている。分かっているのに、確認をやめられない。間違っていたら誰かに何か言われる。それが嫌で、確認だけが延びていく。


「豊島さん、まだやってるんですか」


 後輩の新田が、帰り支度をしながら声をかけてきた。二十七歳。今度結婚するらしい。


「あ、うん。もうちょっとだけ」


「それ、明日でいいやつですよね。帰ったほうがいいですよ」


「大丈夫、大丈夫。きりのいいとこまでやっちゃうから」


 新田は少し困ったような顔をして、「お先です」と頭を下げて帰っていった。


 悪いやつではない。むしろ、いいやつだ。若くて、婚約者がいて、仕事も覚えが早い。だからこそ、なんとなく目を合わせづらい。向こうは何も悪くないのに。


 結局、きりのいいところは二十一時までやってこなかった。


 帰りにコンビニで発泡酒と冷凍チャーハンを買った。レジの店員に「温めますか」と訊かれて「あ、大丈夫です」と答えた。家の電子レンジでやるからだ。


 アパートに着いて、スマホを見た。


 大学の同級生が、家族で海に行った写真を上げていた。子供が二人、砂浜で笑っていた。しげるは何も押さずに画面を閉じた。いいねを押すのも、押さないのも、どちらも何かの表明になる気がして、いつも閉じるだけになる。


 机の上には、先週届いた封筒が置きっぱなしになっていた。


 会社の健康診断の結果。表に「要再検査のお知らせ」と印字されているのが、封を開けなくても透けて見えた。


 開けていない。


 開けたら、病院を予約しないといけなくなる。予約したら、半休を申請しないといけなくなる。申請したら、課長に理由を訊かれる。そこまで考えて、面倒になって、封筒は一週間、机の上にある。


 どうせ大したことない。太ってるから引っかかっただけだ。大丈夫だろう。


 チャーハンを温めて、発泡酒を開けて、テレビをつけた。


 深夜アニメがやっていた。異世界に転生した少年が、チート能力で無双する話だ。少年は魔王の軍勢を一撃で吹き飛ばし、仲間の少女たちに囲まれて、まっすぐな目で言うのだ。俺の魔法で、この世界を変えてみせる、と。


「……いいよなあ」


 しげるは、チャーハンを口に運びながら呟いた。


 いいよなあ。異世界。チート。


 才能があれば。力があれば。何か一つでも、人と違うものを持っていれば。


 俺だって――


 そこで、部屋が消えたのだった。


    ◇


「いや、いやいや。待って。待ってください」


 白い空間で、しげるは誰にともなく言った。


 頬をつねった。痛い。夢なら痛くないはずだ、というのが本当かどうかは知らないが、とにかく痛かった。


 歩いてみた。足音はしないのに、進んでいる感覚だけはある。十歩ほど歩いて、振り返った。何もない。目印になるものが何一つないから、進んだのか戻ったのかも分からない。


 心臓が、遅れて速くなってきた。


 誘拐。ドッキリ。脳の病気。急性の、何かやばいやつ。


 再検査、行っておけばよかった――と、場違いな後悔が頭をよぎった。


「大丈夫。大丈夫だ、俺。落ち着け」


 口に出して言った。誰にも保証されていない「大丈夫」を、自分に言い聞かせるのは癖だった。二十年来の癖だ。


 深呼吸をする。腹の肉がベルトに乗る感触がある。身体はいつも通りだ。三十七年間付き合ってきた、垂れ目で、猫背で、腹の出た身体。


 スマホ――と、ポケットを探った。


 ない。


 財布はある。家の鍵もある。なのにスマホだけがない。さっきまで手に持っていたはずなのに。


「なんで……」


 助けを呼ぶ手段が消えた、と理解した途端、膝から力が抜けそうになった。


 誰か。


 誰でもいい。


 説明してくれる人。指示をくれる人。これはこういうことで、あなたはこうすればいい、と言ってくれる人。そういう人がいてくれたら、自分はちゃんとやれるのに。


 昔からそうだった。決められた仕事はできる。言われたことは守れる。ただ、誰も何も言ってくれない場所が、一番怖い。


「すみませーん……誰か、いませんかー……」


 情けない声が、白い空間に吸い込まれて消えた。


 そのときだった。


「おお、すまんすまん。待たせたのう」


 背後から、声がした。


 しげるは飛び上がって振り返った。


 老人が立っていた。


 白い髪、白い髭、白い衣。この空間と同じ色をした、小柄な老人。どこから現れたのかは分からない。ただ、いつの間にかそこにいて、飄々とした顔でしげるを見上げている。


 人がいた、という安堵が先に来た。


 その次に、まともな人間ではあり得ない、という理解が来た。


 しげるは、乾いた喉で、どうにか声を出した。


「……神様?」

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